瀬戸山のモイドン:鹿児島県肝属郡錦江町城元2280

中園のモイドン:鹿児島県肝属郡錦江町城元1198-2

郷ノ原のモイドン:鹿児島県肝属郡錦江町田代河原(県道563号辺塚根占線沿)


山川港から対岸の根占港にフェリーでわたる。小さな埠頭には釣り人が数人。中年をとうに越えたであろうおばさんたちだ。アジが釣れるという。釣りが趣味なのか、今夜のおかずにするためか。めいめいが勢いよく竿を振り、錘を投げ込んでいる。クーラーボックスを覗くと大漁だ。ときおり海鳥たちが海面をかすめていく。彼らにとってもこの港はよい餌場なのだ。

午前十時に出航した船は。開聞岳の均整のとれた山容を後にしながらゆっくりと進んでいく。高速船とは異なり、フェリーは悠々と進むところが好きだ。左舷から錦江湾の奥を望むと、桜島の稜線がうっすらと浮かんでいる。

根占港で下船するとすぐに瀬戸山のモイドンに向かった。錦江町役場の先にある栄町の交差点を右折する。目の前の小山の中腹に町営の墓地があって、この傍が目的地だ。駐車場に車を停め、あたりを見回す。段状になった墓地を見上げると墓石はまばらで、墓域を持て余しているかのように映る。


左手の森が怪しい。回り込んでみるとそこには森への入口がぽっかりと口を開けていた。奥からなにか漂い出てくるような気配があり、神域という感を強くする。神社のそれとは違って、沖縄の御嶽によく似ている。頭上に覆い被さる樹々の枝葉の中を進むと、奥に十坪ほどの開けた空間があり、その一角が拝所となっていた。神体と思われる石碑が二つ。右端に石灯籠。その手前には香炉、花立、蝋燭立て、小皿、茶碗、酒、そして小さな瀬戸物の白狐数体が雑然と並んでいる。アコウの木根が絡みつくシイの大木がモイドンだろうか。それよりも自生するビロウの多さが際立つ。はるか南の島のジャングルにでも迷い込んだのではないかと思わせる。「クバの御嶽」の稿で触れたが、ビロウは古来神樹であり、沖縄の御嶽にはビロウがつきものなのである。この亜熱帯を住処とする植物は、人を魅了してやまない、土俗的な呪力を備えていて、僕などは水木しげるの漫画の一コマを思い浮かべるのだが、遺伝子に刻まれた遠い記憶を呼び覚ますのだろうか。





文献をあたっていて驚いたのは、この拝所にある二つの石碑が真田幸村・大助父子の墓だとされていることだ。真田幸村は、豊臣秀頼と共に薩摩に落ち延びたが、秀頼は谷山に留まり、幸村は大隅に落ちてここで集落の祖となったというのである。対岸の薩摩半島の頴娃にも「雪丸」という幸村の墓と伝わる石塔があるが、これらは同根の伝説だろう。瀬戸山部落には、かつて落司門(おとしかど)や遊喜村門(ゆきむらかど)と呼ばれる同族集団があり、これらの門名も幸村伝説に由来すると思われる。また、幸村は狐を使ったとされ、このモイドンは別名真田稲荷とも称されているらしい。瀬戸物の白狐が奉納されている所以である。真田幸村は大坂夏の陣にて討ち取られたが、その首が多数あったなど不明な点も多く、墓所も伝承を含め、十ヵ所程度日本各地に点在する。この種のことは英雄譚の常であり、これ以上深入りはしないが、この森が「モイヤマサー」、「モイヤマドン」を通称とすること、部落の背後の山にあること、近くに墓があること、門で祭りを行うことなどモイドンに共通する特徴から察すると、真田幸村伝説や稲荷神は後世に習合したものと思われる。祖神がいつの間にか真田幸村に変わってしまったというわけだ。伝説が生じた経緯はさておき、ここには原初の祈りのありようがいまだ息づいていて、僕はたいそう痺れてしまった。

次に向かったのは、中園のモイドンだ。瀬戸山のモイドンのある山を降りて県道448号線を横切り、住宅地の中をしばらく進むと左手にささやかな森、というより巨樹と茂みがある。このあたりの植生も南方のものだ。路上に車を停めて回り込んでみる。ずんぐりとした石祠があって、中の花立に榊が供えてある。さらに奥を覗くと、シーサー紛いの焼物の狛犬がこちらを睨んでいた。おそらくこれはウッガン(内神、氏神)だろう。大木の根元には扁平な石碑が立っているので、この樹がモイドンだ。






