(以下、昨年12月19日に投稿した記事ですが、本年1月2日に同地を再訪したところ新たな発見があったので、「洞窟と屹立する巨石」を改題の上、後段を大幅に加筆修正、画像も新たなものに差し替えて再投稿します)
船越鉈切神社 千葉県館山市浜田125-36
海南刀切神社 千葉県館山市見物787-4
館山の市街地から房総フラワーラインで5、6㎞下ったところ、海にほど近く、気持ちのよい潮風が吹いている。前日の天気予報では夜半から雪が降り、館山でも積もると云うことだったが、今は陽光さんざめき、すぐそこに春が来ているかのような錯覚を覚えるほどだ。このふたつの神社は道を挟んで向かい合っていて、もともと鉈切神社として一体だったとされている。山側の船越を上宮、海側の海南を下宮としていたらしい。船越鉈切神社は「鉈切洞穴」として著名で、県指定史跡だ。鳥居手前の案内板には、縄文時代の遺跡で、古墳時代には墓として利用され、その後は海神を祀る神社として信仰の場になっていたとある。
まずは、船越鉈切神社へ。参道を上っていくと右手の岩に二つの穴が刳り抜いてあり、なにやら祀られている。これは鎌倉時代に盛んにつくられた「やぐら」と云う武士階級の墓だ。その大半は鎌倉にあるが、南房総にもこの葬習があり、当社の近く、滝口にある下立松原神社近くの崖にもいくつもの穴が空いている。
やぐらは通常、寺に近い山腹や切通しにあるらしいが、ここは神社の境内である。死穢をきらう神域に墓があるというのは常識からすれば奇妙にも思えるが、歴史学や民俗学の先駆者たちが指摘するように、神社はもともと葬所であったところが多い。これまでに訪れた神社でも、境内に古墳があるところは多く、中には古墳の上に社殿を戴いているところもある。日本の神々の多くは人格神であり、祖神を祀る起源の多くは葬所に求められるのではないだろうか。
やぐらの前方左手には、真二つに割れた苔むした石がある。立札には「昔々その昔、浜田洞穴に大蛇が棲み、村人を苦しめていました。それを知った神様が怒り、大蛇を退治するため、鉈を砥ぎ、試し切りをしたところ、真っ二つに割れたという伝説の『鉈砥ぎ石』です」とある。石の信仰は太古からあるが、巨大な岩石以外にも、奇妙な形状のもの、中でも自然にすっぱりと割れた岩石は、往古の技術では加工が困難であったことからか、神の仕業と聖視されたのだろう。
ここは1956年に発掘調査が行われ、縄文時代後期(約四千年前)の土器とともに、骨で拵えた釣針などの漁具が大量の魚骨と一緒に発見された。また、拝殿の前にある宝物殿には社宝とされる丸木舟一艘が収められている。徳川光圀が編纂した『大日本史』に、洞窟の奥に十艘以上の舟が置かれていたとの記録があり、この丸木舟はその内の一艘と伝えられる。前稿で出雲の猪目洞窟について触れたが、ここでも舟葬が行われていたのだろうか。この洞窟は、海民の生活の場として出発し、後に葬所として用いられ、やがて祭祀の場となって、今に続くことがよくわかる。
続いて、海南刀切神社に向かう。道を挟んですぐの場所だ。こちらはより海に近く、境内は広々としてあっけらかんとしている。海辺の神社によくある趣だ。青く澄んだ空、樹々の緑に、朱の明神鳥居がよく映える。拝殿の屋根も青く、清々しい。扁額には正一位刀切大明神とある。拝殿左の羽目板には素戔嗚命と八岐大蛇、右の羽目板には天の岩戸神話が彫ってある。この土地の木彫師の手によるものとされるが、その技巧は素人目に見てもたしかなものだった。
