丸森立石:宮城県伊具郡丸森町耕野
愛敬院(駒場瀧不動尊):宮城県伊具郡丸森町不動59
大聖不動明王堂:宮城県伊具郡丸森町筆甫平松前
茗茄沢の不動堂:宮城県伊具郡丸森町耕野不動

東北新幹線の車内が俄かに騒がしくなった。仙台駅に到着する10分前のことだ。携帯電話の地震警報があちこちでやかましく鳴っているが列車が停まる気配はない。震源はカムチャッカ半島沖、マグニチュード9.5。頭の中で少し"津波"ということばが過ったが、震源地は遠い。あの時のようにはならないだろうと高を括っていた。

ここ数年、毎年七月末に三陸への出張が入る。今年は陸前高田、気仙沼、塩竈、東松島の地元企業を四社回る予定だった。だが、最初の訪問地、陸前高田に入ると人の気配がなく、車もほとんど走っていない。スーパーもコンビニも飲食店もすべて臨時休業でゴーストタウンになっていたのだ。まさかの事態である。訪問先も避難していて面談は叶わず。宿泊や夜の食事も変更を余儀なくされた。

大きな被害はなかったようだが漁業者にはいろいろあるようだ。翌日水産加工会社に聞くと、牡蠣の養殖は波の高さが低くてもロープに下がっている牡蠣が海底に落ちてしまい、引き上げるのが大変らしい。それだけではない。折からの海水温の高さで牡蠣に”ほや”がびっしりと纏わりつき、牡蠣の身が小さくなっているとも。自然災害や気候変動は我々の生活のみならず経済も文化も大きく変えてしまうのである。

さて、翌々日は宮城県西南部にある丸森町に向かった。ここには前々からこの目で確かめたかった巨大な石神があるのだ。それが立石である。現地の案内板によれば、高さ12.3m、周囲25.1mの花崗岩で、天辺は畳十畳敷、石の下には弥生時代の土器片などが出土するという。征夷大将軍源義家がこの石から3km先にある松掛の的石を目掛けて弓を射ったといわれ、義家の敵将の安倍貞任もこの石に登ったとの伝承がある。この地も後三年の役の舞台となったのだろうか。



 

 

林道を入っていくと左手に馬頭観音、庚申など石碑が三基立っており、その向かい側に車が停められるスペースがある。その先の右側に登山口があり、ここから登りはじめる。しばらく平坦で道も整備されているが、「立石」の標識が右手に出てきたあたりから勾配がきつくなる。花崗岩の山だからか足元が砂地に近く、滑りそうになるので注意が要る。中間地点の標識を過ぎ、最後の急坂を登っていくと樹木の間にのっそりと立石が姿を現した。

 


想像をはるかに超える大きさに圧倒される。高さ12mなら3~4階建てのマンションである。まさしく妖怪「ぬりかべ」だ。単立の巨岩でこれほど大きなものは見たことがない。真ん中より少し下あたりに蛇行する白い筋が入っていて一層の妖怪らしさを醸し出している。安倍貞任が登ったという伝説があるが取り付くところはなく、上には登れない。かつて地元の少年たちは近くの木から飛び移ったらしい。

 

 

 

正面、側面、背面とそれぞれ姿が変わるところもおもしろく、モニュメントとしての存在感が際立っている。現代美術の作品さながらで、美術館の庭にあってもまったく違和感がないだろう。周辺の巨石も含めていえば、この場はやはり祭祀の場として設えられたように思われる。地質の一部が侵食によって露出し、モノリス状になった巨大な石柱。古代人はこれを見上げ、そこに「神」を見たのではないか。この山の北側には円墳174基からなる台町古墳群が形成されている。古墳時代中期後半~後期(5世紀中~7世紀初)にかけて築造されたとされるが、この立石は恐らく有史以前から石神として崇められていたように思う。

 



 

丸森町には他にも巨石信仰の場がいくつかあるので巡ってみた。立石のある所から南に4kmほど下ると阿武隈川支流、内川の渓谷沿いに愛敬院という本山修験宗の寺がある。開基は東北ではお馴染みの慈覚大師円仁である。福島の伊達に創建した霊山寺の鬼門を封じるため、この地の駒場ヶ滝で不動尊像を刻み、滝上の岩窟の中に祀ったという。一帯は不動尊公園として整備されており、地域では人気のキャンプ場もある。駐車場に車を停めてまずは愛敬院を参拝。ところが本尊の不動尊を祀った巨石がどこにあるのか見当がつかない。境内を出て公園内を探すと内川に面したところにそれらしい巨石があった。

 



 

