上西園のモイドン:鹿児島県指宿市東方道上2310-1

吉崎のモイドン:鹿児島県指宿市東方道上2303

上野のモイドン:鹿児島県指宿市東方道上

 

池田校区を離れ、上西園のモイドンに向かう。前稿の吉永のモイヤマに同じく、指宿市から文化財指定を受けたもっとも有名なモイドンである。ビニールハウスの前に車を停めさせてもらい、白杭の標識から細い道を入っていくと、黒いビニールシートが敷かれた広場のような場所に出た。銀杏の落ち葉が積もり、照り映えている。

 

 

 

 

 

 

入口すぐのところに石が祀られた拝所(1)、その横に石祠(2)。その正面奥にも拝所(3)があるようだ。奥にアコウの巨木が聳え、縦横に枝葉を伸ばしている。これがモイドン(4)だ。気根が発達する樹種のせいもあって、異形の神のようでもあり、妖怪のようにも見える。その姿かたちからして人を畏怖させるなにかを備えているのだ。だが、元々このモイドンはアコウではなく、エノキであったという。これは「絞め殺しの木」の異名を持つアコウならではの業なのである。

(1)稲荷神

(2)内神

(3)山の神

(4)モイドン

 

出典*1


あたりを見回しながらなにから手を付けようかとそわそわしていると、近所の方と思しきご婦人がやってきた。石祠のあたりを掃き清めている。話を伺おうと声を掛けると、モイドンの脇に立つ案内板を指して、「ここに書いてあるから読んで」とにべもない。案内板に目を通して振り返ると、掃除道具を持って逃げるようにさっさと立ち去ってしまった。

 

「モイドンというのは「森殿」であってモイヤマ(森山)の一部を祭場とする神であると言われている。森山と言っても村に近い場所にあり、普通は社祠も神体もなく、大きな木を神の依代(神がやどる)とするものであり、神社信仰前の宗教のすがたを思わせる神と言える。県下の100をこすモイドンのうち、道上地区には6つ近くの広森、温湯を合わせると8つが集中している。上西園地区のモイドンの依代はアコウ(径2m余)の木であるが、山ン神(内神)それにイナイドン(稲荷神)も同じ場所に寄せ集団民俗神の聖地として、現在に及んでいる。」指宿市教育委員会

 

しばらくして、さきほどのご婦人を伴ってやってきたのは、このあたりの地区長らしき年配の男性だった。簡単に自己紹介をして話を伺うことにする。

 

「モイドンはわかるんですが、この石の祠はなにを祀ってるんですか?」「これはウッガン、氏神ね。その横のこれがイナリ。あっちにあンのは山の神。あの山ン神はもともとここにはなかったんだ。他から持ってきた」「と言うと?」「元は広森ってとこに祀ってあったんだけど、そこの人がある時から竹がパンパン鳴るような音がするようになったっちゅうんだね。なかなか鳴りやまなくて気味が悪いんで、祈祷師に頼んで聞いてもらったら、山の神さんが『上西園のモイドンの傍に行きたい』って言ってるっていうんだ。で、こっちに移してみたらそれ以来ぱったり音が聞こえんようになったらしい」

 
おもしろい。これだから地元の人に話を聞くのはやめられない。ちなみに、薩南には通称ホシャドン(法者殿)と呼ばれるシャーマンがけっこうな人数いるらしい。

モイドンの前に来る。

「おじさん小さいときに、小学校、おじさんもう77だから小学校っていったらもう70年、65年くらい前かな。そん時にね、ここ親父がつくっておったんだけど、このね、この今、この上の奴かな。(モイドンの枝を指す) うぁーっと半分ぐらいまでいって、どうしようも畑ができんから、うちの親父が大体55、6歳の時に伐って、どーんと倒してここに置いた。そいで、それが夏のこと、7月ぐらいだったかな。そいで、それを伐って、ほいで『ぅおー、お前、神ン木よう伐った』って。『うん、邪魔になるから伐ったんだよ』って話をしたらしんだけど。で、伐って、ここに置いて、畑をつくったわけよさね。ったら、その後11月に亡くなったの。それ元々が肝臓とか腎、胃が悪かって、こうお腹が大きくなってて、っていう」 「あぁ、腹水が溜まってたっていうか」 「それで死んだのに、ほれ見ろーて。バチが当たったんだがーて。そん時にちょうど昭和52年に文化財になってるでしょう。それ、その時に、市長とうちの兄貴が懇意にしとったもんだから、これを文化財に登録しようやってことで。で、その時の神のいわれとかいうのを聞いて。そしたら結局うちの兄貴が、モイドンあれ伐ってその年に死んだ。えーっ、神のバチが当たったんですねーって感じで言ってる、うんそうかもねー、それがバチを与える神だっちゅうに持ってったから、私が否定したの。それは嘘だよと。そんなもんですよ、歴史なんて。いや、ホントですよ」 「尾鰭がついちゃって、結局それが本当になったんですね」 「そうそうそうそう。それで最近ね、去年だったかな、おととしだったかな、まったこんな、これよりもね、今ここにある、その、これよりももうちょっとおっきい奴が、わーっていってまたこれ作れんようになったから、おじさんが市に話をして、こう伐りあたえと。じゃないと、神木とはいえ、よそにンな迷惑かけるのはもう、だめだって。僕はもうそれは、あのー、ねぇ、バチが当たるとかそんなのはない筈だから。と言って、そいで伐ったんですよ。という木もあるし。ほんとおっきくなりようね」

