河原神社:福井県三方上中郡若狭町上野木53-8
泉岡一言神社:福井県三方上中郡若狭町中野木16
彌和神社:福井県小浜市加茂19-11
いまは荘厳な社殿を構える神社もその創祀においては社殿を持たなかったところが多い。かの伊勢神宮も然りだ。かつて日本の神々は神籬、磐座を依代とはしたが、社殿の中に鎮まっていることなどなかったのである。その遺風を伝えるのは沖縄の御嶽や拝所だが、これもいまは簡素なコンクリート造りの拝所を有するところが多い。
若狭は日本民俗の宝庫といわれるだけあって、無社殿の神社もいくつか残る。ここで紹介する三社はいずれも小浜に近い野木山の麓に固まってあるのだが、その由緒はよくわからないことが多く、祀る神もそれぞれ異なっている。一社ずつ見ていこう。
最初に訪れたのは河原神社。立派な石造の鳥居をくぐると、境内に三本の高い樹。この樹々に囲まれた小さな場所が神域だ。石積みの上に木の瑞牆。中には河原石が敷きつめられている。神域の中央、石壇の上にはさらに石の瑞牆が隙間なく巡らされ、なにかを拒むかのように石扉を固く閉ざしている。地元の人はこの空間を「御殿」と呼ぶらしい。厳重に閉ざされた「御殿」は見るだけで、とげとげしい印象を覚える。「日本の神々-神社と聖地-」(出典1)で、大森宏氏はこう記す。「前述の『御殿』内へは神事の祭主をつとめたことのある者以外の立ち入りが禁止されており、また、御殿の内部にはさらに玉垣をめぐらした場所があって、そこは神の座として絶対に立ち入りが許されない。(中略) 祭主は一年間毎朝欠かさず当社に参拝することが義務づけられ、無益な殺生を一切せず親類の葬式にも参列しないなどの掟を厳守しなければならない。(中略) なお、神事は俗に『男神事』と称し、すべてを男子がとり行ない、祭りの二日間はいっさい自宅に帰らない。食物も前日に搗いた餅しか食べないという」絶対に入れない神の座だが、御殿に近寄って目を凝らすと、瑞牆の下に空いた穴から辛うじて中を窺うことが出来た。やはり河原石が敷き詰めてあるだけで、そこに神体のようなものはなにも認められない。いわば樹々に囲まれた”なにもない”空間を祀っているのだ。神域に石を敷きつめるという行いは、産田神社や木葉神社など、どこか熊野を思わせる。地誌において当社の祭神、由来は一切不明とされている。集落の安寧を願う地霊を祀るのだろうがそれは樹々だろうか、それとも河原石だろうか。かつてここは森だった筈であり、祀る人々には前稿でもとりあげたニソの杜に通ずる心性があるのかもしれない。
続いて、泉岡一言神社に向かう。河原神社からは、距離にして800m、歩いても10分程度の距離だ。野木山の支脈の中腹にある。といっても標高にしておそらく100mに満たない小山であり、傾斜の緩い石段を200mも上ればもうそこは神域だ。途中に磐座、神域の前にも磐座がある。
摂社河原神社。どんな関係があるのだろうか。
拝所に接して鳥居が立つ。その先は河原神社に同じく偏平な石が敷きつめてあり、奥には小さな磐座に御幣が手向けられている。拝所の前の木箱には石が入っており、木の札には墨書でなにやら書いてあるが、風雨にさらされて「大神」の文字しか読めない。参拝者が石を持参してこの木箱の中に入れるのだろうか。或いはこの木箱の中の石を供えるのだろうか。熊野の産田神社や木葉神社を思わせる。それにしても、この空間こそが神坐す場なのである。そして、そこにあるのは鏡でも勾玉でも剣でもなく、石なのである。
