福岡と大分の県境にある英彦山に登ってきた。中岳は観光登山でもなんとかなるコースだが、隣接する南岳からの下山は鎖場が何ヶ所かある上に、一年前の集中豪雨による崩落で山が荒れており、道がわかりづらく難儀を極めた。とは云え、帰路にある玉屋神社、般若窟は苦労した末に辿り着いただけのことはある素晴らしい修験の聖地であり、北岳の登山口にある高住神社・豊前坊とともにいずれ紹介したく思う。
今回は、英彦山から太宰府への豊前道を田川に下った先、香春の三ノ岳山腹にある古代渡来民の聖地、阿曽隈神社をご案内する。香春岳の現在は石灰岩の採掘、セメントで知られ、一ノ岳は山頂が大きく削れて平たくなってしまうほどに採掘が進んでいる。南麓には2004年に解散した旧香春太平洋セメントの工場が残り、石灰岩の採掘は今も細々と続いているようだ。
採銅所という字名が伝えるように、三ノ岳中心に銅の産出する地として夙に名の知られた場所で、宇佐神宮に奉納された銅鏡は当地で作られ、東大寺の盧遮那仏や和同開珎もこの地の銅を使ったとされている。弥生時代初期に朝鮮半島南部から渡来した民は、稲作とともに様々な文化や技術を北部九州にもたらした。中でも銅や鉄など鉱物の採掘、精錬は先進的文明であり、祭具、武具などにおいて、当時の権勢者に欠かすことの出来ない技術であっただろう。渡来の民が銅を求めて定住に至った地のひとつがここ香春であり、彼らが信奉した神々を祀ったのが、一ノ岳山麓の式内社香春神社だ。祭神は、辛国息長大姫大目命、忍骨命、豊比咩命の三神。香春の三岳それぞれに祀られていた神を合祀したとの由。
辛国息長大姫大目命は、神宮皇后の異名である息長帯比売命や、宇佐神宮の創祀に関わった巫女、辛嶋勝乙目を想起させる。因みに「辛」は加羅、韓とも表記され、新羅を指す。
香春神社に残る弘安10年(1287年)の解文では当社を新宮としているが、これに対応する本宮は採銅所の古宮八幡宮である。さらにその元宮が三ノ岳麓にある阿曽隈神社だ。香春神社の三柱の祭神の内、豊比咩命を祀っていた。古宮八幡宮の略縁起には、永禄四年七月(1561年)、兵火により社殿宝庫を焼失、その後慶長四年(1599年)に旧社地より現社地に移御する、とある。よって渡来の神が香春岳に最初に降ったのは阿曽隈の森ということになろう。
前置きが長くなった。香春神社から国道322号線を日田彦山線の採銅所駅方面に向かう。宮原の交差点を左折して150m程行くと、左手の草叢の中に史跡阿曽隈社入口と書かれた小さな看板が立っている。グーグルマップにも阿曽隈入口とプロットされているが、とにかくわかりにくい場所にある。もちろん、鳥居などない。近くの空き地に車を停め、草叢の中を進む。日田彦山線の下をくぐる。その先、道らしきものはあるが夏草が生い茂っており、行程は藪漕ぎそのものだ。途中に行く手を示す看板が何ヶ所かあり、見つける度に安堵する。たくさんのハグロトンボがひらひらと舞っている。
十分は歩いただろうか。やがて草叢はなくなり、参道らしくなってくる。ほどなく目の前に鬱蒼とした森。もう道はない。恐らくこの森全体が阿曽隈社なのだろう。
森に足を踏み入れた途端、空気が変わる。独特の気配がする。目には見えないが、場全体を包み込むような大らかな存在を感じる。ゆっくりと奥に進む。嘗て採石場であった名残りなのか、多くの石が散らばっており、一見すると磐座祭祀の場のようにも見える。空間の風合いは、沖縄の御嶽、種子島のガロー山、薩摩は大隈のモイドン、対馬の天道山、福井は大島半島のニソの杜などに同じくしており、元々は森に降ったカミを祀る場だったのかも知れない。
訪れる人はほとんどおらず、地元でも若い人は顧みることもない存在であろうが、創祀は恐らく古墳時代に遡り、古宮八幡宮に遷座した後も四百年以上にわたって祈りが続いてきたとすれば、このカミの大きさを想わずにはいられない。
御利益などとは一切無縁の聖なる森。渡来の民は一体何を畏怖し、何を祈っていたのだろうか。
豊前国風土記 逸文
「田河の郡、鹿春の郷、 郡の東北のかたにあり。此の郷の中に河あり。年魚あり。 其の源は郡の東北の杉坂山より出でて、直に正西を指して流れ下りて、真漏川に湊い会えり。
此の河の瀬 清浄し、因りて清河原の村と號けき。今、鹿春の郷と謂うは訛れるなり。 昔者、新羅の国の神、自ら渡り到来りて、此の河原に住みき。便即ち、名付けて鹿春の神と曰う」
(2018年8月28日)