あらためて書き起こしてみると、この話の中には聖地に関するいろいろな問題が詰まっていることがわかる。迷信の問題はともかくとしても、神であろうが文化財であろうが、生活していく上で困るものは困るのである。外から訪れる人々は、やれ歴史だ、文化財だなどと保全を声高に叫ぶのだが、まずは地域の人々にとっての意味や意義を考える必要はあるだろう。その上でこの場所の維持や保護を考えていかねばならないが、この場の祭に参加する地域の人々はもう五軒に満たず、年々少なくなっているという。ちなみに、この”おじさん”は、上西園 隆さんといい、農業を営み、道上自治公民館長を務めた方だったが、もっと地域の子どもたちが遊べる場所にしたい、そのためにはトイレと水回りが必要なので市に掛け合っていきたいと話されていた。上西園さんはいろいろな大学や機関から調査に来るといい、向かいの自宅に戻ってご本人も編纂に携わった「郷土史読本 指宿校区の歴史と文化」という冊子や資料を持ってきてくれた。ありがたく借り受けて、もう少しこのあたりを探索するといって辞した。

 

道上地区にはあとふたつ訪れたいモイドンがあった。ひとつは吉崎のモイドンで、上西園のモイドンの裏手の道沿いにある筈だった。吉崎商店というプロパンガスの販売会社があって、そのあたりだろうと踏んでいたが、モイドンはおろか森らしきものは見当たらない。数軒先にある家の裏手で作業をしている男性がいる。声を掛けてみると、最近ここに越してきたのでわからないという。モイドンという名すら聞いたことがないようだ。ここにかつて大きな樹はなかったか、祠のようなものはなかったかと尋ねると、この土地は元は並びの家のもので譲ってもらったといい、更地にする際に樹を伐ったことを聞いたとの由。祠はその時に遷されたらしい。彼が指さした先にはブロックで四隅を押さえたビニールシートの上に、石の祠と神体石がぽつねんと載っているのだった。

 

 

香炉や榊などの様子からまだ祈りは続いているようだが、なんとも遣る瀬ない風景に侘しさを覚える。とはいえ、この場所のすぐ後ろには吉崎のモイドンとされる蘇鉄の高木が三本ほど伸びていて、なにかのモニュメントのように目に映るのだった。

 

続いて上野のモイドンを探す。おおよそここだろうと思われる場所をプロットしたグーグルマップを確認しながら近くまで行ってみたが、ここも畑地とビニールハウスばかりでさっぱりわからない。今度はビニールハウスから出てきた農家の方に聞いてみると少し下ったところにあるらしく、懇切丁寧に道順を教えてくれた。

 

 

言われたとおりに行ってみると、山裾に向かう路地の奥の一段高くなったところにしっかりとした覆屋があった。石段にはステンレスパイプの手摺りまであって高齢の参拝者に配慮されていることがわかる。中には、真ん中に石祠、その両脇にやはり扁平な石が祀ってある。いずれの前にも、榊、塩、水、酒が供えられている。祀りは続いているのだ。

 

 

 

 

昭和31年に作成されたモイドン一覧表では、門(かど、旧藩制時代の農村にあった家の集団)の裏山の下のモイヤマと記されている。他の事例を参照しても森も樹もないところがあるのだが、どうやら太古には森であったものが、長い歳月を経る内に開墾、開拓されて、その名を留めるだけになった場所は多いようだ。前稿で述べたように、この森や樹木への信仰が二千年以上前に遡るとすれば、畏怖の対象がなくなった後も祈りは連綿と続いているわけで、この地霊と土地の関係には瞠目せざるをえない。だが、その関係は人間が介在してはじめて成立することなのである。

 

環境問題は自然資源や生態系に限った問題ではない。心の問題、祈りの問題でもあるのだ。そしてそれは、我々のいのちに通ずることなのである。昨今、国連の提唱するSDGs(Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標))への取り組みが喧しい。高収益を誇るグローバル企業を中心に経済界でしきりに沙汰されていて、中には「私たちこんないいことやってるんですよ、みなさん」とばかりに、多額の費用を投じて広告を打つくらいなのだ。それはそれでどんどん進めてもらえればよろしいが、大切なことは人の心を損なわないことだ。物心は決して交換可能なものではない。

 

モイドンのような森や樹木への祈りの存亡は、いずれ我々が目にするであろうこの国の将来と奥深いところでつながっているのではないだろうか。

 

(2020年12月28日)

 

参考・出典

指宿高校郷土研究部「指宿地方のモイドンの調査」薩南民俗 8(所収:谷川健一編「森の神の民俗誌」日本民俗文化資料集成21 三一書房 1995年)

指宿校区自治公民館連絡協議会「指宿校区の歴史と文化」2013年

*1 上田萌子 大平和弘 押田佳子 浦田俊和 上甫木昭春「鹿児島県指宿市有形民俗文化財に指定されたモイドンの保全に関する現状と課題」公益社団法人日本造園学会 2018年

上田萌子 大平和弘 押田佳子 浦田俊和 上甫木昭春「鹿児島県指宿市におけるモイドン等に関わる伝統行事の存続状況と継承課題の把握」ランドスケープ研究82 2019年