布良崎神社:千葉県館山市布良379
洲宮神社:千葉県館山市洲宮921
洲崎神社:千葉県館山市洲崎1344
安房口神社:神奈川県横須賀市吉井3丁目11
走水神社:神奈川県横須賀市走水2丁目12−5
安房神社の周辺には、同社にゆかりの深い神社がいくつか存在する。本稿ではそれらを訪ねながら、当地の古代信仰について考えてみたい。
安房神社を創建したのは、阿波(徳島県)から肥沃な地を求めて房総半島南端に入植した天富命一行である。安房神社からほど近い駒ヶ崎か、その南隣の阿由戸(あゆど)の浜に上陸したとされ、房総の開拓はここからはじまった。当地の東側に近接して二つの小山があり、一方の男神山に祖神天太玉命、もう一方の女神山には后神天比理刀比咩命(アメノヒリトヒメ)を祀った。その後、上の谷に天太玉命、下の谷には天忍日命の仮宮を設け、それぞれ上の宮、下の宮と称した。これが安房神社の上の宮、下の宮の興りという。布良崎神社は、後裔の忌部氏と開拓の恩恵に預かった当地の人々が天富命を祀ったものだ。仔細は不明だが、安房神社(本殿)の前殿とも伝わる。
ここを訪れるのは二度目になる。鳥居越しに富士山を望む境内が素晴らしい。夭折の天才画家として知られる青木繁はかつて当社の至近に寄宿しており、その家は現在記念館となっている。代表作「海の幸」はこのあたりの漁民の日常の観察から生まれたものだろう。また「わだつみのいろこの宮」など神話に題材を得た作品も多く、ここに住んだことになにかの因縁を感じる。


青木繁「海の幸」アーティゾン美術館蔵
神社はその地を統治した為政者およびその祖神を祀ることが多い。記紀に名の見える古社のほぼすべてが該当するといっても過言ではなく、それらは幾度かの遷座を行ったにせよ、「まつりごと」を行う祭政一致の拠点であったと見てよい。そうした意味からはここ安房も例外ではない。天比理刀比咩命を祀った洲宮神社や洲崎神社は、ともに延喜式内名神大社の論社とされている。卑弥呼や神功皇后など古代の国家祭祀の主体が女性であったことは知られるが、天富命第一后の天比理刀比咩命をシャーマンと看做すことも出来よう。
洲宮神社は安房神社の北6kmほどのところ、端山の麓に鎮座する。安房神社に同じく、神明鳥居、神明造の社殿が立つ。社殿前の大銀杏の葉は黄色く色づき、蒼穹とのコントラストが美しい。どこかに奥ゆかしさのようなものが感じられるのは、后を祀っているからだろうか。社伝では、創祀は養老4年(720)に天富命十五代の後裔が仮宮を建てて祀ったものとされるが、創建は文永10年(1273)。同じく十八代後裔によるものだ。当社は三度遷座しており、最初の遷座地の火災から仮宮を経て現社地に至るのは永享11年(1439)である。社頭の案内板には、旧社地の魚尾山(とおやま)から古墳時代後期の手捏ね土器や鏡・勾玉、有孔円板円板の土製模造品などが出土し、安房独自の祭祀が盛んに行われていたとある。当社は往時の火災で古文書等の記録が焼失しており、明治6年に延喜式内社の指定を後述の洲崎神社に変更されている。
もう一つの論社、洲崎神社に向かう。房総半島西の突端、三浦半島を望む御手洗山の中腹に鎮座する。随神門から社殿までは150段の石段が続く。こちらの本殿は朱塗りの三間社流造で江戸時代前期のものだ。安房神社の社殿の建築様式を踏襲するなら神明造であることが自然だが、そうでないことにはなんらかの意味があるのだろう。流造は鎌倉時代に普及したといわれるが、当社は武家との所縁が深い。源頼朝は石橋山の戦いに敗れた後、真鶴から船で安房国へ逃れた。『吾妻鏡』治承4年(1180年)9月5日の条では、頼朝は上陸後に上総介、千葉介に援軍を要請、当社へも参拝し、神領を寄進したという。当地で軍勢を整え、反撃に転じたことは読者の知るところであろう。
また、当社は修験の拠点でもあった。境内を海に向かって右に降りていくと、養老寺という別当寺に通じるが、途中に役行者を祀る石窟がある。洲崎明神には七つの別当寺があったが、残るのは当寺のみだ。正式には妙法山観音寺といい、養老元年(717)に役行者を開祖として創建されたという。役行者が伊豆に配流されたことは続日本紀の記録にあるが、房総に足を延したことはない。だが、洲崎周辺は古くから地形を利用した海の行場であったようで、多くの修験者がいたと考えられる。曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」には、役行者が伏姫に仁義八行の数珠を授けるエピソードがあるが、江戸にも洲崎修験の存在は知られていたのであろう。本尊は洲崎神社の本地仏である十一面観世音菩薩で、今も神仏習合の姿をとどめている。江戸時代までは社僧を務めており、洲崎神社を実効支配していたのは養老寺だったようだ。
