堅破山(たつわれさん)
黒前神社:日立市十王町黒坂762番地
この数年、正月二日は車で聖地に出掛けるのが恒例だ。ほぼ間違いなく晴れているし、どこに出掛けても道は空いている。目的地はできるだけ人の少ないところ。初詣で行列したり、人まみれになるのは大の苦手なのだ。
堅破山を目指したのは、太刀割石を見に行くためだった。この石の写真は国内の巨石や磐座の写真集やウェブサイトにしばしば載っていて、大きなゆで卵が二つに割れたような精巧で奇妙な形状は、自然≒神々の仕業としか思えないのだ。後述するが、ここは山頂近くに黒前神社を祀る神仏習合の聖地で、太刀割石の他にも奇石が多く、東京からだと180kmとかなり遠いのだが、訪れる価値は十二分にあると思う。
首都高を経由して常磐道に入る。平べったく、埃っぽい畑の風景が続く。景色は少しも面白くないのだが、道は空いているので快適なドライブだ。土浦を超えるとほぼ先を行く車はなくなった。高萩インターチェンジで降りて、市街地を走る。南麓の駐車場までは易々と着くものと思っていたが、何をどう間違えたのか、山の東麓に出てしまった。通りすがりの民家のおじさんが庭に出ていたので道を聞く。「あ、そのまま行けますよ。ちょっと道は悪いけどね」というので、そのまま進んで行くとやがて林道に入った。未舗装は仕方がないとしても、大小岩だらけで、凄まじく凹凸のある道だ。運転席の尻が浮く。バンパーやマフラーを破損しやしないかと、ひやひやしながらごっとんごっとんゆっくり車を走らせる。と、突然森が開け、”はーぁ、すっぽん”という態で駐車場に踊り出た。その先には綺麗に舗装された道が続いている。本来はこちらから来るのだ。後で知ったのだが、僕がやってきた道は往古に土石流で山が崩落して出来たものらしく、思い返せばなるほどと思わせる悪路なのだった。車を降りると二の鳥居が迎える。登拝口だ。
堅破山は標高658mの低山で、駐車場のある二の鳥居は450mあたりにある。高低差もほとんどなさそうで、登山というよりハイキング。年明け早々だったが、近郊の方なのか男性のハイカーがひとり先を行く。尾根伝いに歩いて行くと木造の三の鳥居、と思いきや貫も額束もなく、紙垂を垂らした注連縄が下がっている。冠木門だろうか。修験の山らしく、道の傍に梵字が刻まれた石碑が立つ。しばらく行くと、不動石と名付けられた磐座に出会う。注連縄が張られ、上部には不動明王の石像が祀られていている。不思議なことにこの石像の足元からは清水が湧いているようで、岩肌は滴り落ちた水で凍っていた。磐座好きとしてはこの佇まいだけでやられてしまう。
さすが修験の山だ。不動石から後も烏帽子石、手形石、畳石と、右に左に次から次へと磐座が出て来る。どれも見応えがあって、僅かに由緒らしきものもあるのだが、ここでは写真のみでご勘弁願いたい。
畳石を過ぎ、しばらく進むと少し開けた場所に出る。弁天池と称する石で囲われた小さな水溜り、鳥居、そして山門。ブナの林の中のとても気持ちのいい風景だ。山門の先には、きざはしが続いている。
これを登って少し右に行くと、ちょっとした広場のような平坦な場所に出た。これまた巨大な磐座が坐している。しかも、石のてっぺんからにょきにょきと樹木が生えているではないか。おまけに岩肌が掘り取られていて、鉄格子が挟まっている。甲石というらしい。案内板の立て札には、石の中に薬師如来が隠されており、十二神像のうち六体が祀られているとあったが、中を覗いてみると折り畳んだ半紙の上に小さな鏡餅と蜜柑がひとつ、ちょこんと載っていて、他には何もなかった。
この場所にはもうひとつ、舟石と名付けられた扁平な石があるのだが、ここで撮影した写真には不思議なものが写っていた。下の画像を見てほしい。木で出来た案内板が透けていたのだ。
以前このブログでとりあげた熊本の拝ヶ石巨石群https://ameblo.jp/zentayaima/entry-12398102327.htmlと同じだ。長野の小菅神社奥社を訪れた時にも似たような光線の写真が撮れてしまったが、これらはいずれも修験の聖地だった。なにかあるのではないかと思いたくなる。というのも、熊本では訪れた一週間後に大震災、当地を訪れた時も帰宅後に関東圏で地震、小菅神社奥社を訪れた時はちょうどその時間帯に長野で地震があったのである。もっとも日本では地震など所構わず起こるので、ただの偶然と言ってしまえばそれまでなのだが、やはり気持ちが悪い。
なかなか太刀割石にたどり着かないが、もう少しご辛抱を。甲石、舟石のある場所から急な石段があり、その上に当山の神、黒坂命を祀る黒前神社がある。由緒については案内板に従おう。
堅破山黒前神社由来
