安房神社:千葉県館山市大神宮589
年内に近場の聖地巡りがてら温泉に一泊しようと思い立ったのは十月だ。当初はジオパークとしても知られる秩父三十四観音霊場に行こうと考えていたが、ちょうどこの頃から関東甲信のあちこちで熊の目撃や人身被害が伝えられるようになった。念のため秩父札所のホームページで熊出没情報を確認すると、目当ての霊場の多くで熊が目撃されていることがわかった。熊のことはアイヌのイオマンテやマタギの習俗など、かねてから関心を寄せているが、さすがに熊そのものには出逢いたくない。秩父は熊が腹を空かせていない時期にすることにして、熊がいない房総に行先を変更した。
房総は自宅から車で一時間半程度ということもあって、かなりの場所に足を運んできたが、なかなかストーリーにまとまらずこれまでブログにはあまり投稿してこなかった。だがあらためて訪れてみると当地の外側にさまざまな広がりが見えはじめた。まずは安房という国の来歴について古語拾遺を参照しておこう。
天富命は天日鷲命の孫を率いて肥沃な土地を求め、阿波の国に遣わして穀・麻種を植えた。 その末裔は今は彼の国に居る。大嘗の年に木綿・麻布・種々の蓑を貢ぎ奉った。 故に郡の名を麻殖(アサウエ)としたのは是が元である。天富命は更に肥沃な土地を求めて阿波の斎部を分けて東の国に率いて往き麻・穀を播き殖、 良い麻が生育した。故にこの国を總国(フサノクニ)と言う。穀・木の生育したところは、 是を結城郡(ユフキノコオリ)と言う。[古くは麻を總と言う。 今の上總・下總のに国がこれである。] 阿波の忌部が居るところを安房郡(アワノコオリ)[今の安房の国がこれである。]と言う。天富命はやがてその地に太玉命の社を建てた。今は安房社(アワノヤシロ)と言う。 その神戸(カムベ)に斎部氏が在る。また、手置帆負命の孫は矛竿を作る。 その末裔は、今別れて讃岐の国に居る。年毎に調庸の他に八百竿を奉る。是はその事のしるしである。(出典*1)
天富命は天太玉命の末裔である。太玉命は天照大神の岩戸隠れ神話で活躍した祭祀の神で、中臣氏・斎部氏(忌部氏)の祖神とされ、祝詞・占い・供物の調製など祭祀全般を司っていた。一方、天日鷲命は製紙・紡織・技芸の神とされ、阿波国開拓の祖神としても知られる。太玉命に同じく忌部氏の祖神の一柱で、麻や楮の栽培、紙や布の生産技術を人々に授けた神とされている。「安房」は「阿波」と区別するために当てた地名であり、麻を主産物としていた。古代日本における麻は、衣料・織物の主要素材であり、通気性と耐久性から庶民から貴族まで生活の基盤を支えた。神事では清浄を象徴し、大麻(おおぬさ)や麻苧など祭祀の必須具として特別視されていた。さらに弓弦、縄、網など軍事・漁労・運搬に不可欠な実用具のほか、農具や建築補助など日常のあらゆる作業にも利用され、種子は食用・医薬としても扱われた。麻は古代社会の「衣・食・軍・祭」を支える最重要資源の一つであったのだ。
安房神社は十年ぶりの再訪だ。この十年、実にいろいろなことがあったのだが、過去の記憶と現在を「安房神社」で結んでみると、その間にはあっからかんとするほど何もなかった。そこには十年前に同じく白い神明鳥居と長く続く参道があるのみなのだ。十年という歳月の隔たりと、まったく変わらない聖地のありよう。時間を巨視的に俯瞰すると個人的な出来事など塵芥でしかないのである。
さて、二の鳥居の先、広々とした境内の右手を少し上がると、祖神である天太玉命を祀る本宮の拝本殿が立つ。本宮は摂社の下の宮に対し、上の宮と称する。下の宮に対して本宮を上の宮と称するのは、伊勢神宮の内宮・外宮に倣ったらしい。鳥居も社殿も「神明」であり、印象は伊勢神宮に近しいものを感じる。本宮手前には巨岩が横たわっている。古くからあるらしく、磐座のようにも見える。だが、一部を穿って厳島社としたり、日露戦役の石碑が立てられており、もし磐座だったとするならばこの扱いには感心しない。もっとも当社の説明では「海食岸」とされており、もとより信仰の対象ではなかったのかもしれない。一方、本殿裏には同じ石質と思われる岩盤の一部が露出しており、こちらには上賀茂神社(賀茂別雷神社)の立砂のように盛られた一対の砂山があった。祭祀でも行われたのか、工事に使った砂の一部かはわからなかった。
境内の巨岩と厳島神社
巨岩の裏側
本殿裏の岩盤。奥に立砂のような一対の盛り砂。
社殿を見ていると、神明造ということもあるのか伊勢のどこかにいるような錯覚を覚える。それは他の神社建築にはないある種の厳粛さであり、神官の後に黒い礼服の集団が隊列を組んで進んでいく映像を思い出させる。様式は記憶を呼び覚ます。そうした意味においてシンボルは怖い。うまく利用すれば人を動かせるのである。宗教建築はまさにそうしたシンボルの一つで、新宗教に巨大な社殿や堂舎が多いのはこうした理由によるものだろう。あらゆる事物は一歩引いて理性的に見ることが必要だとあらためて思う。感情は人間を狂わせるのである。
下の宮

