伊雑宮:三重県志摩市磯部町上之郷364

上之郷の石神:三重県志摩市磯部町上之郷464

倭姫命旧蹟地:三重県志摩市磯部町上之郷441

千田の御池:三重県志摩市磯部町上之郷324

磯部神社:三重県志摩市磯部町恵利原1250

佐美長神社・佐美長御前神社四社:三重県志摩市磯部町恵利原


宿泊先の渡鹿野島に着いた直後から雲行きは怪しくなりはじめ、夕食時には雨がかなり繁くなっていた。この島は過去に不名誉な俗称で呼ばれた時期があって、そのイメージの払拭に島を挙げて取り組み、いまではリゾートとしてたいへん賑わっている。夕食には、冬は伊勢海老、夏は鮑に加えて、的矢牡蠣に松坂牛など所狭しと並ぶ。さすがは御食国だ。この島はかつて伊雑宮の神領であったといわれ、近世には江戸大坂を結ぶ廻船の風待ちの港としてもたいへん栄えたという。

翌日は晴れた。朝一番で対岸の阿児に船で渡してもらう。海から眺める陸地に建物はなく、こんもりとした森だった。古代にこのあたりを根拠地とした磯部の民も同じ景色を眺めていたのだろうか。悠久の歴史といわれるが、人間の感覚を物差しとした時間など大したことではないように思えてくる。島からの距離は500m、船はすぐ対岸に着いた。


伊雑宮の境内は森の清々しい空気に満ちていた。神職と作業着を着た男性の二人が竹箒で参道を掃き清めている。社殿はさして広くはない境内の奥にあり、御神田の方、真南を向いている。日神を祀る意味もあったのだろうか。

参拝を済ませ、宿衛屋の脇から森の中に入ってみる。整然とした杉の木立が続く瀧原宮とは異なり、手入れはされているのだろうが一種原生林の趣きもあって、神住まう森といった感が強くする。三光鳥の啼き声がした。嘴と目の周りが青く、尾の長い美しい鳥で、ツキヒーホシ(月日星)と囀るのでこの名がついたとされている。僕にはそうは聞こえないが、その声はこの森の中にいるからか、神秘的ともいえる趣きがある。姿を追って樹上をしばらく見上げていたが、お目にかかることは出来なかった。


古社の周囲には他にも必ず神々の痕跡がある。伊雑宮を出て、近隣を散歩することにする。裏手の坂を登ったところ、旧村社谷社の背後、雑木と竹の混ざった林の中に「上之郷の石神」とよばれる典型的な磐座がある。これは思いもよらぬ見つけものだった。石の散らばり方は絶妙で、人為が加わったことを感じさせる。三輪山あたりの磐座に似ていなくもない。仮に伊雑宮の成立が皇大神宮(文武二年、698年)と前後するならば、あるいは伊雑宮より古くから祀られていたかもしれない。

中に入ると空気が変わる。地霊が祀られていることがよくわかる。人はなにもないただの場所を聖地にはしない。このあたりに古墳は確認されていないが、聖蹟があったのだろうか。谷社の由縁も不明だが、上之郷の産土神のひとつではあったのだろう。

いったん伊雑宮の裏手まで戻り、家並みの間の細い路地をいく。家屋と森に囲まれた一角に、あずまやが建っていた。手前に倭姫命の旧蹟とされた場所がある。大正時代にここにあった楠を樟脳の材として伐ったところ、天井石の下に鏡や勾玉が出土した。これら品々は官憲によって持ち去られ、それ以上の発掘調査は封じられたという。

里人がいう倭姫命の旧蹟かどうかはさておき、天井石は横穴式石室の蓋である。出土品からするとこの下に墓があるのかもしれない。当時、当地には先代旧事本紀大成経事件(注1)の記憶が残っていた筈で、ヘンなものが出てきたので始末に困ったということなのかもしれない。

かつてこの地は行基の開基とされる古刹、無量山千田寺だったが、1878年(明治11年)に焼失、廃寺となった。境内には倭姫命が引水したとされる千田の池が、付近には持統天皇の行幸時に建立された勅旨門があったという。(出典1)   現地に立つ案内板によれば、この千田の池には、倭姫命がこの地で真名鶴が一莖千穂の稲穂をくわえ飛び鳴くのを奇瑞とし、稲を天照大神に献じて、この地に引水田と苗代をつくった伝承があるという。


谷川健一は「鶴や鷲が海の彼方のニライから稲の穂をくわえてきたという説話は奄美や沖縄の久高島に見られるものである」とし、「南島の説話が、伊勢志摩の海人族の間にもたらされたことだけはまちがいない。(中略)かくして志摩の磯部を出発した海人族の信仰は、彼らが櫛田川のほとりに移動し、のちに宮川や五十鈴川のほとりに定着したときに一層具体的な神話となっていったと思われる」としている。(出典2)


さて、伊雑宮に戻り、御神田を眺めてみる。日本三大御田植祭といわれるだけあって、ここで行われる祭はさぞかし壮大だろうな、などと思いながら一礼して鳥居をくぐった時、左後方から僕を咎める女性の声がした。「そこに入らないでください!」。「は?」(御神田はともかくとして、手前の芝生は不入地ではないのだ)。さらに「花を踏まないでください!」(花などないのだ)困った人もいるものだと思って振り返ると、参拝者の一人らしい。人を外見で判断してはいけないが、いかにもの態の女性が自転車の傍らでこちらを睨んでいる。そういえば、伊雑宮でもこちらの参拝や撮影が終わるまで、忌火屋殿の前でじぃーっ、、、と様子を窺っていて、気味の悪さを覚えたのだった。 くわばらくわばら。伊雑宮の森の全景を撮影して、すぐにそこを立ち去った。

