大瀬神社:静岡県沼津市西浦江梨329
神樹にはあまり見られない樹種だが、ビャクシン(柏槇)の老樹は神々しい。ここ大瀬崎にはビャクシンの樹林があり、国指定の天然記念物になっている。大瀬崎は駿河湾の北東、内浦湾の入口に約1kmにわたって突き出た半島で、夏は多くの海水浴客やダイビングを楽しむ人々で賑わう。この半島はすべて大瀬神社の神域で、手前に社殿、中央にはビャクシンの樹林に囲まれて、伊豆の七不思議のひとつとされる「神池」がある。海岸から50m程度の近さだが、淡水の池だ。鯉、鮒、鯰など数万尾が生息するという。
晩夏の晴れた土曜日。浜辺はごった返しているが、大瀬神社に参拝する人は少ない。鳥居をくぐるとその先はもう鬱蒼とした森だ。手水を使い、石段を上ると社殿がある。当社は延喜式神名帳に名の見える引手力命神社の論社に比定されている。
社伝には「白鳳13年、684年に大地震が起き、土佐国で多くの土地が海中に没した反面、突然三百余丈も盛り上がり、島が誕生した。また、土佐国から土地を引いてきて島を造ったと云う伝説もあり、その神霊を感じて引手力命として祭ったとされる」とある。出雲の国引き神話のようだが、なぜ土佐の地震と関係するのか、引手力命なのかはよくわからない。式内社の論社だが、伊東にある同名社の方が有力視されているようだ。社名、由緒はともかく、付近に縄文中期から弥生、古墳時代にかけての遺跡があることを踏まえれば、ここは伊豆半島の中でもっとも古くに成立した聖地のひとつと見られる。
参拝を済ませ、森の中を歩いていくとやがて神池に着く。深山を歩いていて、突然小さな湖に出くわしたかのようで、海に突き出した岬の突端にいることが信じられない風景だ。水面は静まり返り、蝉の声だけが谺している。
現地の案内板には怖いことが書いてある。
「池明神(水波之売神)を祀り諸人等の信仰篤く今も尚池及魚に依って種々の心願を掛け若し池に入り魚を害するときは神罰覿面と云はれ昔より今に此の不成文の禁を犯したる者が或は死し或は精神喪失その他不慮の危難に遭遇したる実例を伝え相誡めて居る。依って今尚池水の深淺底壁の組織の如き実地調査したる人無く伝説によってこの神池は保護されている」禁忌を守らせるに、実例以上に効力のあるものはないだろう。
池を一周して森の中を戻る。途中、丸石でつくられた石壇の上に大小の丸石が手向けられているのを見掛ける。甲州の丸石道祖神とは異なる習俗だろうが、中央に大振りの石が配されているあたり、類似を感じさせる。
さらに道を進むと注連縄が巡らされたビャクシンの巨樹の前に出る。神木だ。近づくにつれてまわりを圧するような気が放たれているのを感じる。大瀬崎には三百本以上のビャクシンが自生し、樹齢千年を超えるものも多い。この神木は推定千五百年というが、幹に刻まれた皺は波のようにうねり、あちらへこちらへと融通無碍に伸びる枝々も相俟って、独特の威容を湛えている。その姿形は神の造作としか言いようがない。
しばらく見惚れていたのだが、根元に小さな石祠が祀られているのが目に留まった。ここにも丸石が手向けられている。
資料によれば、浜には丸石がたくさん転がっているが、漁民はこれを持ち帰ってはならないそうだ。その一方で「アゲイシ」といって大瀬祭りの際に各浜の小石をタモや桶に入れて奉納したり、漁網の錘りにした石を奉納したりもする。一般個人でも参拝の際に小石を持参し、岬の大木の股に投げ上げておく習俗があるらしい。翌年には成長して大きくなっているという伝承があり、ビャクシンの大木の股には多くの小石がのっている、というので目を凝らしてみると、たしかに小さな丸石が幹に挟まっていた。
漁民による丸石の奉納は大漁祈願と航海の安全を願ったもので、紀伊や瀬戸内などにも見られる信仰習俗だが、象徴的な意味はあるのだろうか。静岡の民俗学者、野本寛一氏はその著書「石の民俗」の中で伊豆、駿河の事例を紹介しながら、海辺における石拾いの習俗について以下のように述べている。「石が手向けに用いられるのは一般の風であるが、海辺の石は、特に強力な手向けとなるようである。浄祓呪術的なもの、手向け的なもの、ともに、潮水に濡らした状態のものが最も霊力が強いと信じられたらしい。それに準ずるものとして、一度海水に濡らしたもの、あるいは、海水とともに供える形式、さらには、海藻とともに供える形式などが見られる。これは、古代常世信仰を潜在させる民俗で、常世水たる潮水を通じて、常世の霊力が石に付着し、それが不浄なるものを浄め、神々をも動かすとする信仰の現われと見てよかろう」
浜の積み石
神池、ビャクシンの群生、そして丸石。樹林の間から海を望むと、僕の頭の中でまた新たな謎がぐるぐる回りはじめた。
(2017年8月20日)
参考
「日本の神々 神社と聖地 第10巻 東海」谷川健一編 白水社 2000年
「石の民俗」野本寛一著 雄山閣 1975年