伊弉諾神宮:兵庫県淡路市多賀740
諭鶴羽神社:兵庫県南あわじ市灘黒岩472

前稿のオノゴロ島に続き、淡路のイザナギ、イザナミを祀る神社を訪ね、国生み神話の背景を探ってみたい。

イザナギを祀る神社の代表はなんといってもここ淡路の伊弉諾神宮である。当社はイザナギの幽宮(かくれみや)として夙に知られている。日本書紀には以下の記述が残る。「伊弉諾尊、神功既に畢へたまひて、霊運当遷れたまふ。是を以て、幽宮を淡路の洲に構りて、寂然に長く隠れましき」。イザナミとともに国土や神々を生成し、その役割を終えたイザナギはここに隠棲したとのことだ。



平日だが観光客が多いのは、テレビでよく取り上げられるからだろうか。境内は約1万3千坪(4万3千㎡)とたいへん広く、南正面と東西に鳥居を構えている。神明鳥居、神門、拝本殿など建造物のいずれも、延喜式内名神大社、淡路国一宮とされるに相応しい格式を感じさせる。なにせ祀られているのは皇祖神アマテラスの父親なのである。記録に残る由緒は以下の通りだ。

平城天皇の大同元年(806)に神戸十三戸を祭祀の料とされ、清和天皇の貞観元年(859)一品の神階を得、『延喜式』では最高の社格名神大社を賜わり、永万元年(1165)には炭五十籠、木五十束を神祇官に致(納)し、そのころから淡路国一の宮と仰がれるようになった。元々は地名の「多賀神社」を称しており、伊弉諾神宮に改称されたのは昭和29年と近年である。また、鎌倉時代には神宮寺を擁しており、明治初年までは祭祀も社家と寺家の両部で行っていたという。(出典・参考*1)
 

神門


拝本殿




注目すべきは本殿の真裏に円墳があったことだ。これはイザナギの陵と伝えられ、その前にかつての本殿があったという。長く禁足地とされていたが、明治15年に拝殿の改築に伴い、社殿の配置の関係から本殿を後退させてこの円墳の上に移したという。未確認だがこの墳丘上にあった数十個の自然石は本殿の床下に積まれているらしい。つまり、現在は本殿の下にイザナギの墓があるのである。実は古墳の上に神社が建つことは珍しくなく、他にも数多くの事例がある。一般に神社は死穢を嫌うとされるが、穢れは時間の経過とともに薄まっていく。これを一定期間待つのが「殯」(もがり)である。風葬が行われていた古代、上代ではこの期間が二、三年に及んだともいう。亡くなってしばらくは祟る神として怖れられるが、やがて骨となり、葬られた後は守る神に転じ、その場所が聖地化するようだ。こうした葬習は近代まで琉球弧の島々に見られたもので、いまも海岸の崖下の洞穴にその名残が見られる。

イザナギとは一体何者なのか。神話学者の松前健氏は、古くは宮廷に祀られておらず、皇祖神の親神でもなかったとし、元々は淡路の海民が奉じた一地方神であったとする。淡路は五世紀から六世紀にかけて「御食つ国」として認識されていた。大和王権にとって非常に重要な場所で、淡路を根拠地とする海民の服属の意図もあり、神話の中に取り込んだのだろう。また、記紀の神代の部は汎神である造化三神、神世七代からはじまるが、このあとに国土と神々を生む物語を挿入しなければ、アマテラス・スサノヲ・ツクヨミといった人格神に接合しない。物語の体裁を整えるために淡路の土着神、国つ神を天つ神に転じさせ、つじつまを合わせる必要もあったと思われる。イザナギ・イザナミが皇祖神とは見做されていないことも、これら意図によるものと考えれば説明がつくのではないだろうか。イザナギは淡路島の海民を統治した族長であり、大和王権が成立する遥か前からその伝承が地域の神話として語り継がれていたのではないだろうか。

 

本殿。この下にイザナギが眠る。



伊弉諾神宮に戻ろう。現在の当社にはいただけないことが二つある。一つは境内の巨大な日時計だ。画像を見ていただければお分かりの通り、いわゆるレイラインに基づいたもので一見するともっともらしく見えるが、たまたまその方角にある著名な神社を並べただけでなんの根拠もない。しかもその中心は伊弉諾神宮なのである。図々しいというか、言ったもの勝ちというか、これには失笑を禁じえない。もう一つ挙げておこう。それは当社の政治色がかなり強いことだ。近年は憲法改正を訴える幟が境内のあちこちに立ち、署名まで募っているらしい。また、当社の崇敬者なのかはわからないが、国会議員はじめ政治家のポスターも境内に掲示されている。宗教と政治の関係が深いことは、政教分離を原則とする今日においても儘あることとはいえ、参拝者にとっては気持ちのよいことではない。おそらくこの二つは同根であり、同じメンタリティから発しているものなのだろう。


境内の日時計

 

 