養老寺を出て道を渡り、海に向かうと浜鳥居が見えてくる。浜鳥居の真正面には富士山が望め、その先に「神石」という岩石が祀られている。竜宮から洲崎大明神に奉納された二つの石の一方とされ、もう一方は対岸の三浦半島にある安房口神社に祀られている。安房口神社の石は口を開いていることから「阿形」を、洲崎神社のものは裂け目の様子から「吽形」とされ、この二つの石で江戸湾を守護すると伝わっている。
洲崎神社の神石
安房口神社の霊石。当社の主祭神は天太玉命だ。
当社の立地する洲崎の沖合は「汐のみち」とも呼ばれて古くから難所とされ、且つ海上交通における要所でもあったため、沖を通る船から通行料の奉賽を納めることを求めた。瀬戸内の水軍さながらである。難所と聞いて思い出すのは、日本武尊が相模から上総に海を渡る際に弟橘媛(おとたちばなひめ)が入水したエピソードだ。日本書紀の現代語訳を以下に引いておく。
さらに相模においでになって、上総に渡ろうとされた。海を望んで大言壮語して、「こんな小さい海、飛び上がってでも渡ることができよう」といわれた。ところが海中に至って暴風が起り、御船は漂流して進まなかった。そのとき皇子につき従ってきた妾(おみな)があり、名は弟橘媛という。穂積氏忍山宿禰(ほづみのうじのおしやまのすくね)の女(むすめ)である。皇子に申されるのに、「いま風が起こり、波が荒れて御船は沈みそうです。これはきっと海神のしわざです。賤しい私めが皇子の身代わりに、海に入りましょう」と。そして、言い終るとすぐ波を押しわけ海におはいりになった。暴風はすぐに止んだ。船は無事岸につけられた。ときの人はその海を名づけて馳水(はしるみず)という。(出典*1)
走水神社。日本武尊尊と弟橘媛を祀る。
走水神社から浦賀水道を望む。
美談として描かれているが、これは船に乗せられていた侍女が人身御供として荒れる海に突き落とされた話だろう。自ら進んで入水するなどあり得ない。「天皇陛下万歳」と特攻した(かどうかは不明だが)若い兵士たち同様に、命乞いするなど許されず、個人の生存よりも国家や国体の威信と安全が優先されたのである。自由、民主などの思想がない時代の話だが、今また”自由民主”を名乗る政権が大きく右舷に舵を切り、さらにこれを多数の人々が支持するというおかしな風景が現出しつつある。これらを正当化する手段として為政者の宗教利用があるが、僕たちが警戒すべきことの一つではないか。ナチスに見たように人間は感情に働き掛けられるといとも簡単に熱狂する。いま必要なことは感情ではない。事の真偽や正誤を見極める理性だ。民衆は誰もが戦争などしたくないのである。
話を元に戻そう。安房開拓の祖となる天富命らは、考古学的観点を踏まえればおそらく弥生時代の後期(1〜3世紀)に、阿波を拠点とした忌部系集団が房総南端へ移住したものだと思われる。古墳時代に入るとこれが「天孫系開拓神」として再編・神話化した。つまり「外来の祭祀技術を携えた開拓神」として、南房総の地霊を統合する役割を担ったのではないだろうか。このあたりを車で走っていると、対岸の三浦、そして伊豆、熊野といった地にどこか似ていることに気づく。いずれも半島なので当たり前なのだが、太平洋側の半島ゆえの気候風土、文化には間違いなく通底するものがある。信仰についても同様だろう。地形に加えて海神、龍神への畏れや補陀落への憧憬から、多くの修験者が行場を求めたものと思われる。安房に限らず、鴨川の清澄山、君津の鹿野山、大多喜町の養老渓谷は修験者の行場だったと聞く。研究者の間では、房総半島は「古層の信仰が修験道へと移行する過程を最もよく残す地域」とされているらしい。まだまだ行くべきところはたくさんありそうだ。
(2025年12月7日、8日/2020年1月2日/2019年1月2日/2016年1月22日)
出典
*1 宇治谷孟「全現代語訳 日本書紀 上」講談社学術文庫 1994年
参考
君塚文雄「布良崎神社」「洲崎神社・洲宮神社」
上記所収:谷川健一編「日本の神々 神社と聖地 第11 巻 関東」白水社 1984年














