玉若酢命神社:島根県隠岐郡隠岐の島町下西701
水若酢神社 :島根県隠岐郡隠岐の島町郡723
和気能酢神社:島根県隠岐郡隠岐の島町下西1607

九月下旬に隠岐の島に渡った。隠岐は古くから後鳥羽上皇や後醍醐天皇らが流された遠流の島として知られるが、摩天崖をはじめ景勝地が多く、現在ではジオパークとしての顔の方が有名になった。隠岐国には神社が多い。延喜式神名帳には16座が名を連ねており、もっとも格の高い名神大社は島前島後で計4座ある。名神大社は霊験あらたかとされた古社で、国家の大事に際して祈願の対象とされた。因みに出雲国は式内187座に対して名神大社2座(現在の熊野大社と出雲大社)なので、隠岐国の神々は朝廷にとって意味の大きな存在だったと思われる。隠岐島誌によれば「上古は、朝鮮半島交通の要路に當り、平安朝以来は、新羅来寇の衝立に當れるを以って、屢、勅を下して、異國調伏の祈願あり。神階授與の事、亦屢、國史に見えたり。朝廷に於ては、當國の邊要防備に就きて、常に、意を用ひられたる事亦知るべし」(出典*1)とある。本稿で取り上げる隠岐の神社はすべて延喜式内社だが、その祭神は記紀の神々ではなく、当地を開拓した在地の豪族の祖である。



隠岐空港でレンタカーを借り、最初に訪れたのは玉若酢命神社だ。主祭神は玉若酢命。記紀に登場しない神で、開拓神としての見方があるがよくわからない。ここは名神大社ではないが総社(惣社)である。かつての隠岐国府所在地の至近に立地し、明治まではこの辺りを総社村と称した。王朝時代、国司は赴任すると国の主要な神社を巡拝することが重要な任務であったが、平安時代末になると国府の近くにその地域の神々を勧請して集めて祀るようになる。要するに業務効率化のために総社を設けたというのが一般的な理解だ。(経緯詳細は参考*2を参照のこと)惣社の制が敷かれたのは平安時代中頃だが、ここに国府が置かれたことから察しても当社の成立年代はこれよりかなり遡るものと思われる。

 

境内には八百杉という巨樹が聳えている。樹齢は千数百年、一説に二千年ともいい、島後三大杉の中では最古、最大のものだ。神社の境内として開かれる遥か前からこの樹は森の神として祀られていたのではないか。当社の背後は深い森であり、国府が設置された頃とそう変わりない風景と思われる。この島の八割は森林、残りは山である。鳥瞰しても平地はほんの僅かでおそらく5%もない。地形や地層の妙に加え、周囲は海に囲まれており、熊野に同じくアニミズムの宝庫だが、それらは次稿に譲る。

八百杉


随神門、本殿、隣接する億岐家住宅は国の重要文化財だ。いずれも茅葺きが美しい。隠岐家は大国主命の後裔にあたり、祖先の十挨命(とうえのみこと)は古墳時代、応神天皇により国造に任じられたと伝わる。代々国造や国司を務めるとともに、当社の宮司を兼ねた社家の家系である。隠岐家住宅は現在も社務所、住居として使われており、併設の宝物殿では国重文の隠岐国駅鈴や隠岐倉印に加えて、寄贈された小泉八雲の遺品なども見ることができる。ご案内いただいた女性も隠岐家の方と思われた。

随神門

拝殿

本殿

隠岐家住宅

 

さて、境内右手から裏山を登っていくと古墳群がある。最奥の尾根の上に前方後円墳、そこまでの道のりに円墳が複数点在しており、15基の存在が確認されている。発掘されたのは1基のみで横穴式石室、太刀や須恵器などが出土した。古墳時代後期(6世紀初〜7世紀中頃)の築造と推定されているが、おそらく古代隠岐家の中興の祖にあたる人物が埋葬されているのだろう。背後に古墳を擁する神社は他にも多く、祭神との関係が示唆される。当地豪族の長の一人であった可能性は高いだろう。
八号墳 墳頂部

