阿射加神社(小阿坂):三重県松阪市小阿坂町120

阿射加神社(大阿坂):三重県松阪市大阿坂町670

 

瀧原宮周辺を訪れたあと、松坂を目指した。伊勢志摩の域内はどこへ行くにもアクセスがよく、車であれば1時間以内で目的地に到着する。松坂で伊勢神宮関連の観光地といえば斎宮跡なのだが、近くには皇大神宮所管社の神服織機殿神社と神麻続機殿神社の二社(およびそれぞれの末社八社)が坐す。神服織機殿神社は伊勢神宮の神御衣(かんみそ)祭に供える和妙(にぎたえ、絹布)を、神麻続機殿神社は荒妙(あらたえ、麻布)を織る機殿の鎮守として祀られた神社だ。両社の立地は2km強と至近で、そのありようは非常によく似ている。田畑の中にこんもりとした森があり、参道奥に白石を敷き詰めた斎庭。その中に機を織るための建物、八尋殿と神社本殿が並ぶ。鳥居正面の八尋殿の方が大きいのでこちらを神社と勘違いするが、織子が奉織する際に籠る場所であって、ここに神は祀られていない。付近には織殿神社や麻績神社など紡織に関係のある神社もある。古くは織物を生業とする氏人が多かった土地柄なのだろう。

 

神服織機殿神社

 

 

神麻続機殿神社

 

神麻続機殿神社は、拙稿「諏訪の天白を訪ねて」https://ameblo.jp/zentayaima/entry-12435267171.html

で触れた天白神の祖となる神社であり、写真でその社叢を見てぜひ一度訪れたいと思っていたのだった。それにしても両社の社叢は、遠めに見ても中に入っても見事で、いかにも神坐す森といった趣きだ。伊勢神宮は、内宮、外宮、そして二見興玉神社を除けば、ほとんど人の気配はない。深く静謐な森は、神々とふれあう時間をたっぷりと与えてくれる。

 

伊勢神宮といっても125社あって、もちろんそのすべてを踏破したわけでもなく、あるいはする気もさらさらないのだが、中には尖った聖地がある。たとえば、内宮末社の津布良神社は社名が墓(古墳)を指す古語であり、内宮の禰宜を務めた荒木田氏の祖霊社といわれ、祭事の後には後ろを振り返ってはならないなどの禁忌もあって、すこぶる好奇心を擽られる。だが、おもしろみからすれば、所管社ではないが神宮に関わりのあった周辺の社寺の方に見るべきものが多い。本稿で紹介する阿射加神社も神宮に列するわけではないが、元伊勢(皇大神宮儀式帳:壱志 藤方片樋宮、倭姫命世記:阿佐加 藤方片樋宮)であり、延喜式神名帳に名のみえる伊勢国の名神大社で、往時は多度大社に比肩する聖地であったようだ。

阿射加神社(小阿坂)への道。背後の低山が阿坂山

阿射加神社は、阿坂山(枡形山、312m)の東麓、小阿坂町と大阿坂町にそれぞれに鎮座している。両社の距離は2kmもなく、阿坂山を仰ぎ見るように並んでいるといってよい。言われなければ気づかないのだが、この山は左右対称のいわゆる神奈備であり、麓の神社はこれを迎える形で設けられたものと思われる。

 

まずは小阿坂町の阿射加神社だ。一の鳥居をくぐり、参道を進むと二の鳥居に続いて石の神橋があり、三の鳥居をくぐった先が社殿。ここには猿田彦大神、伊豆速布留大神、竜天大神を三柱を祀る。

右手奥には摂社大若子社と調舎(ちょうのや)がある。大若子命は倭姫命が当地に随行した神であり、調舎では御火試、御粥試と称する農耕神事が行われる。また、古くは両社とも竜天大明神と通称されており、水、つまり農耕と深いつながりがあったという。

 

 
 

調舎を覗いてみると、中には沖縄のシーサーによく似た素朴な石造りの狛犬?がたくさん納められていた。前段で触れた神服織機殿神社、神麻続機殿神社とは、社殿はじめまったく佇まいが異なる。熊野でよく見かける「土地の手触り」のある神社なのだが、一方で僕は尖った神々の気配を感じた。

 
 

大若子社と調舎内の狛犬

 

その気配は大阿坂を訪れた時に一層強いものとなった。小阿坂よりもかなり長い参道を行く。風が樹々を揺らしている。しばし立ち止まり、地霊の声に耳を澄ましてみる。風のせいもあって、心がざわつく。とびきりの聖地で感じる”あの”感覚だ。神々にこちらを品定めされているようでどこか心もとない。小さな石橋を渡り、割拝殿をくぐり、対峙する。



 

ただならない気配がある。扉の向こう側からの圧がものすごく、押し戻されそうな気すらする。社殿に神はおらず、御神体があれど大したものではないとわかってはいるが、この場所に漂う独特の空気はとても重たいものだった。参拝者の受け取り方次第では、負のパワースポットになるかもしれない。右手には小阿坂社に同じく大若子社があり、境内のつくりは非常によく似ているが、僕は大阿坂社の方により畏怖を覚えたのだ。