向かいのお宅のご主人、農家の小吉さんに話を聞いてみた。祀りはこの土地の所有者が行っているそうだ。手元の資料では現在も枝を伐ってはいけないといい、モイドンの隣家の人がエノキを伐った際は所有者と喧嘩になったとある。そのことは質さなかったが、やはり枝葉が繁って電線に触れそうで困るとの由。ここでも大きくなり過ぎた樹木は邪魔者なのである。


小吉さんとしばらく話していたら、同級生の友達に郷土史家がいるという。錦江町の文化協会で石碑の碑銘を調べたりしているのでモイドンについても少しはわかるだろう、連絡を取ろうかと言っていただいた。また、資料をお見せすると長谷のモイドンはここからほど近く、町境にあるだろうとも教えてくれた。当日の最終便で帰京の予定だったので残念ながら辞したのだが、なんとご自宅に戻ってお土産にとポンカンとみかんを持ってきてくれた。田舎では普通のことかもしれないが、世知辛い都会の垢にまみれている身としては、なんとも心が温まる。


さて、次に訪れた貫見では人ひとり出会わず、三十分以上周辺を歩いてみたが、モイドンと思しき場所はわからなかった。続いて郷之原のモイドンに赴く。これは県道沿いにあって、写真で何度か見ていたのですぐにそれとわかった。が、知らなければただのこんもりした大きな樹があるだけで、祭祀が行われているようにはとても見えない。神社の境内でもなく、注連縄でも回されていなければこれが神樹とは誰も思わないだろう。じっさい、よく繁茂したマテバシイの根元には傾いた石碑と倒れた花立があるだけで、それすらよく目を凝らさないとわからないのだった。




手元の文献によれば、古くこの部落では子供が育たなかったのでこのモイヤマを作って祭ったと伝えられるが、昭和四十年前後にはすでに祭りは途絶していたようだ。2014年~2015年に行われた調査報告にも、祭りはなく、個人が周りの畔を刈るついでにモイドン周囲の草刈りを行っている程度とあった。この畑の所有者が代替わりすれば、もう誰も顧みることなどなくなるだろう。


さらに、点在するモイドンを求めて、半ヶ石、笹原を訪ね、それぞれ土地の方々に所在を尋ねてみたのだが、モイドンと口にすれど聞き返され、森や大木の傍の祠や石碑と言い換えても、そんなところがあったかもしれないという風で、結局わからずじまいだった。笹原では当たりをつけた竹林の前に老婆がいて、椅子に腰かけて日向ぼっこをしていた。小さな鎌で大根を削ぎ、鉄網の上で干している。切り干し大根だ。さっそくモイドンについて尋ねてみた。耳が遠いので同じ問いを何度も繰り返したが、やっと一言「ンなもんはないっ!」と吐き捨てるように答えたのだった。いまや、お年寄りでも知らない人はいるのだろう。冬の午後晩い陽光の中、一抹の寂しさを感じながら車に戻った僕は、里山を見渡しながらため息をついた。


三回にわたって南九州のモイドンについて書いてきたが、こうした森や樹木への信仰はかつて人類共通のものだった筈だ。よくいわれるように、ヒトの祖先は四百万年前までは森の中で暮らしていて、森の外へは出なかったのである。彼らにとっては森がすべてであり、宇宙でもあったのだ。われわれの遺伝子の中に森の記憶が刻まれているならば、これを尊び、畏れるという心性はまだ生き続けているように思う。


すべてではないが、モイドンは祟る。特に樹木の伐採には強い禁忌があるとされ、錦江町のモイドンにも祟られる話がまとわりついている。それは土地の記憶と密接につながっていて、その源を辿れば祖先、祖霊の話へとつながっていく。じっさい、モイドンの近くに墓地があるケースは多い。かつての森は聖なる場所であり、死後に帰っていく場所でもあったのだ。


近年、人新生という新たな地質年代が提起され、人類の行動が生態系に及ぼす負の影響を社会全体が認識するようになった。それは近代以降の価値観や資本主義の枠組みを根底から揺さぶりつつある。我々が為すべきことは、自然と人間の関わり方を再構築することにほかならないが、同時に森と人間の関係の問い直しも待ったなしだと思う。手遅れでなければよいのだが。


(2020年12月29日)


参考

小野重朗「大隅のモイドン」民俗研究3 1966年(所収:谷川健一編「森の神の民族誌」日本民俗文化資料修正21 三一書房 1995年)

上田萌子 大平和弘 押田佳子 浦田俊和 上甫木昭春「鹿児島県錦江町周辺における『モイドン』の立地と存続状況に関する研究」ランドスケープ研究79 2016年

竹元博幸「人類はなぜ森林のなかで地上生活を始めたのか – ボノボとチンパンジーの生態から探る 」academist journal 2017年8月18日

https://academist-cf.com/journal/?p=5562