仏ヶ浦:青森県下北郡佐井村
聖地に関するブログを書こうと思ったきっかけは、昨年(2018年)6月の下北半島への旅だった。目的地は恐山。マスメディアによってつくられた恐山へのイメージを自らの五感で解体し、再構築するために訪れた。その時の印象は初めての投稿 https://ameblo.jp/zentayaima/entry-12383783113.html に譲るが、死者への断ち切れぬ思いを置きに行く場所というのが、僕なりの見立てだ。
その恐山の奥の院とされる聖地が下北半島西岸の中ほどに位置する仏ヶ浦だ。仏ヶ浦を初めて記録に残したのは菅江真澄で、寛政4年(1792年)10月8日、同5年(1793年)4月4日の二度訪れている。「ごくらくの はまのまさごち ふむ人の 終に仏が うたがひもなし」という歌が残る。当地が後に人口に膾炙するのは、明治から大正期の紀行家、大町桂月(1869~1925)による。1922年9月に仏ヶ浦を訪れ、こんな歌を詠んでいる。「神のわざ 鬼の手つくり仏宇陀 人の世ならぬ処なりけり」仏宇陀とは、仏ヶ浦の旧称。「ウダ」はアイヌ語の「浜」である。菅江真澄にせよ、大町桂月にせよ、この地を訪れた旅人は、写真や動画などが普及していない時代において、その感興を歌に託さざるを得なかったのだろう。
仏ヶ浦へのアクセスは二通りある。ひとつは佐井港から出ている遊覧船に乗り、海からアプローチし、上陸する。もうひとつは仏ヶ浦のある断崖の上の駐車場から徒歩で十分ほど下るというものだ。いずれにせよ佐井村までは車で行く必要があるので、僕は後者を取った。恐山からはどのルートでも優に二時間はかかる。秘境といえば秘境だが、佐井村にとっては唯一無二の観光資源であり、現地は訪れる者にとって今は非常によく整備されている。
駐車場に車を停めて、100m近くある崖を下りていく。遊歩道があるので足下に問題はない。下りきったところに地蔵堂がある。恐山菩提寺の本尊は地蔵菩薩であり、当地の信仰の基底を為しているのだが、仏ヶ浦も同様でこれが奥の院と見做される所以か。地蔵は人間にもっとも近いとされる菩薩であり、子どもや水子の供養として信仰を集めた。恐山の風景のひとつに賽の河原の積み石があるが、仏ヶ浦の浜辺も賽の河原であり、やはり積み石が散見される。このあたりはいずれもっと深く考察してみたい。地蔵堂の前で手を合わせ、振り返る。眼前に広がった風景は、正に異界そのものだった。
地蔵堂
屹立する奇岩、また奇岩。ただただ、圧倒されるばかりだ。僕がこれまでに見た中では、熊野の橋杭岩に似ているが、奇怪さやスケールにおいてはこれを上回る。そして、気候風土によるものか、仏ヶ浦には東北特有のもの哀しさ、無常観が漂っている。六月初めでエゾハルゼミが鳴いており、いっそうの寂寥を添えていた。
巨岩それぞれに如来の首やら五百羅漢やらいくつもの名前がついているのだが、これらの形状は宗教的に形容するよりも、シュールレアリスムアートの極北といった方がしっくりくる。ずっと仰ぎみていると眩暈がしてくる。サルバドール・ダリが描く、時空間が捻じれた風景の中に迷い込む。恐山に同じく、ここでも白昼夢を見る。
如来の首
五百羅漢
地形の成り立ちは、仏ヶ浦海上観光のホームページを参照しよう。
「今から約2000万年前、 日本列島がユーラシア大陸から分離して日本海が誕生する際に 大規模な海底火山活動が起こりました。 それは長期間に渡って日本海沿岸各所に火山灰を堆積させ、 厚い凝灰岩の層を形成しました。 仏ヶ浦の原形もこの時に形作られたと考えられます。この地の凝灰岩はもろく崩れやすく、 表面が常に浸食されているので植物が根付きにくくなっています。 海岸を歩いてみると岩が崩れ落ちる音が時折聞こえ、 実際に小さな岩が斜面に沿って大量に堆積しているのがわかります」
地質学的な説明はこうなるのだが、それにしてもなぜこの地にこのような地形が生まれるのだろうか。神の仕業としかいいようがない。比すべきではないのだろうが、人為的に造られた石の構築物は、どれほど緻密に精巧に自然を気取っても、どうしても浅薄なものに見えてしまう。AIだの何だのと昨今の世の中は喧しいが、そんなものは(便利にはなるにせよ)所詮は人間の拵えた浅知恵に過ぎない。AIは決して人間を超えられないし、人間は決して神(自然、或いは偶然)を超えられない。超えようという思いがあるならばそれは奢りでしかないだろう。
帰ってからNHK BSプレミアムの新日本風土記で「下北半島 夏」と題したドキュメンタリーを観た。本稿の最後に仏ヶ浦のくだりをことばとして記しておく。
恐山の奥の院。人の住まない秘境。江戸時代、ここに首のない地蔵が流れ着き、信仰が始まった。年に一度だけ、首のない地蔵がご開帳される。恐山大祭の最終日、船でやってくる女達の祭り。ここの地蔵講は古くから女達の集いだ。83歳の女性は「老婆会」と笑いながら自嘲する。女達は大数珠を回し、歌うように念仏を唱える。
「連絡船走ってるあたり、よくね、ここへ跳ねた人が寄って」「潮の流れでね」「身投げした人が、なんかこう、うん、一年に一回二回ぐれえ流れ着く」
仏ヶ浦から船で15分。牛滝。北前船の寄港地として栄えた。今の牛滝は漁港だ。漁師、坂井幸人さん。この港でもっとも古い廻船問屋の22代目。大漁の秘密は仏ヶ浦にあるという。
「海で亡くなった人、供養の為にお地蔵さんにお参りするところ」「今年の春、網に死体が引っ掛かって揚げてきました」「三年前に北朝鮮の船、引っ張ってきて、中から四人」「死体揚げる時は『大漁させてくれなかったら揚げないぞ』と。『大漁させろよ』って揚げてくる」。死体を揚げてくると『魔物積んできた』、『大物ば拾ってきた』って。運がいいんでしょうね、当たるから。まあ、当たったら、揚げてくるしかないでしょうね。ただ死体そのまま捨ててくるわけにもいかないし」
仏ヶ浦にはこの地に暮らす人々の静かな祈りが今も息づく。それはおそらく、宗教を超えたものに違いない。
(2018年6月2日)
参考
佐井定期観光株式会社
http://www.saiteikikanko.jp/hotokegaura.html
青森県 歴史・観光・見所
https://www.aotabi.com/aomori/monogatari/sugae/hotokegaura.html
NHK BSプレミアム
新日本紀行「下北半島 夏」
http://www.nhk.or.jp/fudoki/181005broadcast1.html