聖地に赴くとたまに少々おかしな人たちに出会う。気分はあまりよくなかったが、きょうはよしとしておこう。問題はお祭り騒ぎをする人たちだ。恐山にも宇曽利湖のほとりで焚火をする集団がいたと聞くが、知人によれば伊雑宮にも東京西部を拠点とする某新宗教の教団の面々が押し寄せ、出入り禁止になったという。因みにこの教団はかなりのトンデモで、かつて東京都から宗教法人格を取り消された際に七福神に扮して記者会見を行うなど、とにかく笑えるエピソードには事欠かない。教祖は事業欲も旺盛で、出版、学習塾、近年はブランド時計の販売など、さまざまな事業を手掛けるとともに芸術、スポーツなどの振興にも努めており、一面では名士らしい。


閑話休題。今度は磯部神社に赴く。前稿の「瀧原宮あたり」でとりあげた岩瀧神社に同じく、こちらもやはり神社合祀政策に伴い、磯部郷内で祀られていた神々を合祀した神社だ。その神名はなんと49柱にものぼり、拝殿に掲げられた神額はとんでもないことになっていた。境内にとりわけ見るべきものはないが、産土神をはじめとした当地の古くからの信仰の集積、惣社の位置づけにあり、磯部の神人は今なお正月には伊雑宮・磯部神社・佐美長神社の順に三社詣でをする習わしを守っているという。


続く佐美長神社、佐美長御前神社は磯部神社の地続きで、歩いて5分ほどの場所に位置する。道路に面した鳥居をくぐると石段が続き、その上に砂利が敷き詰められた空間がある。



いずれも伊雑宮の所管社だが、本社に劣らずその社叢がたいへん素晴らしい。からだ中の老廃物が浄化されていくような、なんとも不思議な感覚を覚える。格式はともかくとして、個人的には伊雑宮以上の聖性を帯びた場所のようにも思える。佐美長神社の祭神は大歳神(五穀豊穣の神)、佐美長御前神社四社は佐美長御前神だが、さきほどの千田の御池同様、当社にも稲穂をくわえた鶴が飛んできてこれを落としたという伝承が伝わっていて、別名大歳社、穂落(ほおとし)社とも呼ばれている。また、当地の開拓神である伊射波登美神およびその子孫の霊が祀られているとの説もあり、産土神、地主神が祀ってあると考えてよさそうだ。


この後、神路川に沿ってすこし車を走らせ、鸚鵡岩や天岩戸にも足を延ばしたが、これらは修験行場の色が濃く、伊雑宮との関連は薄いと思われた。


終わりに、伊雑宮の創祀についてすこし妄想をしたためておこう。磯部の民の奉斎した神々は元々このあたりの部落ごとに点在して祀られていた。大和王権は皇大神宮の成立を機に、その内の一ヵ所、日神(≒アマテラス)を祀った地をシンボリックな祀りの場としてクローズアップした。これが伊雑宮だ。いわば、王権の拠り所をつくるために地主神を換骨奪胎したということではなかったか。但し、鳥羽の海辺にある伊射波神社との関係が残る。どちらも志摩国一宮だが、先に祀られたのはこちらの可能性もある。とすれば、伊射波神社は伊雑宮の奥宮(元宮)とみることもできよう。いずれにせよ、背景には磯部の民がもたらす豊かな海の幸と稲の実りがあったのだろう。天武〜持統朝の大和王権は当地を押さえることで、統治の基盤を固めたのではなかったか。食糧は鉄に匹敵する、いやそれ以上に臣民の統治に必要な資源であり、権力の源泉なのだ。考えてみれば豊受大神は食物を司る神なのである。


(2021年3月29日)


注)

1 先代旧事本紀大成経事件

 先代旧事本紀大成経は、本文を聖徳太子撰として神儒仏三位一致を説く神道書。釈潮音の編著といわれている。延宝四年(1676)から同七年(1679)にかけて刊行。天和元年(1681)、いわゆる大成経事件が起こり、本書は幕命によって禁書とされ、板木は破却された。長(永)野采女・潮音道海・伊雑宮神人・版元戸嶋惣兵衛が本書の成立・出版の関係者とみなされ、追放などの処分を受けた。直接問題となったのは、神宮の別宮志摩国伊雑宮を真の天照大神の本宮とする説である。この異説は近世初頭より伊雑宮神人による神領復興運動の過程で浮上し、伊雑宮の内宮からの独立問題をはらんだ『伊雑宮旧記』に基づくものと考えられる。(森瑞江 縮刷版「神道事典」2016年 より)


出典)

1 磯部町上之郷 Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF%E9%83%A8%E7%94%BA%E4%B8%8A%E4%B9%8B%E9%83%B7#%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%B1%B1%E5%8D%83%E7%94%B0%E5%AF%BA

2 谷川健一「志摩の磯部」 『増補古代史ノオト』所収 大和書房 1986年


参考)

植島啓司「伊勢神宮とは何か」集英社新書 2015年

筑紫申真「アマテラスの誕生」講談社学芸文庫 2002年

櫻井勝之進「伊勢神宮[第三版]」学生社 2013年

松前健「皇大神宮・豊受大神宮」谷川健一編「日本の神々−神社と聖地」第六巻「伊勢・志摩・伊賀・紀伊」白水社 1986年