畝畑の高倉神社 和歌山県新宮市熊野川町畝畑

鎌塚の高倉神社 和歌山県新宮市熊野川町鎌塚

瀧本の高倉神社 和歌山県新宮市熊野川町瀧本


悠々と流れる春の古座川を眺めている。きょうは高倉神社を巡ることにした。熊野には「矢倉」や「高倉」と称する無社殿の神社が数多くあり、その数あわせて三十は下らない。どこも小さな集落にあって、地域の人々によって大切に祀られている。その佇まいは官幣大社の真逆にあるもので、これ見よがしな宗教的威厳など微塵もない。しかし、水と樹々と石に凝縮された信仰は、祈りの始源の姿をとどめており、どこを訪れてもとても清々しく、そこに身をおくと心から安らぐのだ。


まずは畝畑の高倉神社を目指す。熊野を紹介するサイトの中で僕がもっとも信頼する「み熊野ねっと」(*1)に以下のような記載があったので紹介しておこう。

「畝畑という2世帯しかない山奥の集落にある神社です。熊野川に注ぐ赤木川の支流・和田川が大きく曲がっている所にあります。この神社は、とある神主さんから『熊野の聖地100選に推薦したい神社があります』というメールをいただいて、教えていただいた神社です」

これを読んで行きたくならない人はまずいないだろう。


古座川の河口近くの宿を出て、川沿いに車を走らせる。道すがら牡丹岩や一枚岩、天柱岩などを見物しながら県道38号線を上り、古座川熊野川線に入る。植林の森の中、狭く細い道は曲がりくねり、延々と続いていく。ここはグーグルマップにプロットされているのだが、道路から離れた川沿いにあって、どこからアプローチしてよいものかわからない。そうこうする内に車はどんどん遠ざかっていき、となりの集落まで行ってしまう。行きつ戻りつしながら、やっと川に下りられそうな場所を見つけた。行き合う車はほとんどない。そこに車を寄せ、しばし停めさせてもらうことにした。

川沿いの道に下りていく。川の音は心地よく、水面は美しい。歩いていくと浅葱色、翡翠色と、見る場所によってその色合いが様々に変わっていく。朽ちた吊り橋の床板が川面にぶら下がっている。いつの頃から使われなくなったのだろうか。



人ひとりがやっと通れる細い道をしばらく行くと、やがて山側に上る石段が見えてくる。ゆっくりと踏みしめながら上っていくと、石段の終わりの両脇に若木が立っていた。ささやかな結界だ。

その先には平坦な祭場が広がる。穏やかながらも鋭い聖性に息を呑む。正面に高い樹が枝を伸ばし、その根元に丸石が積まれている。榊の幼木には円形の勧請縄か。そしてこれら周囲は四角い石で祭壇様に囲まれている。他に花立、酒、香炉などよく見るしつらえは何一つない。だが、余分なものは何もない分、とてもていねいに祀られていることがよくわかる。なにより境内の掃除が行き届いている。二世帯しかいないなら、交代で世話をしているのだろうか。ここにある祈りは本物だ。祈る人々が伝え、守ってきた自然への敬虔さを象徴しているような気がする。それは現世利益を超えた何かなのかもしれない。

この両脇にも、樹木、丸石、榊、円形の勧請縄による同様の祀りの場があって、それらはいずれも樹木を中心としている。矢倉神社もそうなのだが、そこに祀られている神の名はわからない。「高倉」といえば、神武紀に登場する高倉下(たかくらじ)を祀ると解釈したくなるが、おそらく人格神ではない。紀の国は木の国が転じたもので、山間部の民間信仰の基底には樹木があるのかもしれない。



さて、畝畑を後にして那智勝浦方面へ。次は瀧本の高倉神社だ。再び曲がりくねった道を行く。途中、右手に木造の古びた鳥居が見えた。扁額に高倉神社とあったので、寄ってみることにした。こちらは鎌塚という集落にあって、境内奥には近年据えられたと思しき小祠があった。だが、よく目を凝らしてみると、樹の根元に丸石が積まれていたり、石造の基台の上に石が祀られていたりして、畝畑と同様の信仰が息づいていることがわかる。




さらに車を走らせる。畝畑を出てから一時間半。ようやく瀧本地区に入った。目指す高倉神社は山の上だ。斜向かいの空き地に車を停め、石段を上っていく。山桜が咲いている。

春先のすこし埃っぽい空気から、凛とした空気に変わっていく。もうすぐだ。苔生した端正な石畳の参道が鳥居の向こうに続く。どこか京都の古社を訪ねているような趣がある。



右に目をやると、そこには三基の石壇があった。両脇に石灯籠があるが、社殿も小祠もない。奥にある樹木、あるいは森を祀っているのだろうか。石壇の上にはそれぞれカップ酒が供えられていた。


それにしても、これほど山深い場所に、整然とした祈りの場があることに驚く。畝畑に同じく、ここも集落の人々がずっと大切にしてきた場所だということが知れる。いわゆる宮司とか、神職はここにはいないだろうし、御朱印などあろう筈もない。おそらくは、集落の自治会が持ち回りで維持している筈で、祭りがどのように行われているのかが気になった。こうした場に二礼二拍手一礼といったお決まりの拝礼は似つかわしくないと思い、一礼してただ手を合わせ、この先の旅の安寧を祈った。そして山を下り、麓に停めた車の中で古座川沿いの宿の女将さんが作ってくれた弁当を開いた。


この項の最後に極私的な思い入れを記しておきたい。それは、高倉神社は便宜上、高倉下命を祭神としているだけではないか、ということである。高倉下命の事績は神武紀に見える通り、夢に見たアマテラスの託宣により、布都御魂剣を神武に差し出し、まつろわぬ丹敷戸畔(にしきとべ *2)の退治にひと役買ったことだ。実在したとすれば大和朝廷に加担した当地豪族の長の一人だったことになろうか。だが、この事績を誇りとするような空気は、訪れた高倉神社のいずれにも感じられなかった。熊野に関する僕の見聞からすれば、神武や朝廷に抗した丹敷戸畔の方がよほどヒロイックであり、いまだ愛されているように思うのだ。


管見だが、高倉神社という社名は、せいぜい紀伊続風土記までしか遡れないのではないか。同書は江戸幕府の命により、19世紀初めに編纂が始まった地誌であり、当時の国学の隆盛、明治の御一新に向けた様々な動きをあわせ考えれば、名も知れぬ神様を祀っているのは具合が悪いので記紀に名の見える高倉下命でも担いでおこうや、といったことではなかったか。なにせ南朝の人々をかくまい通した熊野である。この地の人々はそういうしたたかな知性と行動力を十分にお持ちだろうし、僕にとってはそれが熊野のもう一つの、他では得難い魅力なのである。


(2020年3月20日)


出典・参考

*1「社殿のない神社」熊野の観光名所-み熊野ねっと https://www.mikumano.net/meguri/takakuraunehata.html

*2  丹敷戸畔(にしきとべ)以下、拙稿を参照
「熊野の女酋長、丹敷戸畔を巡って」https://ameblo.jp/zentayaima/entry-12565149814.html

「おな神の森」https://ameblo.jp/zentayaima/entry-12588598742.html



桐村英一郎「祈りの原風景−熊野の無社殿神社と自然信仰−」森話社 2016年

宮本誼一「忘れられた熊野−熊野大辺路筋に残る矢倉神社の群落」所収:古美術 第42号 三彩社 1973年