シゲチャンランド:北海道網走郡津別町相生256
モヨロ貝塚館:北海道網走市北1条東2丁目

先史から中世にかけての道東の遺跡を巡ってきた。同じ遺跡といっても、北海道のそれらは類似点はあるものの本州とはかなり様相が違う。そもそも北海道の文化史上の区分は日本とは異なるのである。道東には縄文からアイヌまで様々な遺跡があるが、中でも続縄文時代から擦文時代に並行したオホーツク、トビニタイ、元地文化あたりの遺跡に食指が動く。近世末に日本が同化政策を取るまで、北海道に統一国家らしきものは見当たらない。樺太や北東北を含め、時代毎、地域毎に複数の民族が群雄割拠し、大きな争いはせずに活発に交流し、文化的複合を繰り返してきたのである。そんなわけで主にオホーツク文化の代表的遺跡を訪ねることにした。

 

出典:東京大学ホームページ https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/features/z0508_00145.html


女満別空港でレンタカーを借りて南下する。遺跡の前にどうしても行きたいところがあった。シゲチャンランドである。シゲチャンランドは造形作家の大西重成さんが2001年に開設した万象の私設美術館だ。縄文ZINEというフリーペーパーを発行する望月さんのnoteで知ったのだが、実際に足を運んでみてその世界観に圧倒されてしまった。元は牧場だったという広大な土地に、目、鼻、耳、口、手、腕、骨、皮膚、爪など人体の部位で名づけられた大小の小屋があって、その中に膨大な数の作品が収められていた。

 

 

 

 

 

 

木や動物の骨を使った作品の造形はどこか縄文を思わせる。一方、廃品で造られた数々のオブジェはキッチュでユーモラス。メキシコ、ペルーなど中南米の国々の呪物や祭りを彷彿とさせる。思わず口角があがってしまう。ゆっくり巡ってミュージアムショップで買い物をしたら二時間が経っていた。入口でチケットを販売していたオジサンがシゲチャンである。

 

 

帰りに少し話をした。今回の旅の目的はシゲチャンランドと網走のモヨロ貝塚を訪ねることで、今朝女満別空港に着いてすぐここに直行したと言うと「僕の創作の原点の一つがモヨロ貝塚館にある土製のクマの頭部なんです」とニコニコされた。なんだかこちらまで嬉しくなる。チケット売場の横にあるArm Houseに僕を連れて行き、そのクマをオマージュした作品を見せてくれる。感性が共振していくらでも話が弾みそうだったが、先の行程もあり「また必ず来ます」と辞した。と思ったら、駐車場でナビを操作しているところにやってきて「ぜひ北方民族博物館にも行ってみてください」との由。そういえば、ミュージアムショップにいらした奥様のCocoさんも同じことを教えてくれた。「網走市立郷土博物館とどちらがいいですかね」と問うと、お二人とも北方民族博物館を推されたので予定を変更することにしたのだった。

モヨロ貝塚は翌日の午後に訪れた。はじめにモヨロ貝塚の概要を記しておこう。

モヨロ貝塚は北海道網走市にある国の史跡で、オホーツク海に面した網走川河口左岸の砂丘上に位置する。7世紀から8世紀にかけて栄えたオホーツク文化の代表的な遺跡で、竪穴建物跡や貝塚、祭祀跡などが良好な状態で残っており、当時の生活や文化を具体的に知ることができる。モヨロ貝塚は大正2年(1913)、青森県津軽の出身で理髪業を営む在野の考古学者、米村喜男衛氏によって発見された。アイヌ文化研究のために北海道を訪れた際、網走川河口付近で貝殻の堆積を発見し、その土器が縄文文化やアイヌ文化とは異なるものであることに気づいた米村氏は学界に報告。本人も網走に移住して理髪業を営みながら研究を行った。その後、多くの考古学者によって調査され、オホーツク文化の重要性が広く認識されるようになった。この遺跡からは、竪穴建物跡や土器、石器、骨角器など様々な遺物が出土しており、当地の人々は狩猟や漁労、海獣猟などを生業としていたことがわかった。また、モヨロ貝塚は、オホーツク文化とアイヌ文化のつながりを示す重要な遺跡としても知られ、出土した土器の中には、アイヌ文化の土器と共通する要素が見られるものがあり、両文化の交流があったことを示唆している。

