葛見神社:静岡県伊東市馬場町1-16-40
伊東の駅前の繁華街を過ぎて住宅地に入る。さっき追い越した選挙カーがゆるゆるとやってきて、神社の前で停車した。中から男性が駆け下りてくる。小走りに拝殿に向かい、二拝二拍手一拝を手早く済ませて戻ってきた。当選祈願だろう。手水をつかっていた僕に声をかける。「この神社はとにかくあそこにある樹が凄いです。お参りしたら是非見に行ってください」気さくでかんじのよい候補だ。人当たりというのものは大事だなと思う。
国指定天然記念物 葛見神社の大クス
樟(クスノキ)は、関東以南の暖地、特に海岸に多く自生しています。全体に佳香があり、葉は長楕円形で先端がとがり、5月頃黄白色の小花をつけ黒色小形の果実を結びます。材は硬く、特殊の香気があり樟脳および樟脳油を作り建築材、船材として用います。樹齢は約千年、目通約20mに及び全国でも有数な老樟として有名です。
指定 昭和8年2月28日 伊東市教育委員会
樟脳といえば、幼少時に嗅いだ家のたんすの香りだ。どこかに老いや死を感じさせるものがあって、嗅ぐたびに不安を覚えるのでずっと好きではなかった。思い起こすとそれは、喪服の香りだったのかもしれない。匂いは記憶と強烈につながっている。ところで、飛鳥時代の仏像、棺にはクスノキでつくられたものが多い。物理的には材の得やすさと防虫を含む耐久性ゆえだと思うが、クスノキという樹木自体がなんらかの聖性を帯びていた筈で、それは香りや樹容、長命であることがそうさせていたのではないか。クスノキの語源も諸説ある。「臭し(くすし)」がわかりやすいが、「薬師(医師)」や「奇し」も考えられよう。古来から虫は病原菌を媒介するものと考えられていて、クスノキは虫除けの効能から転じて、一種の魔除けと認識されていたのではないだろうか。台湾には大樹公という樹木信仰があって、信仰の対象となる樹木の多くは、ガジュマル、クス、アカギである。日本でもクスノキは神社の神木に見られるが、この信仰は中国から台湾を経由して日本にもたらされたのかもしれない。
葛見神社のクスノキは小山の裾に立っており、周囲をぐるりと一周できる。正面から見てもその威容に仰天するが、回り込んでさまざまな角度から観察すると、それは樹木というよりも未知の巨大な生命体のようで、独特の宇宙感を持っている。それにしてもこの野放図な枝の伸ばしようはそのままアートではないか。生命としての自由を獲得するために、あらん限りのことをやり尽くした結果として得られた形なのだろうが、見ているこちらはまるで異界に迷い込んだ侏儒のような気持ちにさせられる。

葛見神社は延喜式神名帳「久豆弥神社」の有力な論社だ。このあたりは古代から「久寝」や「久須見」(いずれも、くすみ)と呼ばれた地で、「曽我物語」で仇となった工藤祐隆が所領していた。当社はこの工藤氏(後の伊東氏)が稲荷神を篤く信仰していた関係から勧請された倉稲魂命を相殿に祀る。当社と指呼の距離にある別当寺、東林寺の山号も稲荷山だが、肝心の主祭神は定かではないという。一方、大クスの”うろ”の前には石祠があって、資料によればこれは「疱瘡神」としての稲荷という。
聖地における神々は往々にして上書きされる。伊東の海岸近くには縄文期からの複合遺跡が点在し、古くから生活の場所であったというが、当地の人々は稲荷を祀るより古くから疫病神を祀っていて、この大クスに疫病封じの意味を求めていたのではないか。だとすれば、やはりクスノキの霊験は医薬の効なのかもしれない。東林寺の参道は葛見神社の前を通っているが、かつてはここを葬列が通ることが固く禁じられ、迂回することになっていたという伝承があり、そのことからしてもこの大クスの聖性が窺いしれる。
さらに妄想する。葛見神社をGoogle Earthを使って上空から眺めてみる。すると、当社のロケーションから違うことが見えてくる。古代以前に視点を移す。集落はまだ小さく、しかも点在している。そして、当社の周辺のいま住宅があるあたりはかつて森や山に入っていく入口であったように思えるのだ。葛見神社はその切っ先に位置する。郷土史家ではないので明るくはないが、伊東という地が海に注ぐ大川沿いに拓けてきたことは間違いない。加えて山に向かって開墾していくとしたら、このあたりから手をつけるのではないだろうか。そうやって山を崩し、田畑をおこしていく過程で、なんらかの聖なる意味づけがなされた場所ではないかと思うのだ。だとすればこの大クスはその記憶を今に伝える地霊としての機能を果たしてきたのかもしれない。

今年、四月の気温は低かった。五月に入っていきなりの夏日である。もう衣替えだ。樟脳を原料とする防虫剤は少なくなったからか、久しぶりに樟脳の匂いを嗅ぎたくなった。
(2019年9月8日、2017年10月14日)
参考
「日本の神々−神社と聖地−10 東海」谷川健一編 白水社 1986年