瓜生の杜・博士谷の杜

福井県大飯郡おおい町大島西村(浦底)地区


しかし、ニソの杜はなぜこれほどまでに僕を惹きつけてやまないのだろうか。それらは家の裏や道の脇にあるただの森で、中には小さな木の祠があるだけなのだ。しかも、土地の人たちにも半ば忘れられていて、32箇所あるとされる内でいまも祭祀が続いているのは10箇所ほどなのである。だが、感じる人には感じられる厳粛ななにかがそこにはある。それは、祭祀が廃絶した場所にはなく、未だ祭祀を行っている場所に限られる。年に一度、霜月二十三日に祭祀は行われるが、それ以外の日は入ってはならず、樹木を伐ったり、杜の中のものを持ち出してはならない。その他にもさまざまな禁忌のある入らずの森だ。

おおい町郷土史料館の展示。瓜生の杜の祠の再現
青戸大橋を渡る前に、おおい町の図書館に併設された郷土史料館に寄る。町の教育委員会が発刊したニソの杜の習俗調査報告書を入手しようと思ったのだ。八月初旬に電話した時は九月末頃再版するのでまた連絡をとのことだったが、九月末にはまだしばらくかかると言われ、さらに十月に入ってから再度電話したが、見通しが立っていないので入荷次第連絡するとのことだった。再版の事情はともかく、現地に行けば必ず初版時の在庫が数部はあるだろうと踏んで押しかけてみたのだ。豈図らんや、図書館の窓口の職員の女性はすぐに対応してくれて、やっと件の報告書と資料編の二冊を手に入れたのだった。丹念な調査、取材によって確認されたすべての杜の所在地、植生、祭祀の主体、行事の内容などが写真と共に紹介されており、非常に貴重な資料でこれを編纂した方々には頭の下がる思いだ。

さて、踵を返して青戸大橋を渡り、トンネルを抜ける。目指すは瓜生(うりょ)の杜だ。浦底の集落を過ぎてすぐの坂を上ったあたり、島の真ん中を走る道路に面してある筈だが、さっぱりわからない。路上に車を停めて森の隙間のささやかな入口を求めて歩き回る。


停留所のようなコンクリート造りの小屋の先に入口はあった。僅かに人の出入りする跡が認められる。覗いてみると中が開けており、樹の根元に小祠。ここだ。少し中に入ってみる。下草などが刈られており、それなりに整えられている。ここは六軒の家が持ち回りで祭祀を行っているという。祭日以外の立ち入りは禁忌とされているが、時々手入れをしているのだろうか。


それにしても、県道から一歩入っただけで異界に投げ込まれたような気がするのはなぜだろう。小さな祠や注連縄のような聖地の場所を示すなにかを認めるからなのだろうか。だが、ニソの杜が祀られはじめた当初は、いずこもただの森であった筈で、なにもない森の中、あるいは森そのものに聖性を見出していたとしか思えないのである。現代人の僕たちにはもうその感性は残っていないのかもしれない。余談だが、ニソの杜の禁忌のひとつに一人で訪れてはならないというものがある。ここ瓜生の杜にも「ウリョオノキツネ」という狐がいて、一人で杜へ行くと手に持っているものを取られるので一人で行ってはならないという伝えがある。僕はその狐には会わなかったが、一人で行くことを禁忌とする真の理由が気になる。そのこととニソの杜の聖性はどこかでつながっているような気がするのだ。


瓜生の杜を離れ、一番近い博士谷(はかしだに)の杜に向かう。報告書の地図で確認すると、来た道を200mほど戻った住宅の背後の森にあるらしい。手前に旅館がある。隣の住宅を隔てる狭い路地を入っていったところ、家人に見咎められた。ここは日中の人通りがほとんどない辺境の陸繋島だ。不審極まりない外からの闖入者に見えるのも当然だろう。

「このあたりで博士谷の杜というところを探してるんですがご存知ありませんか。ニソの杜を研究していて場所を探してるんですが」

中年に差し掛かる手前の体格のよい男性は、頭の中の記憶を探ろうとしている。聞いたことはあるが、と言う。旅館の脇でなにやら作業をしている年配者が知っているかもしれないと声を掛けてくれた。「おーい、ニソの杜って知ってっかってさ。案内してやって」どうやら親子らしい。父親と思しき年嵩のオジサンは「またか、面倒くさい」という態で振り向きもしない。傍に行って、息子さんに話したことを繰り返す。こちらを向いた。「こっち来て」とやおら立ち上がり、旅館の脇の隙間を入っていく。ついていくと、ぶっきら棒に裏山を指差した。

「ここに、おっきいタブかシイの樹があったんやけども、もうあらへん。家まで被さってきよるんでうるさかったんや。腐っとったんで伐ってしもた」写真を撮らせてもらう。

博士谷の杜は旅館の裏山の斜面にあった。そこは雑木の茂るただの小山だった。祠もあったらしいが片づけたらしい。「すぐそこのモリ(の祭祀に)も関わっとるし、ウチはモリモトん家、浦底(の杜)にも関わりあるんや。あっこはお寺さんやらカミさんの祠やらあるけど、ここはなーんもない。社も、仏像も。樹ぃだけや。なーんもないことのなにが面白いんや。さっぱりわからん」結構な剣幕である。東京から来た旨を告げると「最近、多いんや。外から学者やらなんやらいろんな人が訪ねて来よるし、公民館で集まりもしよる。なんちゅう名前やったかな、あの人は」「金田さんって方ですかね」「たぶんそうや。敦賀で高校かなんかの先生やっとった人やろ」「ニソの杜については第一人者ですね」「ここへも何度もやって来ていろいろ調べとるよ」オジサンはこちらに馴染んでくれたのか、だんだん饒舌になる。「ワシら、子供の頃から遊び場にしとったけど、サンマイやから入ったいかんとかいろいろ言われよったんや」「墓なんですかね」「サンマイ、墓とはちゃう」では、なんだと言うのだろう。「昔から大事にしよったから続いとっただけで、この時代にこんなもん意味あるんか。ワシらの生活には関係あれへん。樹ぃ伐ったら祟るとか言いよるけどな、祟るカミさんなんか要らん」

最後の言葉は堪えた。「祟るカミさんなんか要らん」。そうなのだ。民俗学の草創期からニソの杜は注目されてきた。そして今、若狭のニソの杜、薩摩大隈のモイドン、種子島のガロー山、対馬の天道山、石見の荒神、熊野の矢倉など、森の神々は姿を消そうとしている。だが、それをなんとか守り、維持したいのは、土地の人間よりもこうした習俗を失った都市の人間たちなのだ。彼らはその土地と習俗を愛してはいるが、実際に住んで人々と苦楽を共にすることはしない。オジサンにとっては、僕も同じ輩なのだろう。なんの足しにもならず、ましてや祟られる神を祀ることを、外側にいる僕たちは文化として崇めているのである。


辞す時に名前を訊く。「ワシが言うとることやからな、ホントかどうかわからん。名前はいい。新聞に出たらかなわん」と手を振り、拒否された。博士谷の杜の祭祀は、樹を伐るずっと前に途絶えているようだった。

(2019年11月17日)


参考

「大島半島のニソの杜習俗調査報告書」

「同、資料編」おおい町教育委員会 2018年3月