妙法山阿弥陀寺:和歌山県東牟婁郡那智勝浦町南平野2270-1


「くまの路をもの憂き旅とおもふなよ 死出の山路でおもひ知らせん」

阿弥陀寺に伝わる阿弥陀如来のご詠歌


説教節「小栗判官」を引くまでもなく、熊野は蘇りの地とされている。蘇りは「黄泉帰り」であり、山伏や比丘尼らの唱導によって、擬死再生を願う民衆が全国各地から蝟集した。その熊野で死を象徴する場が妙法山だ。開基は大宝3年(702年)の唐僧、蓮寂とも、弘仁6年(815年)の空海ともいわれるが、もとより優婆塞の修行の地であり、ここに仏教が習合したとみるのが自然かもしれない。


妙法山は那智山の一角にあり、標高は749mと高くはないが、海から25kmと遠いためか、大地町あたりから山を登っていくと車でもかなり山奥に来た感がある。もっとも熊野那智大社からなら那智山スカイラインで二十分弱と近いのだが。駐車場を兼ねた展望台からの眺望はすばらしい。訪れたのは三月末。春霞たなびく中に山並みが続き、その向こうに熊野灘が広がっている。古の旅人はここに立ち、自らの旅の意味をあらためて問い、振り返って死出の途に向かったのだろう。

参道の石段を登っていく。朱の山門、その先に本堂が見える。左手に鐘楼。この鐘には曰くがある。鐘楼を囲む塀に掲げられた案内にはこうあった。「ひとつ鐘:『亡者の熊野詣で』と伝えられ、人が亡くなると幽魂は必ず妙法山に参りこの鐘を撞いてからあの世に旅立って行くと言われています。古くは元亨釈書という本に記されており現世での安穏の為、また亡き大切な人が安らかに成仏できるようにとの願いを込めて一つ衝くことを習わしとします。ひとつ鐘を撞かれる時は、おまもり(血脈)をお受け下さい」とある。早速、寺務所で聞いてみると、百円で撞けるという。まだあの世に行く気はないが、これは撞いてみない手はないだろう。

傍の賽銭箱に百円を納め、鐘を撞いてみた。「こぉぉぉ―ん」と軽い響きだが余韻がある。延宝二年(1678年)に再鋳とあるが、古いだけのことはあって趣のあるよい鳴りだ。紀伊続風土記には「人が死ぬとき、枕飯三合が炊ける間に、死者は枕もとの樒(しきみ)の枝を杖として熊野の妙法山に詣で、この鐘をひとつだけ小さく撞いてから冥土への道をたどる。故に、この鐘は人なきに鳴る」、そして「いと妖しき事なれど、眼前に(亡者を)見し人もあり」とある。怪談っぽくてなかなか面白い。脱線するが、日本霊異記にも怪談好きにとって極めつけの説話がある。当地の永興禅師のところにやって来た持経者が熊野の山中で捨身行に臨んだ。それから二年、山中で法華経を読経する声が聞こえるので探したが見つからず、ただ読経の声だけが聞こえた。その後半年経っても声は止まず、声の出所を尋ねて行くと件の行者は岩に吊り下がって死んでいた。爾後三年が経っても読経の声は止まない。永興禅師は再びこの場所に赴き、遺骨を拾おうと髑髏を見ると、三年間経ってもその舌は腐っておらず、依然として法華経を誦し続けていたという話だ。この山は妙法山といわれているが、当山以外には考えられないだろう。


ひとつ鐘を撞き、血脈をいただいてから本堂を参拝。

秘密血脈
秘密血脈を拡げてみる

境内を散策する。妙法山鎮守の三寶荒神堂、子安地蔵堂と来て、その先に火生三昧(かしょうざんまい)跡がある。捨身往生した場と伝えられるためか、静謐な空間の中にも凄絶さを持って迫ってくる。寺伝は、以下のように伝える。「平安時代法華経の行者であった応照上人は、その経の一節にある、すべての衆生の罪を一身にかぶり火をもってみずから体を焼き尽くすという薬王の姿に心を打たれ、食物を断ち松の葉草の根を食べて苦行を重ね、自らも紙の衣を着て火生三昧の行を実践しました。上人の身体が火に包まれても読経の声は最後まで穏やかで、辺りにはまばゆいほどの光と鳥たちの賛嘆の声が満ち溢れ、その煙は三日三晩熊野灘を漂い続けたと言われています。これは平安時代末の本朝法華験記という書物に記されていて、現代の価値観では計り知れない壮絶な上人の衆生済渡への想いが込められています」手前にある無縫塔は応照上人のものかとも思ったが、日本における無縫塔の出現は鎌倉時代。追善のために後に設置されたものかもしれない。

火生三昧跡

無縫塔


さて、今回の参詣の目的の奥之院浄土堂に登ることにする。苔生した石段を登っていく。よくつくられた道で、急坂にならないよう配慮がされており、緩やかな円弧を描く石段は造形としても美しい。途中には磐座のような場所もあり、登る者を飽きさせない。三十分ほどで妙法山の山頂に出る。





唐からやってきた天台山の僧侶、蓮寂上人が法華経を埋経し、そこに立っていた木をそのまま彫って釈迦如来の木像とし、安置したとされている。現在の堂は平成十一年に建て替えられたものというが、妙法山の名を刻んだ聖地である。あたりは閑寂としている。訪れる前に抱いていたこの地のイメージは、湿り気をはらんだ陰鬱なものだったが、実際にこの場に立ってみると空気は澄みわたっていて、意識も同じように澄んでいくのがわかる。なんだかとても清々しい気持ちになるのだ。死に臨む意識は案外こういうものなのかもしれないなどと思いながら、お堂の裏手に回ると急な下り坂。蘇りの道、大雲取越に続いていく。

浄土堂から戻り、右手に下ると弘法大師堂、そして納骨堂がある。「蟻の熊野詣」といわれた中世、熊野三山を参詣する旅人は、往生を願って自らの毛髪をここに納めた。この風習は今に続き、熊野の人々は「お髪上げ」といって宗旨を問わず、故人の菩提を弔うために遺髪や遺骨を納めにくるという。

弘法大師堂

納骨堂

妙法山阿弥陀寺は、なぜこれほどまでに死のエピソードを呼び込むのだろうか。鎌倉時代後期に臨済宗の僧侶、法燈国師が当寺を納骨と死者供養の霊場として再興したことが契機ではあろうが、山中他界の観念はそれよりもずっと以前からあったと思われる。

死とは何なのか。桜の花が咲き乱れる展望台に戻り、遥か先に広がる熊野灘を眺めながら、補陀落に思いを馳せた。

(2019年3月30日)


参考

「熊野詣 三山信仰と文化」五来重著 講談社学術文庫

「日本霊異記(下) 全訳注」中田 祝夫著 講談社学術文庫

「死の国・熊野 日本人の聖地信仰」豊島修著 講談社現代新書

熊野妙法山 阿彌陀寺 ホームページ

https://www.myohozan.jp/

み熊野ねっと「熊野古道「大雲取越・小雲取越」

http://www.mikumano.net/kodo/kodokumotori.html