 

 

貝塚館で最初に対面するのは土製のクマの頭部像だ。まず、その大きさにのけぞる。あとで確認したところ長さ63cmもあるという。オホーツク文化の遺跡からは他にも骨製や角製のクマの像が多数出土しているが、長さ5cm以内のものがほとんどだ。イノシシなど縄文の動物土製品に同じく狩猟に伴う動物儀礼のための呪物と思われるが、ここまで大きなものをつくるからには相応の意図があったのだろう。造形はリアルなのだが、顔つきはどこか愛らしい。思わず「こんにちは」をしてしまう。さすがにシゲチャンがインスパイアされただけのことはある。美術作品といっても違和感のない、素晴らしい造形なのだ。

 

 

5分間の紹介映像を見た後、館内を見学して回る。展示は土器をはじめとした出土遺物だ。オホーツク文化の土器の特長の一つに貼付文があるが、縄文とは異なる独特の繊細さがあって美しい。小さな水鳥が連続する意匠などは僕のお気に入りだ。ほかには、狩猟や生活に使われた石器や骨角器、刀や斧、骨や牙などでつくられた動物や女性像、人骨などが展示されている。

 

 

大きくはない施設なのだが随所に工夫もある。特に注目したいのは館内に復元された墓域だ。モヨロ貝塚館はかつての墓域の上に建っており、発掘されたその場所に復元されているのである。クマ同様に僕の興味を惹くのは彼らの葬法である。下の画像にあるように頭に甕が被せられた形で人骨が出土しているのだ。

 

 

刻文期から貼付文期にかけての墓は、一般的に頭を北西に向けた仰向けで、手足を折り曲げた状態(仰臥屈葬)で葬られる。また頭に甕を被せ(被甕(かめかぶせ)葬)、埋葬箇所の上部に複数の石を配置する特徴をもつ。モヨロ貝塚でこの典型的な埋葬を見ることができる。(中略)モヨロ貝塚では、墓が集落の内外に造られ、住居群よりひとまわり広い墓域を形成していた。これは、ほかの遺跡ではみられない特徴という(宇田川2003)。そして、墓の数もオホーツク文化遺跡のなかで卓越しており、1948年までに約180基、2001・2003年度調査で19基、2009年報告で129基、2011年報告で6基の検出があった。合計で、約330基もの墓がモヨロ貝塚に造られていたことになる。これは刻文期から貼付文期までの300年間の累積としても、ほかに類を見ない驚異的な数である。(出典*1)

なぜ頭に甕を被せたのか。死者の霊魂が頭部から抜け出ないようにした、土器を胎内に見立てて再生を願った、副葬品の量や質、被せられる土器の種類などで死者の生前の社会的地位を表した、などさまざまな解釈がある。いずれも我々現代人の想像でしかないが、オホーツク文化人に特有の死生観や霊魂観を想像して楽しむのもまた一興である。



貝塚館を出て少し歩くと、もうそこはかつての集落跡だ。遺跡の広さは120m×250m、3万㎡はあろうか。モヨロ貝塚館から行くと、手前がオホーツク文化の居住域、奥は縄文から続縄文にかけての居住域だ。長い歳月を経て場所は少し移動しているが、狩猟採集にも生活にも適した暮らしやすい場所だったのだろう。





あちこちに発掘された住居や墓の跡がある。復元住居が建っているわけではないので、関心のない人にとってみればただの長方形の穴である。9号住居を見てみよう。六角形をしており、長さ・幅は10m、深さは地面から1m以上とけっこう深い。八人程度は暮らせそうな広さだ。中央に石で囲った炉があり、周囲にコの字型の粘土の敷き床、そして住居両脇にはクマの頭骨や手足の骨を祭った祭壇、骨塚がある。海獣の骨もあるようだが、主役はあくまでもクマである。現代日本人の感覚からすると、神棚或いは仏壇にクマの頭骨が祀られていることになる。クマは神様なのである。