 



 

大阿坂社の社頭の案内板から由緒を引いておこう。

 

第十一代垂仁天皇十八年夏四月、皇女倭姫命が天照大神の神霊を祀る地を探し阿佐賀の地を訪れ荒ぶる神伊豆速布留大神を大若子命をもちて鎮めさせ阿佐賀山の峰枡形地に社殿を造り種々の幣物をもたらし祭ったのがこの神社と言われる(神道書、倭姫世記) 阿射加神社は平安朝時代から社格の上からも朝廷から破格の崇敬を受け、835(承和2)年従五位下、850(嘉祥3)年従五位上、855(奇衡2)年従四位下、858(貞観元)年従四位上、866(貞観8)年従三位を伊勢国阿耶賀神に授け奉ると昇叙の記が見られ第六十代醍醐天皇延長5(890)年延喜式内大社の格に編入され延喜式神名帳に伊勢国阿射加神社三座並名神大社なり二八五座の内となる猿田毘古神座阿耶訶と古事記にも見られる古社である。伊勢国司北畠満雅慶永年中阿坂山に砦を築く時に社地を山より今の地に遷したと記されている。(後略)

 

延喜式神名帳には三座とあり、比定されているのは大阿坂、小阿坂の二社だ。三座とは祭神の三柱(猿田彦大神、伊豆速布留神、竜天大神、異説あり)を指していると思われるが、であればなぜ二社に分かれているのだろうか。また、主祭神は猿田彦大神だが、倭姫命世記には当地の神は伊豆速布留神とされ、「百人通れば五十人、四十人通れば二十人とり殺す」悪神として描かれている。先住の族長を猿田彦が平らげたのかなどと空想してみるが、いかんせん浅学の僕にはちょっと手に負えない。

 

倭姫命世記(出典*1)

 

古事記には、阿耶訶の地と猿田毘古のエピソードが見える。天孫降臨で邇邇芸命を天の八衢で出迎え、先導した猿田毘古神は、後に阿耶訶の地で漁をした時に比良布(ひらぶ)貝に手を挟まれ、海に沈んで溺れてなくなったというのだ。阿坂の地は、海から7、8km入った山裾にあるので、海岸線、地名が動いたのかと思ったが、そうではないらしい。帰京して資料をあたってみると、そこにはめくるめく物語があった。少し長くなるが民俗学者、谷川健一の論考の結論部分だけを引いておく。

 

「インドネシア系の南方説話をもった人たちが沖縄をとおって、黒潮のまにまに日本本土に定着した。それの経路はもはやたしかめるすべはない。しかし伊勢の海岸にきたことは確実である。なぜならそれはインドネシア系の説話だけでなく、沖縄の方言までもが持ちこまれているからだ。その説話というのは猿がアザカ(シャコ貝)に手をはさまれて溺死するというものにすぎなかった。しかし、シャコ貝を呼ぶアザカという方言の意味は、いつしか分からなくなった。そこでアザカはその説話をもってきた人びとの住む海岸であるということになり、その代わり(タイラガイを思わせる)ヒラブ貝を新しく登場させた。阿耶訶は地名として本居宣長がいうように、海岸部から山のふもとまでふくむことになった。(中略) このようにして、阿耶訶という単語がみちびき出す意味は少なからぬものがある。なぜなら天皇制国家形成のはるかまえに、南方から渡来した人びとの足跡はすでに三重県にまで及んでいたことが明らかになったからである。そして天皇制国家がいかに庶民の伝承をみずからの神話の権力構造のなかに再組織することをはかろうとも、包摂しきれない肝心の部分はのこることを示しているからである」(出典*2)

 

以上、谷川の「古代史ノオト」所収の「シャコ貝幻想」という小論に触れたが、非常にスリリングな論考で、この話題は出雲の加賀の潜戸、そして佐太大神へと展開され、さらには「サルタヒコの誕生」という次章に続いていくが、ここではこのくらいにしておこう。とにかくサルタヒコという神は謎めいていてとてもおもしろい、来月は久々に出雲に旅をするので、あのあたりの海民の痕跡、サルタヒコとの関係もみずからの足でたしかめてくるつもりだ。

 

はたして大阿坂で感じたあの剣呑とした空気は、先住の伊豆速布留神のものだったのだろうか。

 

(2021年3月27日)

 

出典

*1 禰宜(度会)五月麻呂「倭姫命世記(伴信友遺書)」国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533542

*2 谷川健一「シャコ貝幻想」 『増補古代史ノオト』所収 大和書房 1986年

 

参考

櫻井治男「阿射加神社」 谷川健一編『日本の神々−神社と聖地 第六巻 伊勢・志摩・伊賀・紀伊』白水社 1986年

谷川健一・宇治土公貞明・鎌田東二「座談会 大地の復権、神の復権 -猿田彦をめぐって」 鎌田東二編著『謎のサルタヒコ』所収 創元社 1997