拝本殿

 

次に紹介する水若酢神社にも古墳が隣接していた。祭神名の”若酢”が共通することから玉若酢命神社となんらかの関係があったと思われる。こちらは名神大社であり、隠岐国一宮だ。祭神は水若酢命とされるが、中世に兵火で由緒が失われたため、不明である。但し、地域には以下の口承がある。「むかし伊後の一橋家の先祖が前の浜で魚を釣っていたところ、魚が釣れずに一羽の白鷺がひっかかった。驚いて引き揚げると、白鷺は釣糸から離れ、すぐそばの芳葉山の松の梢に止まった。あっけにとられていると、白鷺はふたたび飛んで今度は一橋家の屋根の旨に止まり、次いで花勺(はなしゃく)の方へ飛んでいって鯛石の上に止まった。橋家で騒いでいると、そこへ伊後から一橋氏がやって来たので、両家で相談をし、この地へ社を建立することにした。これが今日いう郡の一宮(いっくう)さん、すなわち水若酢神社の起こりである」(出典*1)この話に登場する橋家と一橋家は現代に続いており、両家は当社の祭礼では神輿警固の役を務めるという。民間伝承だがまったくのつくり話とは言えまい。



 

ご承知のように白鷺は神使として知られるが、これが海から揚がって地域を転々としたのである。なんとなく渡来の匂いがする。因みに、敦賀の氣比神宮は白鷺を神使とする。祭神の伊奢沙別命(いざさわけのみこと)は新羅との関連が指摘され、境内摂社の角鹿(つぬが)神社には「敦賀」の地名の由来となった都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)が祀られている。日本書紀によれば、この人物は朝鮮半島南岸にあった加羅国の王子だ。また、新羅、白鷺は音韻上の類似がある。妄想に過ぎないが、ここ水若酢神社も隠岐島に漂着した半島から渡来した者がこの地域の開拓を行い、その功績から後に祭神として祀られたことは考えられないか。


 

 

境内は思いのほか広かった。参道は長く、流鏑馬が行われるという。脇に土俵があるところはいかにも隠岐らしい。二の鳥居をくぐると随神門の先に拝殿があり、ここで参拝する。背後の本殿は隠岐造だ。大きさはさほどではないが、やはり茅葺きの屋根が美しく、厳かさを湛えている。その風合いは大社造に似ているが、造営にあたっては以下のいきさつがあったようだ。「17世紀中葉、出雲大社の寛文度造営において松江藩主導のもと神仏分離と社殿様式の復古が施行された直後、延宝年間に玉若酢命神社・水若酢神社両社で境内社殿の全面建て替えがおこなわれる。この両社の造営は17世紀前半以来、藩主導で実施されていたとみられ、延宝度造営において出雲大社と同様に復古的な建築形式が松江藩の意図によって採用された可能性がある」。(出典*2)

 

随神門

拝殿

本殿

 

神仏分離、復古の記載が見えるので少し脱線したい。当社境内には幕末に国学者中西毅男が私塾「膺懲館」を構えて尊皇攘夷を唱え、当社大宮司の忌部正弘らとともに正義党を率いた。これが松江藩政に対する反乱につながり、郡代を追放、一時的に自治を獲得した「隠岐騒動」につながっていく。この騒動の指導者には神官が多かったが、仲裁を図った僧侶らは郡代寄りで対立が深まり、これが徹底した廃仏毀釈につながっていく。玉若酢命神社の隠岐家住宅には隠岐騒動の際の銃痕や刀疵が今も残っている。
隠岐家住宅内の銃痕(右扉の穴)と刀疵(左の柱)

 

