酒折宮:山梨県甲府市酒折3丁目1‐13
磐座好きにとって甲州はパラダイスの地だ。以前このブログで紹介した深沢大石神社奥宮をはじめ、山梨岡神社、大石神社、立石神社、笠石大明神、花後薬師、八坂大神社、日吉山王神社、子之神社、八嶽山神社奥の院、脚氣石稲荷神社、羽黒大宮神社など数え上げればきりがないが、これらは山梨県の中心部、甲府市、甲州市、山梨市、笛吹市あたりに集中している。なんらかの背景があるのだろうか。
酒折宮は、甲斐国の中で記紀に唯一その名が見える古社だ。日本武尊が東征の帰路に行宮を設けたところであり、連歌の発祥地とされる。甲斐国は五世紀後半には大和朝廷の傘下に入っていたらしく、近くの銚子塚古墳や丸山塚古墳など、大規模な古墳からもその影響が見てとれる。当社の社殿がもっとも古い神社建築様式の神明造ということも、関係があるかも知れない。この造りの社殿は、今までに僕が訪れた山梨県の神社ではここだけだ。
さて、社殿左手の段丘に上ると素晴らしい磐座が待っている。あちこちに巨石が点在し、集まっている場所も二か所ある。祭祀が行われていたことを物語るものは何もないが、肌感覚として、これは間違いなく磐座だと思う。だが、現在は特に祀られている様子はなく、当社の由緒にも触れられていないので、酒折宮そのものとは切り離して考えた方がよさそうだ。となると、この磐座は一体どんな神の依り代なのか。
当社の裏山の月見山(別名、御室山)の中腹には、古天神という場所があり、ここが酒折宮の元宮とされている。さらにその近くに古墳と磐座。そして、山頂に向かって登っていくとさらに二つの磐座群があるという。酒折に所在する山梨学院大学考古学研究会は、2010年9月中旬にこの山に調査に入り、いろいろなことを明らかにした。標高は485mと高くない。これは現地を確認するしかないだろう。
酒折宮の境内を回り込んだ裏手に不老園という梅園がある。この入口脇が登山口だ。道を登っていくとすぐに不老園塚古墳があり、その前に磐座があった。古墳は7世紀前半頃の豪族の円墳とのことだが、現在は鉄柵に囲われた剥き出しの石室があるのみだ。その前の磐座は、被葬者を神とした依代なのだろうか。磐座自体は大きく、整った形をしていて全体の趣はよいのだが、困ったことに古墳から向かって右端の石には、1980年前後に県知事を三期務めた望月幸明氏による酒折宮の連歌の銘文が刻されていた。これはいかにもセンスのない話で、どうしてこうしたことをしてしまうのかと悲しくなる。
続いて、すぐ上に古天神。今は木の根元に石祠が二つ並ぶだけだが、かつてはここに酒折宮があったとされる。石祠は山の斜面にあり、眺望はよいのだが、古墳周辺を含めてみても行宮の場としてはいかにも狭い。僕たちが歴史に触れるときは、あるスケール感を持って臨むのだが、裏切られることの方が多い。神話や伝承の地とされるところは、どこもそんなものなのかもしれない。
しばらく行くと、どこが磐座なのかわからなくなる程、巨石の群れがあちこちに現れる。ここが第二磐座群だろう。祀られた跡がないので磐座といえば磐座だし、そうでないといえばそうでない。なんとも微妙な風景だが、磐座好きにとっては堪らない場所だ。あちこち写真を撮りまくるが、後で見ると、何を撮っているのか自分でもわからない(笑)。光線の具合によっては、ただならない趣の写真もある。
さらに、山を登っていくと左手に50cmから1m程度の大きさの石が散在する斜面に行きあたった。この場所は出雲の熊野大社の元宮、天狗山山頂の祭祀場に非常によく似ており、樹木に遮られて見えない山頂に向かって、大小の石が散らばる様は磐座と云うよりも巨大な磐境の態を為している。広角のレンズをもってしても、この場の全容は表現できないだろう。
さて、ここまでは酒折宮を出発点として磐座群を見てきたが、月見山の別称が御室山であることから資料をあたると別の側面が見えてきた。月見山を遙拝した拝殿跡が山の西側、国道6号線脇に残っているが、この拝殿跡は当地から南に1kmの場所に坐す甲斐国三ノ宮の玉諸神社の御旅所とされている。これをヒントに玉諸神社の由緒を確認すると、「甲斐国の上代には酒折宮北方の三室山上に社が祀られていた」とあり、その後、日本武尊が治水のため、土地の守り神である国玉大神を一国鎮護の神として祀ったとある。
そこで御室山の磐座、玉諸神社拝殿跡、酒折宮、玉諸神社を線で結んでみたところ、以下のようになった。
玉諸神社は明らかに月見山(御室山)の第三磐座を向いている。また、玉諸神社の社殿はかつて北方の月見山を向いていたという異聞もある。つまり、典型的な山宮と里宮の関係なのだ。かつて、山は葬所であり、他界であった。当地の豪族が古くから祀っていた地神、祖先神が当社の興りだろうことは想像に難くない。そうすると、今は顧みられることのない酒折宮境内の磐座は、やはり月見山頂の磐座を遥拝する祭祀の場だったのではないかと思われるのだ。甲斐国の朝廷への服属関係、そして日本武尊の東征譚によって上書きされた場所が酒折宮という見立てである。
最後に気になることについて触れておこう。それは「酒折」という地名のことだ。酒=サカ=坂=境であり、この地は様々な意味で「境界」だったという指摘である。この件は、残念ながら今回実見が叶わなかった月見山の第三磐座を訪れた時にあらためて考えてみたい。
(2018年12月15日)
参考
「酒折山の遺跡、石造物、歴史」山梨県学園交流ポータル
https://www.sakaori.jp/historic/sakaoriyama/contents_02.html
「連歌発祥の地に眠る古墳」山梨学院ニュースファイル
http://www.yguppr.net/100921ygu_main.html
「日本の神々 神社と聖地 第10巻 東海」谷川健一編 白水社 2000年