瀧原宮:三重県度会郡大紀町滝原872

岩瀧神社:度会郡大紀町滝原 1889-2

多岐原神社:三重県度会郡大紀町三瀬川

潮石(山の神):三重県度会郡大紀町瀧原1166

 

しばらく伊勢神宮について書いてみたい。日本各地にある聖地を巡りはじめて七年。北は恐山から、南は波照間島の御嶽までおおよそ1200箇所くらい訪ね歩いているのだが、伊勢神宮だけはとっつきにくいこともあって、深入りしてこなかった。あの皇居然とした表参道の雰囲気。とりわけ正宮の物々しさにはどうにも辟易とするのだ。また、唯一神明造ですべてが統一されていることもある。僕は聖地に剝き出しの神のありようを求めるので、なにを見ても同じように見えてしまって興趣を削がれるのである。とはいえ、摂末社や所管社を含む神宮125社の多くは深い森の中、そして水辺、海辺、湿地にあり、それらの地が古代の人々にとって、地勢或いは地政学的に重要な意味を持っていたことは間違いがないように思われる。また、隣接する熊野との関係も気になるところで、なにかおもしろい発見があるだろうと、桜の時期はここ三年熊野を訪れていたが、今年は伊勢を巡ることにしたのだ。

 

伊勢市の駅前でレンタカーを借りてすぐに向かったのは別宮瀧原宮である。内宮から40kmあまり。遥宮(とおのみや)とも称するこの地は元伊勢、多気大神宮であった。続日本紀によれば内宮(皇大神宮)に遷る以前はここでアマテラスを祀っていたとされ、内外の正宮に続く第三の宮としていまも重要な位置づけにあるという。

 

神域となる広大な森の中。杉木立の参道を行くと、やがて開けた場所に出る。向かって右が瀧原宮、左が瀧原竝(ならびの)宮、参道の奥に長由介(ながよけ)神社、そこから少し上ったところに若宮神社が坐す。清浄という言葉がこれほど似つかわしい場もないだろう。
参拝者はいずれも襟を正して、丁重にお辞儀をし、柏手を打っている。だが、なにかにつけ好奇心が先に立つ僕は、古殿地に立つ小屋の中や、御船倉の中を覗いてみたいなどと不埒なことばかり考えている。古殿地の小屋の中に心御柱、御船倉の中には御船代、さらにそこに入っている種々もおおよそはわかっているのだが、一目みてみたいものだとむずむずしてしまう。三節祭など神宮で行われる重要な神事は、かつては心御柱を中心としていた。いってみれば神の依代としての本来の機能が忌柱として残されたもので、元々は降臨の場に柱(というより神籬か)を立てたのみであったものが、後にその上に大層な社殿が覆い被さることになったのである。心御柱は衣服を纏わぬ裸体のようなもので、覆い隠しておかないとありがたみが薄れるということなのだろうか。三種の神器ではないが、レガリアに準ずるのだ。ここを訪れる参拝者の多くは、御祭神はアマテラス、御神体は鏡と信じて疑わないだろう。いや、疑うことすらしないかもしれない。

古殿地に立つ小屋。右手に御船倉

 

参道を歩いていると、樹々の香気に混ざってどこからか水の匂いが漂ってくる。いうまでもないが、瀧原宮は宮川流域の大内山川沿いにあるのだ。祀られている神もいまはアマテラスだが、古くは川のカミ、水戸神であったという。そんなことを思い出しながら瀧原宮を出ると、参道入口の向かいの掲示板に「瀧原地区の神々めぐり」なる地図が貼ってあった。近くには水を祀る聖地がいくつかあるので紹介しておこう。


 

 

紀勢道をおりて瀧原宮に向かう手前に鳥居が見える。大内山川の支流に向かって少し下ったところにあるのが岩瀧神社だ。村社の佇まいながら大事に祀られていることがわかるとても気持ちのよい場所だ。

 

案内板などなく、由緒もわからなかったので、神社検索(三重)というサイトで検索すると、そこには岩瀧ならぬ大滝神社とあり、以下の由緒が記されていた。

 

崇神天皇58年巳春、豊鋤入姫命より倭姫命に事寄せ給ひ、同60年 未冬此地の西南十曲ケ国獄に後降臨の事を秋志野々宮で宇多の大采称奈ノ命へ教へ給ひ、直に迎え奉り鎮座されたと。また、垂仁天皇25年丙辰春倭姫命行啓の時、大田命の啓行によってこの地に至り給い、この岩滝の上りに鎮座されたことが古老の伝えに残っている。明治4年(1871)以来村社、明治8年(1875)12月郷社となる。明治40年(1907)11月20日岩滝神社境内社・船木・三瀬川の各社を合する。阿曽村八柱神社およびその境内社、他の阿曽各社を合祀の上、明治41年(1908)10月9日滝原長者野に移転、合祀の上大滝神社と単称、明治42年3月1日合祀を完了した。  (文中傍線筆者)

