大坪の杜・新保の杜・神田の杜・上野の杜
福井県大飯郡おおい町大島(宮留地区)
(前項から続く)
西村地区を出て宮留地区のあたりまで来ると、旅館や民家の背後に森と田圃が広がる。農業用水があって、その両脇に大きな森がふたつある。持参した地図の上では、大坪の杜ではないかと思われる。左右どちらかがわからないので、とりあえず向かって右側の森に入ってみる。中は意外に広く、疎らな木立といった感じで進むのにストレスはない。すぐに八幡神社の石標が立つ開けた場に出るが、直感的にここはニソの杜ではないとわかる。或いは、かつてニソの杜であったかも知れないが、いまここに祈りの風景を重ねてみてもピンと来ないのだ。どういうことか。それは、石標も含めて人為を感じるということなのである。
今度はこの森を出て、用水路の脇を通る畦道を歩いてみる。少し離れてみて森を遠望する。手元にある資料の森の形に照らすと、どうやら左側の森が大坪の杜らしい。キャプションにもそうあったので間違いないだろう。だが、残念ながら森も田圃も侵入者に荒らされることを警戒してか、周囲に金網が張り巡らされており、大坪の杜へは近づくことさえままならない。たぶん、民家の裏側からはアプローチ出来るのだろうが、時間を食ってしまいそうなのでここは断念した。
大坪の杜(南側)
大坪の杜(北側)
次に向かったのは 、若狭湾に面した入江の突端近くにある新保の杜。 田圃の隅にあり、こちらは既に森の残骸を辛うじて留めるばかりだった。手にしていた地図には三叉路を挟んだ対角に、もうひとつの新保の杜があるとされていたが、袖ヶ浜海水浴場の東端にあり、道路沿いの植栽に阻まれて入口らしきものが見当たらず、森の中を窺ってみてもなにかが祀られている様子も感じられない。ここではないと思いながらこの場を後にしたが、帰ってから入手した資料によれば、その向かい側にあったことがわかった。近くまで行きながらその場所を見つけられず、残念な思いをすることはよくある。人知れず存在する聖地はもとよりガイドブックなどある筈もなく、ネット検索でもまずヒットしない。現地を丹念に歩き回るしかないのだ。
新保の杜
新保の杜に至る途中、右手に大きな森があり、ここは間違いなく神田の杜だろうと直感した。来た道を戻り、手前の休耕地に車を停める。こちらは、森への入口らしき道がちゃんとついている。少し行くと、正面に小屋のような建物が見えてくる。祀りの準備や直会など、神田の杜に関係するものだろうか。
神田の杜の前。小屋がある。
この建物の向かい側は平地で開けていて、よく見ると下枝を伐った榊が二本植えられていた。これを見てここが神田の杜に違いないことを確信する。ということは、後方の段丘状の小山にカミは祀られているのだろう。かなり大きな神域である。登ってみるとここにも金網が張り巡らされている。禁足の地なのでそれもそうだろうと思いつつ、周囲を歩いてみるが、ここもどこに祠があるかはわからなかった。ただ、樹々の根元に岩が散乱している場所があり、磐座、或いは古墳を思わせた。ここにはカミがいた。
神田の杜
神田の杜
神田の杜
最後に浜禰の杜を訪ねて今回のニソの杜の探索を終えようと現地に向かったが、当てにした地図が示す場所はこれまた違っていた。後で判明したのだが、浜禰の杜を通り越して上野の杜に行ってしまったようなのだ。上野の杜もどうやら段丘上にある森のようで、遠くからは小山のように見える。近くには地元のカップルや、道路工事関係者と思しき車が停まっていて、行ったり来たりする僕の車を眺めている。造成中の土地の脇に車を停め、「怪しい者ではありません」と独りごちながら小山に通じる小道を回り込む。ほどなく上野の杜に通じるささやかな森の入口が見つかった。車で前を通った時はまったくわからなかったが、僕も数時間の滞在の内に少しは勘が働くようになったのか。ニソの杜はどこもそうなのだが、その入口は探そうと思わなければまず見つからないし、探そうとして見つからないことも儘あるのだ。
上野の杜
ここでも背筋がざわついたが、それは今回の探訪で最大のざわつきだった。その理由は、周囲に民家がなく、もちろん人も住んでおらず、余所者は立ち入ることすらない、ということになるだろうか。こんなところにわざわざ入っていくのは、それこそ民俗学者か考古学者くらいだろう。これはニソの杜の本質なのだが、祀る人々を除いて本来はこの禁忌の強い森に入る輩など皆無なのだ。だからこそ、その聖性が保たれるように思う。
上野の杜
森の入口からそっと中を窺うと、豈図らんやここにも小祠があった。僕は心の中で無礼を詫びてから森の入口から少し登り、祠の前まで行ってみた。樹を截り、枝葉を持ち帰るわけではないので、立ち入っても祠までであればカミの怒りに触れないと思ったのだ。この小祠は「くなど」であり「来な処」であって、即ち入ってはいけない場所の象徴であり、カミとヒト、彼岸と此岸の境界として機能しているのではないかと思う。神社の拝殿と同じなのだ。祠の先を見ると、広がって、平らけくなっている。僕は静かに手を合わせてから数葉の写真を撮り、礼拝してこの森を去った。

この後、帰りすがらに古墳に遭遇した。そこは剥き出しの古墳だったが、もしいまも樹叢の中に隠されていればニソの杜に雰囲気を同じくした場所だった。道を少し登っていけば、そのあたりにもいくつかのニソの杜があるので、ひとつでも多く見ておきたいと、僕は未練がましく探してみたのだが、それらの場所は、大飯原発の入口付近にあって、制服を来た職員がやって来る車を検問しているのだった。ニソの杜があるであろう山への道を彼らに尋ねたが、獣道もないとつれなかった。
ヒガンジョ四号墳
ご存じの通り、大島半島の北側は大飯原発で占められている。東日本大震災の後にもっとも早く再稼働し、その後、定期検査や地裁による運転差し止め、名古屋高裁金沢支部による差し止め取り消しを経て、現在は3号機、4号機が再々々稼働中である。(1号機、2号機は廃炉)
これは大島半島に限ったことではないが、大島を擁するおおい町にとって歳入の6割近くは原発立地に伴う交付金なのだ。換言すれば、町民の暮らしは原発によって支えられており、町の存続は原発とトレードオフで、政治も経済も生殺与奪を突きつけているのだ。こうしたずぶずぶの関係をニソの杜に眠る祖先神、地霊はどのような面持ちで眺めているのだろうか。そして、ニソの杜はいつまで永らえるのだろうか。
(2019年6月1日)
参考
「神の森 森の神」岡谷公二著 東京書籍
「森の神の民俗誌」日本民俗資料集成21 谷川健一編 三一書房
「中沢新一×いとうせいこう 大飯原発『神の森』を歩く 」週刊現代 2012年7月14日号 講談社 所収
「ニソの杜と若狭の民俗世界」金田久璋著 岩田書院