北沢大石棒:長野県南佐久郡佐久穂町高野1421


千曲川の支流、北沢川沿いに広がる畑の中に巨大な石棒が屹立する。通称「佐久石」と称する溶結凝灰岩の磨製石器で、長さは2.23m、直径は25cmあり、その大きさは日本一とされている。遠目にはそれとわからず、仰ぎ見るような大きさではないが、近づくと相応の存在感がある。とても精巧につくられていて、見ようによってはアートといえるかもしれない。

畑に入る道沿いに案内標識が立つので場所はすぐわかる。北沢川沿いに車を停め、畦道に入る。農具を収納する粗末な木造の棚の前にそれは突っ立っていた。1919年(大正8年)、北沢川の工事に伴って出土したといい、元々は地表から少し出ていたものをタケノコ掘りのように掘り起こしたらしい。石棒は出土地にそのまま据えられたが、その後、補強され、佐久穂町の指定文化財となった。このあたりには集落や住居があった筈だが、それらしき発掘の記録は見当たらない。どこかから運んできたのだろうか。場所柄、田の神や道祖神のようにも見えるが、いまあるように畑の中に立っていたのかどうかも定かではない。


ずっと見ていると、ある種の“おかしみ”がふつふつと湧いてくる。長閑な田園風景の中に、巨大な石の男根がそそり立っているのだ。意図された設えの中に立っているのではないので、ちょっと間抜けな感じもする。だから“おかしみ”を感じるのだが、僕はこの“おかしみ”こそが縄文人の心性に連なるものだと思う。言い換えれば“おおらかさ”で、僕たちが土偶を見て感じとるものと同じである。昨今の縄文ブームは、人間の本性に回帰しようとする表れなのかもしれない。哲学者アンリ・ベルクソンは、その著書「笑い」の中で、「本当に人間的であるものを除いては、おかしさはない」と述べている。


石棒は、縄文時代中期から後期にかけてつくられた磨製の石器だ。北沢大石棒のように1mを超えるものから、10cmに満たないものまでその大きさは様々だが、時代が下るにつれて小さくなり、凝った意匠が施される傾向にある。竪穴式住居内や、配石遺構など特定の場所で発見されることが多く、住居内の炉を囲む方形の石組の一隅に石棒が立っている例が知られており、祭祀に使われた呪具と推定されている。

石棒の形を見ると、誰もが勃起した男根を想像するだろう。ファルス(男根)のオブジェは、古代のエジプト、ギリシャ、ローマなど世界各地に広く分布しており、一般には生殖、豊穣に結びついたシンボルと解されるが、縄文の石棒についてもこの範疇で解釈すべきだろう。考古学者の山田康弘氏は、「縄文時代の歴史」の中でこう述べる。「石棒の多くは火にくべられたのか、熱を受けて赤くなっており、また意図的に打ち壊されたようである。おそらく、石棒を用いた祭祀の中には、性行為時の男性器のあり方、すなわち「勃起→性行為→射精→その後の萎縮」という一連の状態を疑似的に再現する、「摩擦→叩打→被熱→破壊」という動作が組み込まれていたと考えられる。最終的に破壊されるのは、疑似的性行為が終了したことを示すのだろう」

たしかに、あらためて北沢大石棒の写真を見ると、下部の三分の二近くが赤茶っぽく変色している様子が伺える。

それにしても、この想像力はすごい。実際の祭祀がどうであったのかどうかは知る術もないが、生殖の直喩として石棒が機能していたであろうことは想像に難くない。およそ生き物が生き物たらんとする意味は、種の存続、子孫繁栄にある。そしてその条件は、生命を維持する「食」および「生殖」だ。縄文の石棒と土偶は、後者の本質を象徴するのだ。道祖神、金精といった、後の性神の遠い祖先にあたるものであり、人間という生き物に備わった普遍的心性がつくらせたものなのだろう。

しばし、石棒の傍で物思いに耽る。エラそうな物言いをする割には瑣末で煩雑で吝なことばかり吐かす輩に、この大石棒で鉄槌ならぬ石鎚を喰らわしてやりたい、などと妄想してみたりする。気づくと縄文人たちが悠久の時を超えて僕に語りかけている。「もっとおおらかにおやんなさいよ、ひとは生まれてきたらやがては死ぬんだから」と。


(2019年5月2日)


(参考)

「縄文時代の歴史」山田康弘著 講談社現代新書

「縄文の思考」小林達雄著 ちくま新書