これはこれで石神というに相応しいのだが、事前に確認した写真とは様相が異なり、祀ってある様子もない。もう一度愛敬院に戻り、芝の手入れをしていた方に聞いてみると「内川の向かい側にあって、こちらからはよく見えない。反対側に出てみれば下まで行ける」との由。行ってみるとそこは事前にGoogleマップに駒場瀧不動尊としてプロットしておいたところで、東屋があるので車を停めたもののどこにあるかわからず、迷った場所なのだった。



 

再度行ってみると、樹木と雑草に覆われていて信仰を寄せていた巨岩にはとても見えない。護岸工事中だったが、東屋のすぐ先を川の方に降りて斜め下から仰いでみた。なるほど屹立したそれは威容を見せている。裸岩にすればさきほどの立石に匹敵する存在になるだろう。ところが東屋の傍にも愛敬院にもなんの案内もない。地名の由来でもあるし、伝承もあるせっかくの史跡がもったいないと感じた。先の立石は町の天然記念物に指定されており、羽入地区の人々が保存すべく案内板や山道の整備を行っているという。



 

続いて、福島県との県境、筆甫(ひっぽ)地区にある平松大聖不動明王堂に向かう。筆甫の地は、伊達政宗が最初に検知を行った場所とされ、筆の甫(はじめ)となったらしい。山あいの一本道を入っていく。人気がまったくないが、かつては東の比叡山と称された伊達の霊山への参詣道だったらしい。このあたりは不動信仰の聖地が多いが、大伽藍であった霊山寺に通じていると思われる。しばらく行くと右手に鳥居が見えた。石段を上り、拝殿前でたどたどしい真言を唱える。ノウマク・サンマンダ・バザラダンまでは覚えているのだが、その後が続かない。サンスクリット語に忠実な発音で唱えると音声波動が生じて段違いの効果が得られると言うのだが。早々に裏に回り、巨石を拝む。


 

 

拝殿の裏にある本殿(本堂か)は背後の巨岩にぺたりと張りついており、扉の格子から中を覗くと剥き出しの御本尊に不動明王が彫ってある。本殿といっても祠に毛の生えたようなものだが、それでも必要なのは修験者や参拝者が雨風を凌ぐためのものなのだろう。それほど大きくもない巨石一つにも霊性を感じとり、丁重に祀る文化は他の国にどれほどあるだろうか。八百万の神だのなんだのと言われるが、これは一切衆生悉有仏性や山川草木悉皆成仏に連なる価値観であって、いってみればアニミズムなのである。宗教思想として昇華すると根底に”平等”や”公平”といった思想が顔を出す。翻って現代は「自己責任」とかいう情け容赦ない言葉が当然のように横行し、国ですら弱者救済よりも強者優遇という風が窺える。経済が優先し、格差を広げる社会の実相なのである。



 

脱線した。不動明王道から山越えをして阿武隈川に架かる橋を渡り、川沿いを北に少し走って左折する。一本道の林道をゆるゆると進んで行くと右側に朱の鳥居が立っている。人里離れた山あいにあるが、字が不動とされるのはこの不動堂のためだろう。不動明王に擬えられた巨岩は裏山の一部で礫岩で出来ている。高さは5m程度だろうか。不動明王とは似ても似つかない怪獣のような様相だが、おそらく異形の巨岩の礫に憤怒の徴を読みとったのだろう。蓑毛不動尊と呼ばれるらしく”身の毛のよだつ”との解釈もあるが、これは字義通り”蓑の毛”ではないか。そう思って見てみるとたしかに農夫が蓑を纏った様子にも見える。この岩にめり込んだ小屋が不動堂だ。



 

 

 

扉の隙間から中を覗くが暗くてよく見えない。スマートフォンのフラッシュを使って撮影してみると先ほどの不動堂に同じく窓があり、背後の御本尊と対面できるようになっていた。そして、両脇のステンレスの花瓶にはまだ新しい色とりどりの花が手向けられ、その間には隙間なく招き猫が並んでいたのだった。



 

丸森町に訪ねた巨石は神の依代としてのいわゆる「磐座」ではない。そのものが神仏の化身であり、岩そのものが御神体、御本尊だった。すなわち石神であり、石仏である。これまでに見てきた東北各地の巨石信仰はほとんどがこうしたもので、それは特徴の際立った岩石を見た時に生じる素朴な畏怖と結びついたものであり、宗教以前に人間が抱いた普遍的観念ともいえるものだろう。どこからか巨石を運んできて白砂の上に据え、注連縄を巡らせて立札に”磐座”の由緒を記し、前に賽銭箱を置く。昨今そんな神社が増えてきたが、これをよしとする宮司、ありがたがって賽銭を投じる蒙昧な御仁は、この石不動の礫でも煎じて飲んでみたらよいと思うのだが。

 

次稿では秋田に地獄を訪ねる。

(2025年8月1日)

参考
山田政博編・著「東北石神様百選」プランニング・オフィス社 2022年
丸森町観光案内所 立石