かつてアイヌ民族にはイオマンテという熊送りの儀礼があった。動物考古学の佐藤孝雄氏は「ヒグマ儀礼の考古学 −イオマンテの起源・系統をめぐって−」という論考の冒頭で「クマを神聖視し、その捕殺時に儀礼を行う慣習がユーラシア大陸や北米大陸の北部に暮らす先住民達に普遍的に認められる一方、一定期間飼育した仔グマを対象に盛大な祭礼を行う伝統は、極東のアムール川流域や沿海州、サハリン、北海道に暮らす諸集団に偏在する」と由来を紹介し、アイヌで行われていたイオマンテの概要を以下のように記している。

当時、各地のアイヌが、春先、山中で発見した生後間もない仔グマを必ず生け捕り、コタン(集落)に連れ帰っていたこと。捕獲者ないしそれを譲り受けた者は、その仔グマをやや長ずると檻に入れ、一定期間(北海道アイヌの場合、通常1、2年、サハリンアイヌなら3年前後)飼育した後、原則、1、2月頃の厳冬期に「送り」儀礼の対象としたこと。さらにその儀礼が、地域の別なく、数日間をかけて行われ、本祭初日に仔グマを檻から引き出して圧殺・解体し、翌2日目にその頭骨を飾り付けてヌササンと呼ばれる祭壇(神聖な柵)に掲げた上、様々な供物を捧げるという手順を踏むものであったこと。数多存在する民族誌を渉猟すれば、それらを確認することができます。(出典*2)  文末にイオマンテの儀式のマニュアル(参考*9)と、1977年に平取町二風谷で行われた祭りの映像(参考*10)のURLを貼付しておく。

モヨロ貝塚の住居跡のクマの頭骨が示す通り、イオマンテの起源はオホーツク文化に求められる。アイヌ文化期に先行する擦文文化期の遺構からは熊に関連する祭祀の痕跡が見当たらないことから、イオマンテはオホーツク文化からトビニタイ文化を経由してアイヌ文化に継承されたというのが近年の大勢の見方だという。このあたりは紹介した論考(出典*2)に詳しいので、ぜひ参照いただきたい。

アイヌ文化では、霊魂はカムイと呼ばれ、動植物から道具類にいたるまであらゆるものに宿るとされる。そして、カムイは人間に幸福をもたらしたり、災いをなしたりすると信じられてきた。クマに限らず、狩猟し、利用する動物たちは天上界に住む神々の化身であり、人間界を行き来する。これがイオマンテをはじめとする「霊送り」だが、この霊魂観の基層には自分たちをとりまく自然への感謝があるように思う。増加の一途を辿る人間たちによる自然資源の一方的な利用の先には、いったいなにが待っているのだろうか。



(2024年6月22日~6月23日)

出典
*1 種石悠「オホーツク文化の考古学 辺境から眺める古代日本」銀河書籍 2023年
*2 佐藤孝雄「ヒグマ儀礼の考古学 −イオマンテの起源・系統をめぐって−」 アイヌ民俗文化財団 2011年
https://www.ff-ainu.or.jp/about/files/kai2011_sato.pdf

参考
*1 シゲチャン*ランド 

 

 

*2 米村喜男衛「モヨロ貝塚」講談社 1969年
*3 米村衛「北辺の海の民 モヨロ貝塚」シリーズ遺跡を学ぶ001 新泉社 2004年
*4 東京大学文学部 常呂実習施設 考古学研究室編「オホーツクの古代文化 東北アジアと北海道・史跡常呂遺跡」
*5 司馬遼太郎「街道をゆく38 オホーツク街道」朝日文庫 2019年
*6 北海道立北方民族博物館 総合案内 2019年
*7 横浜ユーラシア文化館「オホーツク文化 -あなたの知らない古代-」2019年
*8 宇田川洋「イオマンテの考古学」東京大学出版会 1989年
*9 財団法人アイヌ民族博物館「アイヌ生活文化再現マニュアル イオマンテ熊の霊送り【儀礼編】」財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構 2005年 https://www.ff-ainu.or.jp/manual/files/2005_12.pdf
 *10  民族文化映像研究所「作品No.8 イヨマンテ 熊送り」1977年