大石神社:青森県弘前市大字大森勝山289


岩木山の北東麓、大石川と大森川に挟まれた舌状台地に大森勝山遺跡が広がる。縄文晩期の国指定史跡で、大きな環状列石遺構や竪穴式住居跡を擁することで知られるが、その立地は水の確保に加えて、岩木山に沈む太陽を仰いだものと思われる。太古においてこの地は集落であるとともに、暮らす人々にとって特別な場所だった筈で、一帯の聖性を代表していたことはほぼ間違いないと思われる。このあたりから赤倉沢を通って巌鬼山を経由し、岩木山頂に向かう道はいまなお信仰の道であり「カミサマ」と呼ばれる霊能者を寄せてやまない修行の場なのである。大石神社はその入り口に坐す。


前夜泊まった嶽温泉を出発し、岩木山環状線を半周する。途中、当地名産のとうもろこし「嶽きみ」の朝採りを求めて、観光客が販売所に群がっている。岩木山神社のある百沢を過ぎて北に向かうと、盆の中日の土曜日とあってか前後を走る車は一台もなくなった。道の両脇にはりんご畑が広がり、青い実はかなりの大きさに成っている。蝉の声が喧しい夏の盛り。なんとも清々しく、快適なドライブだ。


りんご畑が途切れたあたりの十字路に、社会福祉法人みやぎ会、大石の里と記された看板がある。ここを左折してそのまま岩木山に向かって緩やかな坂道を1kmほど進むと、大石神社の白い大鳥居が迎えてくれる。鳥居の左側には広場があるので、日差しを除けて樹の蔭に車を停めた。

大鳥居の先には朱の鳥居が続く。一番手前にある鳥居の柱には真紅と漆黒の二匹の龍がまきついている。これをくぐった先が社殿なのだが、当日は生憎とシャッターで閉ざされており、拝殿の中を伺うことはできなかった。風雪の厳しい北の地ならではの工夫なのか。だが、今は盛夏だ。宮司が常駐できないからだろうが、見てはいけないなにかが中にあるのかもしれないと邪推する。シャッターの隙間から賽銭を入れて参拝していると、軽自動車がやってきた。中からポリタンクをぶら下げた屈強な老人が一人。どうやら手水舎の水を汲みに来たようだ。岩木山神社もそうだが、このあたりの神社の手水は水質といい、水量といい、とても豊かで勢いがある。僕も口にしてみたが、大石川から引いた水なのか、雪解け水が湧いたものなのかはわからないが、冷たくきりっと締まりつつも滋味に満ちた味わいだった。鳥居の柱に巻きつく龍は恵の水の象徴なのだろう。社地の後方、大石川に下る手前には龍神御鎮座所との立て札が立っている。



手水場

さて、当社の由緒は以下の通りだ。


大石神社縁起概畧

一、祭神

高皇産霊神

神皇産霊神

慶長十七年津軽藩主

津軽越中守信牧公勧請

一、境内二社

神明神社 祭神  月夜見命 享保五年村中勧請

久須志神社祭神  少名彦命 右に同じ

一、祭日

旧四月八日 旧七月十日

一、由緒

往古桓武天皇の延暦十九年征夷大将軍坂上田村麿

東夷戡定の時当山の霊験を蒙りしにより十腰内に

下居宮を建立当時当社は岩木山登拝口にて

巨石丈余の者三四併立神体石にて土人群衆登山の

安全を祈願せり

堀河天皇の寛治五年十腰内の下居宮は壱百の溪澗

を越せる土地即ち百沢に遷され跡地の社堂は

岩木山三所大権現の内一社巖鬼山西方寺観音院

として俸禄百石赤倉沢を検校し巨石大石明神の

信仰弥高まりたり

一、寛正五年大浦信濃守信代巖鬼山西方寺観音院

の古佛再興   神官 長見孫大夫

一、慶長十七年津軽家二代藩主越中守信牧公赤倉

山御祈願所として大石明神を勧請

尓耒津軽一圓の信仰を集め御霊験現妙

子授けの神 安産の神として信仰高し

一、元禄五年 広須組木造組衆当社に風雨順時を

祈りて感應新なりて社堂再建し数百年来悉く崇敬

同社破損等の節氏子中に不拘社堂の再興致し来た

りと

一、正徳五年六月津軽藩主不例の砌霊験のことあ

り為に吉田家より「神明号」御下し「大石明神」と崇む

一、享保四年旧領主従五位下津軽信重再建

一、宝暦八年再建効果七年修覆明治九年再建尊社

列格   合祭直願 第三大区六小区大森貝沢両村

産神大石神の儀は山中故大石神社下宮江神体安置

致し

無別崇敬仕耒得候


昭和五拾年七月十日 祠掌 長見恒安

                   大森・貝沢 村中


板に墨書されてから四十五年も経過しているためにところどころ掠れており、判読困難且つ旧字も多く、かなり手こずったが大方のことはこれでわかるだろう。


由緒にもあるとおり、ここは「大石」神社である。拝殿の裏に回ると積石で囲われた瑞垣の中に本殿。そしてその後ろには、巨石がふたつ折り重なるように坐していた。だが、ここが津軽の山の麓の神社だからか、神籬とか磐座といった言葉がなぜかしっくりこない。古くからなんらかの祭祀は行われていただろうが、大和朝廷に列する地域のそれとは異なっていたのではないかと思ったりする。