さて、境内東側には古墳があり、石室が露出していた。玄室内には石棺が2基、また土器、太刀、鍬、勾玉などが出土しており、6世紀中頃から7世紀の築造と推定されている。さらに、本殿に被る形で円墳があるという。おそらくこの円墳の被葬者が祭神ではないかと思われる。一般に古墳を築いたのは地域を開拓した豪族の長であり、隠岐も例外ではないだろう。島後の大規模古墳は、西郷湾に流れ込む八尾川下流域(玉若酢命神社古墳群、平神社、甲ノ原)と重栖川流域(水若酢神社、北方横穴墓群)に分布することから、これら地域に二つの勢力が存在したと思われる。それぞれの地域に神社と官衙が設けられたのであろう。



 

さて「若酢」とはなにか。諸説あって整理が面倒なのでChatGPTに依頼してみた。
1. 結論
現時点で「若酢(ワカス)」の確定的な語源は確認されていない。ただし、主に以下の五つの仮説が文献および地域伝承で繰り返し提示されている:(A)「水を湧かす/沸かす」説、(B)「分かつ/開拓」説、(C)固有神名説、(D)醸造関連説、(E)表記変化説。
2. 古語辞典まわり(B)
日本古語大辞典や主要古語辞典を確認したが、「わかす/ワカス」を神名に関連づけて解説する項目は見つからなかった。古語としては「湧かす」「沸かす」などの語形は存在するが、「若酢」の語根として使われた例は未確認。したがって、「水を湧かす/沸かす」説は音の類似から導かれた通俗的解釈と見られる。
3. 延喜式・神名帳の確認(A)
『延喜式』神名帳には「水若酢命」「玉若酢命」が記されており、平安期(10世紀)にはすでに定着していた。ただし、延喜式自体は神名の列挙にとどまり、語義注記は存在しないため、字義を直接読み解くことはできない。
4. 周辺地域比較(C)
「若酢」という表記は隠岐以外ではほとんど見られず、全国的にも稀少である。似た地名・神名に「若狭」などがあるが、語源系統は異なると考えられる。
5. 暫定評価
学術的には「若酢」は固有神名として扱い、後世に意味を当てた可能性が高い。一方で、社伝や地形・古墳分布などから、水利・開拓に関わる神としての性格が推測される。通俗的な「水を湧かす」説は地域的には広まっているが、古語史的証拠は乏しい。

うーむ。それなりにまとまってはいるが、所詮Web上の膨大な情報を整理したに過ぎない。現時点のAIの限界で、インプットがなければアウトプット出来ないのは人間同様である。最後に愚説を披露しておこう。注目したのは、玉若酢命神社の西方300mの地にある和気能酢(わけのす)神社だ。式内小社で玉若酢命神社の元宮ともされている。祭神の和気能酢命の神格には二説あるようだ。祭神を景行天皇の第五皇子、大酢別皇子とし、父から隠岐を分治された人物とする人格神説と、当社の傍にある池の水を湧かせる自然神のニ説である。これを踏まえた上で僕は「若酢」を「ワカス」ではなく「ワケ・ス」と分けて考えてみたい。この場合の「ス」は「酢」ではなく「洲」である。「洲」は川の流域に出来るものであり、そこでは農耕が営まれる。先に述べたように島後のほとんどは今も山林である。古代人は川沿いの僅かな平地を開拓の拠り所として稲作を行った。やがて一帯の収穫を分配、統治する豪族が出現してくる。だとすれば、水や土地を分かつ者が「若酢」という神名の本来の意ではなかったか。
和気能酢神社




以上、延喜式内社中心に書いてみたが、島後の聖地の面白さは自然神にこそある。次稿では巨岩、巨樹、そして滝を祀る聖地について見ていこう。

(2025年9月19日)

出典・参考
*1 島根県隠岐支廰「隠岐島誌」昭和8年
*2 石塚尊俊「水若酢神社」所収「日本の神々 神社と聖地 7 山陰」白水社 1985年
*3 村井康彦「出雲と大和」岩波新書 2013年
*4 隠岐造 Wikipedia