表八丁郭:長崎県対馬市厳原町浅藻

 

厳原から浅藻の集落を目指して県道24号線を行く。厳原港を離れるとすぐに山越えである。この島の人たちの運転はかなり荒っぽい。山間のカーブでもスピードを落とさず、中央線ぎりぎりに突っ込んでくる。漁師町だからか。司馬遼太郎は「街道をゆく」でタクシーの運転が乱暴なことに触れ、漁業を生業とする対馬と農業を生業とする壱岐の島民性を比較していた。

道が浅藻川にさしかかる手前、右手に八丁郭と書かれた標識がある。厳原方面からだと標識の裏側しか見えず、浅藻の集落との間を行ったり来たりしてしまうので注意が要る。標識を山側に折れて、数百メートル。行き止まりは少し開けた空き地になっていて、車が停められる。降りてそのまま森を進むと石造りの白い鳥居。右手に御嶽教傘下の対馬天道教会が設置した石碑と黒御影石の由来記がある。

鳥居をくぐり、薄暗い森の中をさらに行く。このあたり一帯は嘗て国有林で伐採、製炭なども広く行われていたらしいが、龍良山原始林が大正十二年に国の天然記念物に指定されて以降、伐採は行われていない。また、禁忌のある聖地ゆえか、人の手が入らず、辛うじて原生林の風合いを留めている。

ほどなく朽ちて倒れかけた木の鳥居、その先に平たい割石が積まれた戒壇のようなモニュメントに遭遇する。森の中に唐突に出現するので異様さが一層際立つ。通称オソロシドコロの名の通り、人を寄せつけない厳かさを湛えている。一見すると岡山の熊山遺跡のようだが、比較すると造作はよりプリミティブだ。天道教会の人々が据えたのだろうか、祭壇も設けてあるのだが。壇や塔というよりも磐境に近い。


ここは天道法師の廟所と伝えられるが、実際に墓なのだろうか。対馬は壱岐と並び、卜部に任官される者が多かった地で、彼も幼少時に都で巫術を学んだとされる。対馬に帰った後には、空中を飛行して都に赴き、祈祷で元正天皇の病を治したという伝承がある。実在は疑われるが、対馬の山岳修験者が当地の天道信仰と結びつき、さらに役行者の様々な験力に関わる伝承と習合し、天道法師像が確立したと見るのが妥当ではないだろうか。これらを含めて思うに、やはりこれは墓としてつくられたものではない。眺めていてもどうも墓の匂いがしないのである。積み石それ自体に意味があるように感じるのだ。

宗教民俗学者として知られる五来重は、石の宗教を四形態に分類している。

1.自然の石をそのまま手を加えずに崇拝対象とするもの

2.自然石を積んだり、列や円環状に配列して宗教的シンボルや墓にするもの

3.石を加工するもの。石棒、石仏、石塔など

4.石面に絵や文字を彫るもの。磨崖仏、石板碑など

この分類に従えば、八丁郭の積み石は2と3の中間にあたるだろう。形状は異なるものの、同じく対馬は佐護にある天多久頭魂神社の石塔や、木坂、青海、五根緒にあるヤクマの塔に共通するもので、ヤクマの塔は現在も続く信仰習俗であることからも、これは天道を祀るための設えと言ってよいのではないか。

対馬の地における天道信仰の本質とは何なのか。天道とは天道法師を指すのか、太陽神なのか。龍良山を挟み、南北に表裏の八丁郭が対しているのはなぜなのか。なぜ祭祀において石が積まれるのか。さわやかな秋の風が森を吹き抜けていく。辺境の島の深い森の中で、謎は深まるばかりである。

(2015年10月11日)