江戸時代後期の紀行作家、博物学者の菅江真澄は、薬草を求めて津軽の山という山をわけめぐった。外浜奇勝(三)によれば、寛政十年(1798年)六月二日には、ここ大石神社にも立ち寄っている。

「二日 早朝くもっていたが、赤倉が岳にのぼろうと出立した。(中略)野中に松が群だったところは、大石明神という。神前に大きな伏した岩や立った岩のある間に、石割松、いしわり杉が生えていた。その大杉の下枝に紙がびっしりと結びつけてある。これは乳の乏しい女が祈願したのであり、また、恋の願いをかけ、愛しあう夫婦の仲がいつまでも変わらぬようにと、杉の下枝に紙をむすび、その験を得るためであるという」(出典*1)


社伝にある子授け、安産の神というのはその通りなのである。脱線するが、境内にヘンなものがあるのだ。気をつけないとわからないかもしれない。一本の松の木の根元近くに金精さまのような石棒が突っ立っている。よく見ると賽銭箱とある。御神木にしてはひょろっとした若い松で目通りもない。どういうことだろうと見上げると、屹立したリアルな男根が幹からにょっきりと突き出していた。しかもステンレスで作られた大きな鈴状の睾丸がぶら下がり、おまけに小枝のヘアまで添えてある。大らかというよりもどぎつい造作に思わず唸ってしまった。


社殿の左手後方には、多くの神馬舎も奉納されている。その数は二十近い。一般に神馬舎は一社にひとつしかないものだが、こんなに多くの神馬舎が奉納されているのは他に見たことがない。津軽には保食(うけもち)神社が多く、その数は十社をくだらない。明治の神仏分離の際、それまで牛馬の守護神として祀られていた馬頭観音を、五穀や牛馬、蚕穀の起源神である保食神に比定したというのだが、当社に神馬舎を奉納するのも、飼い馬の無事と豊穣を祈願した名残りなのだろう。


ここまで見てきたようにこの神社の信仰の対象は、石神であり、水神(龍神)でもあるのだが、その源はやはり岩木山に求められる。祭神がむすび(産霊)にちなんでいるように、この山こそがすべてをもたらしている。そしてどうやら、この山に坐す神は「鬼」のようなのだ。菅江真澄は、岩木山頂から赤倉の方角に神場(おにば)というところを眺めたと記している。紀行をもう一度持ち出してみよう。


「岩木山の三つの峰のうち、岩鬼山(1456メートル)とて、この赤倉が岳を崇め奉っているが、ここには鬼神もかくれすんでいて、時には怪しいものが峰をのぼり、ふもとにくだるという。その身の丈は相撲の関取よりも高く、やせくろずんだその姿を見た人もあるが、それを一目見ても、恐怖のあまり病のおこる者がある。また、それとなれしたしんで、兄弟のようになかよくなり、酒肴などを与えると、さっと飲み食いして、その返礼として山の大木を根こぎにしたり、あるいは級の木の皮をはぎ、馬二、三匹につむほどの量をかかえて持ってきてくれたなどと、案内の者が頭をよせあい、小声でひそひそとささやきあっている。その妖怪をおおひと、やまのひと、あるいは山の翁(おっこ)とよんで、山をわけて道案内をするこのたくましい男たちも、おそれわなないて、すすんで行こうともせず、このような奇怪なことばかり語りあっていた」(出典*1)


鬼もまた神である。当社の大石を赤倉霊場との結界にあたるとする説もあるのだが、だとすればそれはあの世とこの世を分け距つもので、いわば塞の神、道祖神のようなものだったのではないか。ここは異界への入り口にあたるのだ。


津軽の聖地を訪ねていくとありとあらゆる神々、あるいは仏が今も混淆している。いかがわしいとかキッチュといってしまえばそれまでなのだが、だからこそ既成の教団宗教などにはけっして回収されない「民衆」の信仰がしたたかに息づいているともいえる。

境内からの眺望

ちなみに当社から4kmほど下った弘前鯵ヶ沢線沿いには大石神社の中宮、下宮が800mの間隔で並んでいる。下宮には猿田彦大神や二十三夜の石碑、庚申塔などが立ち並んでいた。本宮に行かずとも参拝出来るからなのだろうか。創建の経緯はいまひとつわからない。

大石神社中宮
大石神社下宮

(2020年8月15日)


出典*1

「菅江真澄遊覧記3」菅江真澄著 内田武志・宮本常一編訳 平凡社ライブラリー 2000年