安房の開拓神、天富命を祀る下の宮を参拝した後、安房神社洞窟遺跡を見に行った。場所は境内に設けられた茶屋の裏にある。といっても、何もない空間に標柱と案内板が立つのみである。概要は千葉県の説明を引いておく。
安房神社洞窟遺跡。現在は埋め戻されている。

房総半島の南端、安房神社の境内に所在するこの洞窟は、昭和7年(1932)、関東大震災の復旧工事で神社の参籠所裏に井戸を掘っている時、地表下1mほどのところで偶然発見された、全長約11m、高さ約2m、幅約1.5mで、東北部に開口する海食洞窟である。その後、ただちに緊急学術調査が行われ、洞窟の中から人骨22体、貝輪(貝製の腕輪)193個、小玉(石製)3個と土器が出土した。土器は当時の報告では弥生土器とされていたが、現在、縄文時代晩期終末頃の東海系土器であるとの意見がある。いずれにしても、この洞窟が縄文~弥生時代の墓地であることが分かった。特に、出土した22体の人骨のうち、15体に抜歯の痕跡が認められたことは、当時の習俗を考える上で貴重な資料として注目されている。抜歯は、健康な歯を故意に抜く習慣で、日本では縄文時代後期から晩期に盛んに行われていた。
発見された人骨の一部は、神社近くの宮ノ谷に再び埋葬され「忌部塚」と呼ばれているが、この名が付けられた由来は、安房神社の縁起と深い関係がある。安房神社は、安房国一の宮で、天太玉命を祭神としている。忌部一族による安房開拓神話に登場する安房忌部氏の祖天富命が、その祖神を祀ったものとされていることから、洞窟から出土した人骨は先祖である忌部氏と考え、再埋葬した時に忌部塚と名付けた。毎年7月10日には、先祖忌部氏を祭る「忌部塚祭」が開かれている。(出典*2)
なお、出土した人骨は東京大学総合研究博物館に標本として収蔵され、一部の人骨の年代を測定したところ、弥生時代後期頃にあたるBC50年~AD60年と、古墳時代中期から後期にかけてのAD430~540年の年代の人骨であるとの由。(参考*1) 忌部塚も再訪しようと思ったが、土砂崩れのため道が閉鎖されており、これは叶わなかった。前回訪問した際には見ることが出来たのだが。

このように海蝕洞窟を利用した墓地は他にもある。館山市内の代表例は船越鉈切神社の鉈切洞穴だろう。詳しくは過去の投稿「浦賀水道を刳り舟で渡る神々」館山 船越鉈切神社・海南刀切神社」をご覧いただきたい。また、東京湾対岸の三浦半島にも弥生時代の海蝕洞窟遺跡が多数あり、住居転じて墓所となったことが窺える。この洞窟遺跡は安房神社が創建される前から縄文、弥生人によって墓所とされており、ここに入植した忌部氏もこれを利用したのではないかと思われる。古代の死生観は知る由もないが、かつてここは海に面した場所であり、琉球のニライカナイ信仰に同じく、海上或いは地中の他界を想った場所なのではないだろうか。次稿では安房神社に関連する館山の神社を中心に、房総半島と三浦半島の往来について日本武尊と弟橘媛のエピソードなども交えながら、少し詳しく見ていきたい。
(2016年1月22日、2025年12月8日)
出典
*1 古語拾遺(現代語訳) 角館總鎮守 神明社
*2 安房神社洞窟遺跡 千葉県教育委員会
参考
*1 館山市安房神社洞窟遺跡 たてやまフィールドミュージアム 館山市立博物館