拝殿の左手には磐座がある。一瞥しただけでカミの坐す場所が社殿にはないことがわかる。そして、磐座の右後方、拝殿の後ろを覗くとそこには「なたぎり」の名の由来となった、縦に真っ二つに裂けた巨岩が屹立している。御神体は間違いなくこの岩だ。岩の先端には注連縄が渡してある。裂け目から青い空が見える。沖縄の久高島を遥拝する斎場御嶽の三庫理(さんぐーい)を想う。拝殿を引き剥がし、むき出しの磐座にしてしまうと、その異様な存在感は一層際立つだろう。あらためて、人の手が入れば入る程、外部の人間が訪れれば訪れる程、聖地としての本来の力が萎えてしまうことを思う。
さて、今年(2019年)の正月二日に思い立ってこの地を再訪したところ、磐座の左手奥に小さな石段を見つけた。
嬉々として磐座の上に登ってみたところ、当の磐座自体が想定していたよりもずっとスケールの大きいまるで小山のような岩塊だということがわかったのだ。
磐座の裏
房総半島でここまで大きな磐座は類を見ない。また、磐座の裏、浜側に回ってみてあらためてわかったことは、この磐座の裂け目は海からやって来た祖先神の通り道とされていたということだ。安房郡誌には、船に乗ってやって来た神がこの浜から上陸した時に、手斧で巨岩を切り開いて道を通じたという伝承が記録されている。「傳へ曰ふ、古昔此の神獨木舟に乗りて、此の海濱に来り、鉈を以て巨巖を切り路を開いて上る。故に一神にして船越鉈切の二神ありと。又、曰く古紫池と云へるあり。中に巨蛇潛伏し、往々出でヽ人民を惱ます。此の時相模より獨木舟に乗りて渡る神あり。一刀を以て大蛇を退治し給ふ。故に刀切神と號すと。相州三浦郡糀谷山神社記に、安房刀切神社は當神の御子を勸請せりと見ゆ。」(安房郡誌)
この糀谷山神社とはどこを指すのだろうか。インターネットで検索するとそれらしき神社に当った。相州三浦総鎮守を称する、その名も海南神社(神奈川県三浦市三崎4ー12ー11)だ。由緒沿革にはこのように記されていた。
「御祭神・藤原資盈公は、天児屋根之命之の苗裔である。九州太宰少弐広嗣の五代の孫に当り、五十六代・清和天皇の御宇、皇位継承争いに関係した伴大納言善男の謀挙に荷担しなかった為、讒訴で追討の罪を蒙って筑紫の配所に航する途中、暴風に遭遇して貞観六年(八六四)十一月一日父子三人、郎党五十三人は当地に着岸した。(公の嫡男の船は房総半島に着岸し、現在の鉈切大明神は資盈公の嫡子を祀ると伝えられる。) 後略」
僕は当初、船越鉈切神社と海南刀切神社の関係を心理学者C.G.ユングの元型、集合的無意識を引き合いに、洞窟≒ (女陰)≒太母と、巨石≒ (男根)≒老賢者と見立てていたのだが、まったくの見当違いだった。鉈切洞穴、巨岩の裂け目を結んで海の先にあるのは、対岸の三浦半島南部であり、当地の海南神社あたりにはいまも海蝕洞穴遺跡が群集する。これらを考慮すれば、館山は対岸から刳り船に乗って浦賀水道を移動してきた縄文人、弥生人、古代人が開いた地と見ることが出来るのではないか。同類の関係は、横須賀は久里浜に近い安房口神社と館山の洲崎神社の対になった磐座に見て取れるし、相州海南高家神社と房州高家神社(式内社・料理の神様)の関係も気になるところだ。これらは別の機会に紹介したいと思う。風光明媚な館山の地だが、神社や古代史に関心がある人にとってはまだまだ面白いことがありそうだ。
(2018年1月2日、2015年1月22日)
参考
「館山湾の洞窟遺跡 -棺になった舟。黄泉の国への憧憬-」 館山市立博物館 平成22年
「日本の神々 神社と聖地 第11巻 関東」谷川健一編 白水社 2000年
「千葉県安房郡誌」千葉県安房郡教育会編 大正15年
(国立国会図書館デジタルコレクション)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980721
海南神社ホームページ
http://kainan.server-shared.com/