熊野 まないたさま
まないたさま:三重県熊野市有馬町2432付近
産田神社:三重県熊野市有馬町1814
花の窟から5km程、熊野市有馬町の山中にある。グーグルマップの音声ガイドを頼りに向かうが、到着すれどもそこは川沿いの道。目的地は谷底にあるようだがガードレールに阻まれ、降りようにも道すらない。当惑したが一本道なので谷の反対側に回ればよいのだろうと先に進む。池川と云う集落に入り、谷へ降りる道を探す。左に折れる砂利道があった。車を降りてあたりを伺うと樹の下に小さな板の看板。まないたさま、とあった。砂利道をすこし入り、右手にある薬師堂の脇に車を停める。そのまま道を進み、谷底に向かって降りていく。川の流れの音がだんだんと大きくなってくる。川床に近くなるとそこここに巨石が現れ、囲まれるように木の鳥居が見えた。まないたさまだ。
もちろん社殿はない。祭神も不明だ。鳥居の奥の岩の裂け目には簡素な木の祭壇があり、白い丸石が敷き詰めてある。岩陰に箒と塵取りが置いてあり、誰かが掃き清めていることがわかる。祈りは今も続いているのだ。この場に身を置いて思い出すのは高千穂の天安河原だ。谷底、川、巨石と云う点で共通するが、人々がこうした景色にカミを見るのは何故なのだろうか。
熊野の原初の神々は、1500万年~1400万年前の巨大な火山の噴火で出来た地形によって造られたと考える(*1)のだが、まないたさまも同様だろう。人々がこの景色を見たその時から、聖地として認識した筈だ。鳥居や社殿があるかないかと云うことではない。それらは後に訪れた者に聖地であることを示す記号でしかないのだ。また、聖地につきものの、奇瑞とか、霊験とか、御利益がそこにあったとしても、人々の意識がその場に集中し、他の伝承と習合することでつくられたものではないかと思うのだ。鳥居脇の説明板には以下のように書かれている。
まないたさま 天の真名井戸
「マナイタさんとよばれ婦人病に霊験ありとて地方婦女子の信仰を集めているがマナイタ(真魚板)とこの信仰のつながりは理解できがたい。マナイタとは恐らくマナイト(真名井戸)の転訛で古くそこに水神が祭られていた為にこの信仰が生まれたものであろう。
マナイタさんとよばれ婦人病に霊験ありとて地方婦女子の信仰を集めているがマナイタ(真魚板)とこの信仰のつながりは理解できがたい。マナイタとは恐らくマナイト(真名井戸)の転訛で古くそこに水神が祭られていた為にこの信仰が生まれたものであろう。民俗学の面から考察すれば水神は五穀の豊穣をもたらす神で人間界では多産を約束する神でもある。従って水神に対して子供を求め安産を願い婦人病の平癒を祈願するのは全国通じての習俗であるが水神と呼ばずマナイタの古語が残っている所に時代の古さが偲ばれる。例えば古事記、日本書紀の天の真名井、紀北丹生津姫神社の真名井、熊野本宮山の真名井等いずれもその例で祭祀に先立ってまず水コリをとり行を修する神聖な場所であった。今この付近の字を「垢離掻場」と称しているのはその証拠で恐らくは産田神社に関する古い遺跡であろう。」
この案内板を除いて、当社の由緒来歴を示す資料は見当たらない。郷土史家によるものだろうが、こなれてはいないものの説得力がある。これ以上のことを知るには地元の古老に話を聞くしかない。
さて、産田神社にも行ってみよう。まないたさまから2km下った平地にあり、その構えはいわゆる神社のそれである。拝殿は神明造で、伊勢あたりの社を思わせる。拝殿の前にはやはり白い丸石が敷き詰めてあり、清浄な空間を印象づける。
日本書紀神代の巻では伊弉冉尊が軻遇突智(カグツチ)産んだ場(*2)としており、この地に近い花の窟と同様、母子二神を祀るとされている。但し、異説もある。花の窟が伊弉冉尊の葬所とされたのは、日本書紀を参考とした後の付会で、元々は海の民の山当て(*3)であったというものだ。たしかに古事記でイザナミが葬られたのは出雲国と伯伎国にまたがる比婆山である。管見だが、なんらかの(恐らくは政治的な)意図によって、イザナミの葬所が移されたと考える方がよさそうだ。
(2018年4月1日)
(注記)
*1
南紀熊野ジオパーク 大地の成り立ち
http://nankikumanogeo.jp/geo_theme/earth/
*2
日本書紀 巻第一 神代上
次生火神 一書(第五)
一書曰、伊弉冉尊、生火神時、被灼而神退去矣。故葬於紀伊国熊野之有馬村焉。土俗祭此神之魂者、花時亦以花祭。又用鼓吹幡旗、歌舞而祭矣。
*3
漁民が海上で舟の位置を確認するために地上の山、岬、岩、滝、巨木などを目印にすること。