石神神社:青森市入内駒田
まずは、石神の画像をご覧いただきたい。
類稀なる奇石といってよいだろう。異形の巨石、磐座、石神は数多く見てきたが、この石神はそのいずれとも異なり、不気味さが際立つ。やぶ睨みの大きな両目のある、髑髏を思わせる石だ。ヘッジス・スカルと同質の不吉さやいかがわしさ、そして寂寞とした空気を纏っている。じっと眺めていると神秘を通り越して胸の内が音を立ててざわついてくる。自然石なのか。だとすれば、神の為せる業としか言いようがない。人為か。ならば一体誰が何のために。
今年の初夏、縄文遺跡と下北半島の聖地を巡るために青森を訪れた。爾来、ずっと気になっていることがある。それは、東北固有の民間信仰の実態だ。象徴するのは恐山とイタコだが、七月の恐山大祭に訪れるイタコはいまや二人にまで減ってしまい、総数は現在十名もいないと云う。風前の灯ともいえるのだが、他方、青森にはカミサマ(ゴミソ)と呼ばれる巫者が未だ多数いるようだ。両者の違いは図表の通りで、主に盲者であるかどうか、師についての体系的修業の有無、口寄せ(故人の降霊)を行うかどうかで区別されている。
いくつかの文献を踏まえてカミサマを表すなら、それは悩み事を抱えた個人の相談者や信者に神託を伝え、災厄を払う祈祷師、或いは占い師といったものになろうか。世に云う霊能者、スピリチュアルカウンセラーであリ、一般庶民の救済を担う宗教者なのである。
青森にはカミサマ及びこれに連なる人々が通う霊場がいくつかある。代表的な場所は、弘前市の岩木山北麓にある赤倉霊場、五所川原市金木町の川倉地蔵尊(太宰治の生家「斜陽館」近く)、そして石神神社のある青森市入内である。
入内の集落は八甲田山の北西麓にある。青森駅から車で三十分余りと遠くはないのだが、石神神社そのものは集落からかなり離れた山中にある。菅江真澄も訪れた小金山神社、入内観音堂を過ぎ、林道に入ってしばらく行くと、かなりの悪路、且つ狭路を進むことになる。もし訪れるのなら四駆の軽自動車をお勧めしたいところだ。山中、川沿いの道をそろそろと登っていく。やがて、道幅が広くなる。石神神社、霊場の入り口だ。神社手前には社務所と思しき建物があり、前に車が数台停まっている。複数の人の気配がある。修行の場でもあり、宿泊、滞在が出来るようになっているのだろう。四十前後の夫婦と数人の子供がお参りから帰ってきたところだ。
石神にお目にかかるため、鳥居をくぐり、急傾斜の石段を上っていく。社殿があるがなぜか横を向いている。正面に回る。「石神大神」の扁額。社殿の正面と側面にすべてサッシが嵌っていて、その造りには由緒や歴史といったものが感じられない。社殿の中を伺うと、宝珠紋を象った巨大な金色のモニュメントや多数の金色の御幣が奉納されており、なかなかにキッチュだ。その風合いは伝統宗教のものではなく、新宗教により近い。しかもこの社殿、社頭の地図では「本堂」と記されている。神社なら厳密には「本殿」だが、神仏混交なのか、或いはたくさんの堂が立ち並ぶ赤倉霊場に倣ってのことなのかも知れない。石神神社は、アマテラス、ツクヨミ、オオヤマツミの三神を祀るが、本来は石神こそが神体で、記紀の神々に連なる神社ではない。民間信仰がオーソライズを求めた結果、様々な神をコラージュすることで平仄を合わせたと思われる。この種の聖地により深く入っていくと、何が主神として祀られているのか分からなくなることがある。伏見稲荷大社のお山にある無数の塚と同じ構造で、場が有する聖性が周辺にある信仰を吸引するのだ。強烈な磁場、ブラックホールのようなものだろう。
先に触れたが、石神神社の周辺はカミサマの行場でもあり、実に様々な神々を祀ってある。滝行を行う場もある。事実、社頭に掲げられた「大石神社聖地巡り略図」には、山中に点在する石を磐座に見立て、二十二柱もの神名が冠せられているのだ。イザナギ、イザナミ、オオクニヌシ、サルタヒコはともかく、十和田大神に鳥海山大神、三日月大神に大星大神、さらには地元のオシラサマ、そしカミサマの本家本元、赤倉大神という節操のなさなのである。
さて、件の石神。右目がアマテラス、左目がツクヨミに擬えてある。問題は右目だ。なんと目の中から水が湧き出ているのだ。柄杓が目元に添えてある。流石にこれを汲んで飲んだり、目を洗うようなことはしなかったが、難病や眼病を治す霊験あらたかな水として人々の評判を呼び、石神信仰が確立したとされている。
由来を記した案内板を写しておこう。
入内の石神神社
「藩政時代、『石神様』としてその霊験が広く喧伝された。日月輪の自然石から湧き出る清水が難病や眼病治癒に効果があったという。大祭の陰暦六月十六日前後は、参詣する人が後を断つことがなかった。杉の大樹はそのことを物語っている。
草創年月は不詳であるが、霊泉の発見者は眼病を煩っていた小館村(現青森市)の弥十郎という人であると伝えられている。
明治初年、神佛混淆禁止のとき、神社の形体が未整備の理由から信仰を禁止させられた。
しかし、霊泉を求める人が多く祈祷所を願い出たが、明治五年、県庁から『愚民を惑わす妖言』として不許可になった。その後、自然石の破壊も試みられたという。
明治三十八年、三上東満によって再開発され、以後、小野林之介、成田嘉七に継承され聖地として整えられた。祭神は天照皇大神、月夜見大神、大山祇大神、例祭日は陰暦の四月、六月、九月の十六日である」
辺境に生きる民の中に記紀の神々はいない。いたとしても、それは薄い衣を被っているだけなのだ。都から鄙を見てわかった積りになってはならない。鄙は政治的には弱者だが、こと生活においては強靭なのだ。いずれ川倉に、そして赤倉に赴いて、その薄い衣を剥ぎ取らなければならないだろう。その時に初めて、大和朝廷によって征討された、まつろわぬ民の実像が見えてくるように思うのだ。
(2018年6月3日)
(付記)
カミサマを含む津軽の巫者についての先行研究は、池上良正を嚆矢として幾つかあるが、近年の若手の研究者の中では、白百合女子大学非常勤講師の村上昌によるものが出色だ。関心を持たれた方はぜひ参照されたい。Google検索でPDFをダウンロードのこと。また、書籍も出版されており、こちらも新聞各紙の書評で多く取り上げられているので、併せて紹介しておく。
<論文>
「現代巫者研究−知識の日常的交渉の観点から−」村上晶 2015年
「巫者の語りと実践の形成−津軽のカミサマを事例として−」村上晶 2017年
<書籍>
「巫者のいる日常 津軽のカミサマから都心のスピリチュアルセラピストまで」 村上晶著 春風社