背後は山。磐座は依代であろうが、この神社の御神体は恐らくこの山だと思われる。祭神は社名の通り一言主だ。由緒を写しておこう。「大和の国葛城山より影向の霊神で賞罰厳烈なり 一事を以って理を尽くす 多言をすべからず 神の使者は青毛の神馬也故に里人青毛の馬を養わずまた神告げて曰く吾敢えて宮祠を好まず 野嶽を址と為せと 故に千有余年社殿を創建せず」 青い馬の銅像は、参道の脇からこちらを見ている。古代中国では青毛(青みがかった黒)の神馬が最上とされていたらしい。
磐座の先に青い神馬が見える。
ここに僕は神々の本来のありよう、神道思想というものがあるならばその原点を見る。神々はどこかに定まるという性格のものではなかったのだろう。空っぽの空間に降りてきて一時的にその場を満たすものなのだ。
最後に訪れた彌和神社は、前の二社に増してなにもない。小山の一角にささやかに設けられた神域は、社号標、石灯籠一基かあるものの、もしそれがなければ通り過ぎてしまうだろう。短い石段の先、幅1m、奥行50cmほどの瑞牆で囲われた場所に、小さな榊が手向けられている。その奥は榊の森でこれを伐ることは禁忌とされているようだ。
ここは延喜式神名帳(注1)に名を連ねる古社なのだが、由緒がわからない。前掲書(出典1)では伴信友(注2)の「若狭国神社私考」を引く。「賀茂村の大戸と云処に、三輪大歳彦大明神と申て、山の麓に神籬の形ありて社なし、今其神籬を疱瘡の護神なりと称て、神名を識るものすくなし。(中略)これ彌和神社なること決かるべし、今考ふるに、大和の三輪大明神をここに祭れるなるべし」 と、大神神社から勧請されたことを示唆するが、背後の野木山は当社のある東側から望むとその山容が三輪山に酷似しているという。社名の「彌和」はおそらく「三輪」に由来するのだろう。神奈備、三輪山の麓にある大神神社には、拝殿はあるが本殿はない。本殿にあたるのは三輪山である。創建は不詳だが、日本でもっとも古い神社のひとつとされることから、その祭祀は山麓に神籬を立てて行っていたであろうことは想像にかたくない。そして、彌和神社もこれに倣い、ずっと社殿を持たずに今日まで来たのである。
野木山遠景。三輪山に似ていないこともない。
あくまで私見だが、カミは偶発するからカミたりえるのであって、本来常住することはなかったように思う。その偶発を媒介したのは巫覡、巫女であろう。彼らだけが、計画的にカミを降ろすことが出来たのだ。だが、どこにでも降ろせるものではなく、その場所は限定されていて、それが歳月を経て固定したのが今の神社ではないかと思うのだ。翻って、現代の神職はカミを降ろすことが出来ない。吉田神道あたりが暗黙知を体系化し、形式知にしてしまったからではないかと思うのだが、いまだそれが出来る神職の存在を聞いたことがあって、どこにいるのかを僕はずっと探している。民間では津軽のカミサマ、沖縄のノロ或いはユタあたりだが、こうした特殊能力を口伝で引き継いでいる人たちが僅かにいるようだ。
無社殿の神社は、僕たちが形式、様式として理解している祈りを解体してくれる。ますますのめり込んでいきそうだ。
(2019年11月18日)
参考
「神の森 森の神(東書選書)」 岡谷公二著 東京書籍
出典
1:「日本の神々-神社と聖地- 第8巻 北陸」谷川健一編 白水社 2000年
注
1:延喜式神名帳
延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国
の神社一覧。(出典:Wikipedia)
2:伴信友
ばんのぶとも(1773~1846)。 江戸後期の国学者。若狭小浜藩士。本居宣長没後の門人。著作は 百数十部に上り、古典の校訂・集録も多い。近世考証学の泰斗。著「長等の山風」「比古婆衣(ひ こばえ)」「仮名本末」など。(出典:三省堂 大辞林 第三版)