 

神社合祀政策は明治39年に内務省より勅令され、三重県では県下の神社の九割が合祀されるに至ったというが、当社の祭神はなんと32柱にものぼる。注目しておきたいのは、由緒にある「大田命」だ。大田命は猿田彦の子孫で、宇治土公(うじとこ、うじのつちぎみ)の祖とされ、興玉神の別称ともいわれているようだ。後述するが、当社も瀧原宮の成立に関係がある。

さらに宮川の蛇行に沿って下っていく。西岸近くの農地の一角に車を停めて少し歩くと、左手の森の中に多岐原神社がひっそりと佇んでいた。地元の方だろうか玉垣を開けて黙々と社殿の掃除をしている。境内は狭いがここも瀧原宮と同じ空気、いや川が近いのでもっと濃厚に水の気配を感じる。ここを出て宮川の方に下っていくと川原に出る。三瀬の渡しだ。熊野古道の伊勢路はかつてはここを渡ったのだそうだ。
多岐原神社の由緒は倭姫命世記に見える。天照大神の御杖代として各地を巡行した倭姫命は、その鎮座の地を探して宮川を溯上するが、宮川の急流に困っていたところ、地主神の真奈胡神が出迎えて渡御を助けたため、そこに真奈胡神をまつる御瀬社をつくったという。

三瀬の渡し。川岸の砂が細かい


さて、真奈胡とはなんだろうか。小石という意味もあるようだが、古語辞典で「まなこ」を引くと「眼」のほかに「まなご 【細砂・沙】」とあり、こまかい砂のこととある。用例として次の歌が載せられていた。「潮満てば水沫(みなわ)に浮ぶ細砂(まなご)にもわれは生けるか恋ひは死なずて」万葉集2734。歌意が素晴らしいのだが、それはさて措こう。実は、三瀬の渡しに出てみて不思議に思ったのは川岸近くに非常に細かい砂があることだった。一部ではあるものの、まるで海の砂浜のようであり、渓谷の川原にはに似つかわしくないと思ったのだ。もうひとつ。「潮」と聞いて気になるのは、瀧原宮のすぐ近くにある通称山の神、潮石だ。三瀬の渡しにいる時、潮石を訪れるのを忘れていたことを思い出し、再び瀧原宮の方に戻った。

 

目指すは、おおみやサイクリングターミナルだ。宿泊も食事もできる大紀町の施設で、潮石は隣接地の森の中にあるという。場所はすぐにわかった。森の脇の樹々の間から中を窺うと、巨大な磐座がこちらをねめつけている。こんなところにこんな巨石が潜んでいるとは誰も思うまい。森を回り込み、鳥居をくぐって中に入る。



この巨石が「山の神」とされたのは後世のことだろう。真奈胡の意が正しければ、それは微かではあるが海とのつながりを指す。この巨石がかつて「潮石」と呼ばれていたことも頷けるのではないか。神話学者として知られる松前健は、「『倭姫命世記』が瀧原宮、並宮両宮の祭神を水戸神速秋津日子、速秋津比売とするのは、河川の海へのそそぎ口の神という感じを神話的に表したものではないか」とし、やはり海との関係を匂わせている。
 

すこし話を整理しよう。キーワードは、「大田命」、「真奈胡神」、そして「潮」だ。僕の仮説は、大田命と真奈胡神は同一神であり、瀧原宮が成立する前から当地を治めていた豪族の長だったのではないかということだ。この神に連なるのは内宮において禰宜に次ぐ要職、玉串大内人(たまぐしのおおうちんど)を代々務めた宇治土公氏である。さらに宇治土公氏の祖姓が磯部であり、出自が志摩を根拠地とする海民であったことを考えれば、この地に仄かな潮の香りを感じとってもおかしくはないだろう。伊勢神宮、アマテラスの源流を遡ると、多くの研究者が指摘するように海民が奉斎した日神に辿り着く。次は磯部の本拠地、伊雑宮あたりを歩いてみることにしよう。

 

(2021年3月27日)



 

参考・出典

植島啓司「伊勢神宮とは何か」集英社新書 2015年

筑紫申真「アマテラスの誕生」講談社学芸文庫 2002年

櫻井勝之進「伊勢神宮[第三版]」学生社 2013年

松前健「皇大神宮・豊受大神宮」谷川健一編「日本の神々−神社と聖地」第六巻「伊勢・志摩・伊賀・紀伊」白水社 1986年

神社検索(三重) http://www.jinja-net.jp/jinjacho-mie/jsearch3mie.php?jinjya=63437

岩波古語辞典 補訂版 1984年