麻賀多神社(台方) :千葉県成田市台方1
七五三のお参りに来た家族が境内に溢れている。宮司の招きで拝殿脇の玄関から親子連れがぞろぞろと中に入っていく。初秋の土曜日の午前中に相応しい、何とも長閑な光景だが、何か違う。僕が探している場所がこんなに普通の筈はない。岡本天明に日月神示が下った社務所はいったいどこにあるのかと、境内にある案内板を見ていて見当違いに気付いた。後で判明したが、印旛沼の東南のこのあたりには、同名の神社が十八社もあるとのこと。ここは佐倉藩総鎮守の麻賀多神社。カーナビに入力した場所を鵜呑みにしたのがいけなかった。街中にあるということも含めて地元ではこちらが参拝者も多く、ポピュラーなのかも知れない。あらためて行く先を住所で入力し、目的地に向かう。
境内は東京ドームひとつが軽く入るほどの広さがあるが、その殆どは社叢。九月の陽光の下でも薄暗く、車の中からでも何かが隠れていそうな感じが漂ってくる。国道に面して朱の柵が長く続いていて、その柵沿いに駐車スペースがあるので、車を停めて鳥居をくぐる。入口は狭くひっそりとした感じだ。参道を少し行くと、右に道祖神、左に社務所。続いて階段を上ると場が開けて社殿の正面に出る。どっしりとしたなかなかの構えだ。
参拝を済ませ、境内をひと巡りしようと社殿の左手に回った時、唐突に目に入ってきたのが天を衝く杉の巨木。身体が固まる。魁偉な容姿。漂う妖気。こんな樹はあまり見たことがない。人が寄りつくのを拒むかのような威容で、人格を備えているのではないかとまで思わせる厳かな表情をしている。
樹齢千三百年有余、東日本一の大杉とされ、高さは四十メートルくらいあろうか。幹はおとな四、五人が両腕を拡げて手をつないでやっとひと回りするほどあり、県の天然記念物に指定されている。大きさだけではない。黒々と光る樹肌のところどころに瘤があり、その瘤が人の貌に似た形をつくり出し、こちらを睨んでいる。神木はたくさん見ているが、その佇まいは見る者を圧する。社殿の右手奥には、末社の天之日津久神社がある。画家で神道家の岡本天明は、昭和十九年の終戦間際にここ麻賀多神社に参拝し、その後、社務所でひと休みしている最中に国常立尊の天啓を受け、「日月神示」の自動書記に至った。この神示は漢数字や記号混りの難解極まりない文書で、当初は本人も読解不能であったと云うが、後年関係者の労力によってかなりの部分が解読され、現在は書籍として一般に流通している。成立時期との関係があるのか、内容には終末論的な趣もあり、一種の予言書とも言えそうだが、動乱期に興った他の新宗教のように「宗教」にはなっておらず、教義、教団のようなものはない。神示で説かれていることも、どちらかと云えば人としての姿勢とか態度なのである。"トンデモ"扱いする人も多いようだが、僕が訪れた時も天之日津久神社を目当てに詣でたと思しき方々が数組いて、信奉者に大切に祀られていることがよくわかった。
麻賀多神社(船形) :千葉県成田市船形834
さて、続いて船方の麻賀多神社に向かう。台方の本社の奧宮とされており、字名から別名手黒社とも呼ばれている。台方からは車で十分もかからない。早速カーナビに住所を入力して車を数分走らせると、すぐに鳥居が。なんだか近過ぎるなと思いつつも、鳥居の脇の石碑に麻賀多神社とあるので、間違いないのだろう。脇に車を停めた。ところが、鳥居をくぐるとさっき見た風景。どうやら広大な神苑の周りを一周して戻ってきたようなのだ。狐につままれたような気持ちで車に戻ったが、カーナビへの入力は間違っていない。聖地を巡っていると、この種の奇妙なことがよく起こる。
船形の麻賀多神社は、成田郊外の田園の中にある小山を少し上ったところにあった。周囲は鬱蒼とした社叢。鳥居から中に入ってすぐ右手に古墳がある。方墳の麓に祀られているのは、印旛国造、伊都許利命(イツトリノミコト)だ。国造は、古代における行政府の長で、その土地の支配者である。麻賀多神社は、この伊都許利命が創祀に関わったとの由。ここにも台方の本社に同じく、社殿向かって左後方に大杉があるが、こちらには妖気のようなものは感じられない。
問題は社殿の左手、幾つかの境内社を背にした柵の外だ。樹叢の中に開けた場所があり、思わず「何だ、ここは」と呟いてしまったのだが、中でざわざわといろいろな物がざわめき、蠢いているような気配がする。あちこちの樹々の根元に小さな祠が点在している。熊野社とか、菅原社と書かれた木の札が立っているが、これらはずっと後になって勧請されたものだろう。伊都許利命の墳墓の裏にも金刀比羅神社が祀ってあったが、こうした祠に祀られた分霊ではなく、小さな精霊のような無数の何かが蠢いている感じがするのだ。目には見えないけれど、八百万の「カミ」がいる。
このあたりは国造、伊都許利命が生きた古墳時代前期の祭祀場だったのではないか。当地は「船形」と称し、印旛沼の東、1㎞の場所に位置する。印旛沼は干拓で往時の半分ほどにまで面積が縮小しているとのことだが、かつて印旛沼がこのあたりまで拡がっていたとすれば、船での往来もあったことだろう。やはり聖地は水と関係しているのだ。成田の民俗学者、小倉博氏の論考を引用する。「本社の西方一キロ、印旛沼沿岸の鳥居河岸という所に鳥居があって(沼が埋め立てられる以前は水中にあった) 神幸式の際の重要な場所になっていること、「麻賀多」は一般に「真潟」の意とされていることから推して、当社の神は農・漁両面に関連した水神の性格をもつものと考えられる」(「日本の神々 神社と聖地11 関東」白水社) 僕も賛成だ。勾玉が転じた社名ではないと思う。そして祭神は、台方は和久産巣日神、船形は稚日女尊なのだ。食物神、水神に関係してくるのだが、このあたりを解説すると紙幅が尽きないのでお読みの方々に委ねる。
台方と船形の式内麻賀多二社の関係は未だによくわからない。山を介した里宮と奥宮の関係とは異なるが、農耕祭祀を基軸とした田宮と里宮の関係があるのかも知れない。本社の縁起は通説、日本武尊の東征譚に拠っているが、これは東国の豪族が大和朝廷の体制に組み込まれるプロセスで付会されたもので、実際は国造一族の農耕祭祀が始源なのではないだろうか。
(2015年9月19日)
追伸)本稿で二十稿目になりました。いつもアクセスいただき、ありがとうございます。書きたいことがあり過ぎて文章量が増えてしまい、推敲に苦慮していますが、読んでいただける方が一人でもいる限りはなんとか続けたく思います。よろしくお願いします。
著者 拝