標高六五八米の堅破山は多賀久慈両郡の間に聳え、往昔はつのがれやまといヽ巨石信仰の霊場であった。山上には常陸風土記にいう黒坂命を祀る黒前神社があり山中には七奇石三瀑の名勝がある。黒坂命の事蹟については東夷征討の武将として奥羽遠征の帰路この山にて客死しよって山上に命の霊を祀り毎年旧四八日例祭を行い七年毎に「磯神御幸大祭」が行われる。(後略)
黒坂命は最古の皇別氏族、意富氏(多氏)に連なるいわゆる国つ神であろう。茨城の地名は、佐伯(国巣または土蜘蛛と同義。朝廷に敵対する当地の豪族)を討伐する際に用いた「茨」に由来する。詳しくは常陸国風土記の茨城郡の条を参照してほしい。
黒前神社からすぐの山頂は大した眺望ではないが、ここから一旦下ると、真っ二つに割れた奇石などがあり、さらに進むと行き止まりにまた巨石、胎内石がある。山肌の一部なのか、全容はとても写真に収めることが出来ない。一帯が岩窟様になっていることからするとここは奥の院のような場所で、その名称からしてもかつては修験の行場、つまり生まれ変わりの聖地だったと思われる。
さて、来た道を戻り、山門の上を回り込むように歩いて行くと、やっと太刀割石にお目にかかれる。来る前に写真で見た限りでは、せいぜい2m四方程度のものかと思っていたが、想像を絶する巨石で、これが見えて来た時にはあまりの大きさに仰天してしまった。寝転んだ方の石の左端に僕の顔を載せてみたので、画像を拡大して見てほしい。
とにかく、呆れてしまうほどの大きさなのだ。その造形は正に神為せる業で、たしかに太刀ですっぱりときれいに割ったような断面だ。しかも、この現代のオブジェのような巨石がある場所は、円形劇場を思わせるような地形で異空間にいるような気になる。オベリスクや新宗教の建築物は、いずれもその巨大さを持って人々を圧倒し、神秘や教義を感得させる役割を持つと思うが、これはそもそも人の為せる業ではない。ただひれ伏すしかない光景である。
太刀割石(たちわりいし)
(縦直径7m×横直径6m×高さ2.5m)
永保三3年(1083年)、八幡太郎源義家が奥州征伐の折、戦勝祈願のために堅破山に立ち寄り、野宿していると、夢の中に「黒坂命」が現れ大太刀を差し出しました。目覚めた義家が大太刀を一振りすると、巨石が真っ二つに割れたといわれています。隠居した水戸光圀翁がこの山に登った折、「最も奇なり」と感銘し石の名をつけたと言われ、以前は「磐座(いわくら)」と言って、神の宿る石として、石の回りにしめ縄を張りめぐらし、みだりに石の上に上ることはできませんでした。
もちろん、石の上に上るなど僕には恐れ多くてできないが、「鬼滅の刃」ファンの子ども達なら、きっと上ってしまうに違いない。それはそれでよいのかもしれないが、この石の神秘性が著しく削がれることは避けてほしい。願わくば、誰かが元のように注連縄でも回してくれないものかと思う。
太刀割石から下山する途中にも神楽石という巨石群がある。神楽石の案内板には「元禄時代には「まいまい石」と言われ、堅破山の神霊が浜降りの際、氏子連中にこの場所で神輿を渡し、一休みのために神楽を奏し舞を舞った」とあったが、要は御旅所だったのだろう。黒前神社はかつて日吉山山王権現と称しており、境内に修験僧の墓が複数あったり、甲石の前に釈迦堂があることなども踏まえれば、永らく台密系山岳信仰の場だったことは間違いない。だが、第九代水戸藩主、徳川斉昭は神道を重視し、仏教を排除する政策を打ち出した。これにしたがって、天保年間には黒前神社に改められたという。折からの復古神道の流れがそうさせたのだろうか。
神楽石はより創祀の古い聖地に見られる磐座、人為的な石の結構にも様子が似ており、古代祭祀場だったのではないかともいわれている。もしそうだとすれば、黒坂命の奉祀、或いは山王信仰よりもずっと古い時代の祭場なのかもしれず、先述のこの土地に先住した”まつろわぬ民”が祀っていた可能性もないとはいえない。聖地は信仰から発して聖地となるのではなく、土地そのものが有する聖性が様々な信仰を呼び寄せるのであり、それらは時代の移ろいとともに代替わりしていくのである。そうした意味で、この奇石だらけの山は紛れもない聖地なのだ。
修験が行場とする山には、こうした想像を絶する巨石が数多くある。修験道の成り立ちから一種のアニミズムと言ってしまえばそれまでなのだが、石はなぜこれほどまでに人を魅了して止まないのだろうか。そして、なぜそこに信仰が宿り、宗教的感得がもたらされるのだろうか。帰途、強い西陽が差しこむ車の中で僕はそんなことをずっと考えていた。
(2018年1月2日)
参考
OKADA ad_office 巨石巡礼
http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_kanto/iba_tatuware/tatuware.htm
須田郡司「日本石巡礼」日本経済新聞社 2008年
須田郡司「日本の聖なる石を訪ねて」祥伝社 2011年
秋本吉徳「常陸国風土記 全訳注」講談社学術文庫 2014年