続いて、イザナミを祀る諭鶴羽神社を訪ねてみよう。前日は沼島から帰ったあと土生港近くの山あいの料理民宿に宿をとり、久しぶりのふぐを堪能し、ひれ酒の香りに酔い痴れた。翌朝早くに表参道を車で上っていく。歩くと1時間半は優にかかるが、車なら10分強の道のりだ、標識にしたがって右折するといきなり道が狭くなった。離合できる場所はほとんどなく、申し訳程度のガードレールもあったりなかったりで片側は崖である。まさか対向車は来ないだろうと高を括っていたのだが、そのまさかとなってしまった。先にバックしてくれたので申し訳ないと思いつつ、そろそろと進む。後ろに下がるのも儘ならないようでハンドルを何度も切り返している。なんとかすれ違うまでに10分近く要することになった。この後は幸いなことに車と行き会わなかったが、そこから先も蛇行する狭い道が延々と続き、やっとのことで駐車場に着いた。こんな目に遭うのは熊野の山中ぐらいのものである。訪れるなら地元タクシーで連れて行ってもらった方が安心かもしれない。




まずは境内案内板から由緒を写しておこう。

伝承によると、はるか二千年以上前、第十代崇神天皇の御代に伊弉諾尊、伊弉册尊の二柱の神様が鶴の背に乗り給い、高天原に遊び給うた。狩人、鶴の舞い遊ぶ姿を見て、矢を放つ、羽に当たった鶴は、そのまま東の空の峰に飛んでゆかれた。狩人がその跡を追って頂上に至ると七本のカヤの樹があり、その梢に止まったしるしを目にされた。「我は、イザナギ、イザナミである。国家安泰・五穀豊穣、国民守護のため、この山に留まるなり。これよりは、諭鶴羽大権現と申す」と唱えられた。狩人は、深く畏れ前非を悔い、その矢を抜き取り、弓を捨て、その峰の清らかな土地に社を建て神職を勤めた。狩人(鏑矢丸)を霊魂として産土神として祀る。(諭鶴羽山縁起より)ー中略ー その創建は遠い昔のことであり、自然崇拝、山岳信仰に始まり平安時代に修験道が盛んになるにつれ、この山も前期の山々と共に神仏習合する山として隆盛を誇り、山上一帯に二十八宇の大伽藍を建て、熊野権現と並んで修験の霊場として栄え、熊野権現元宮、熊野本宮と称えられた。そのご神威は、京の貴族社会にまで知られていた。峰は ゆづるはの嶺 阿弥陀の峯 弥高の峯(枕草子 清少納言)

社殿。質素な造りだ。


神仙寺

 

祭神は、主神を伊奘冉尊とし、速玉男尊、事解男尊が配祀されていることからも、当社への信仰は「熊野」そのものといっても過言ではないだろう。ここに至る道のり、鎮座地の環境など、体感としても正に「熊野」なのである。境内右手に当社の社殿、左手に神宮寺の名残りの神仙寺が建つ。いずれも質素な造りだが”これみよがし”さがなくて安心する。社殿の前には「元熊野宮諭鶴羽宮」と刻まれた石碑、熊野那智大社、速玉大社の宮司が参拝した記念碑が立ち並び、その脇のユズリハやアカガシで構成される照葉樹の自然林が美しい。


左は熊野那智大社宮司が寄進したもの。右は参拝記念の碑

社叢


境内を回り込んで左の道を山頂に向かって上っていくと右に鳥居が立っている。中に入ると建武の頃に裏参道にあった町石が並び、厳島社の小祠の横に多宝塔影板碑や宝剣板碑が祀られていた。二十八宇の伽藍を構えていた当社の中世のありようを偲ぶことができる。さらに上っていくと、奥之院篠山神社に到着する。ここは伊弉諾、伊奘冉、加えて大地主神(おおとこぬし)を祀る。辺鄙な場所にポツンと鎮座しているのだが、ここを奥之院としたのは大地主神が元々この山の神(地主神)であり、そこにイザナミを上書きしたからで、先住の神に一定の敬意を表したものと思われる。時間が許さなかったのでさらに上ることは諦めたが、山頂にはかつて神仙寺の本尊、聖観世音菩薩像(藤原時代後期)が祀られており、今も頂上社がある。明治初年の神仏分離令によって山麓に降ろされたこの仏像は、僕が訪れた10日後、158年ぶりに諭鶴羽神社に戻されている。(神戸新聞)ちなみに平成20年からは有志によって当山修験道が復活しており、当日は護摩供法要や火渡りなどの修験行事も行われたようだ。当社ホームページには「諭鶴羽神社の行事は、どなたでも、自由にご参加いただけます」とあった。浄不浄、信不信、貴賤を問わずすべての人々を受け入れてきた熊野のおおらかさを感じた次第だ。

裏参道から発掘された町石


手前に多宝塔影板碑。後ろは宝剣板碑群


左奥に小さく見える祠が奥之院篠山神社


奥之院篠山神社


さて、管見ではイザナミはイザナギとは異なり、淡路の地方神としての性格が見られない。熊野の花窟神社や、庄原の比婆山、安来の比婆山などの葬所で知られる通り、イザナミ信仰は主に熊野と出雲に多い。一方、阿波の美馬には伊邪那美神社があって、延喜式内社で唯一イザナミを祭神として祀っているのだが、これについては以下の論考がある。

朝廷では古くから淡路の海産物等を貢上させていた。『延喜式』の「大嘗祭」は、淡路国の凡直(おおしのあたい)氏に対して貢物の物品を京に運ぶことを定めている。そこには「およそ紀伊・淡路・阿波三国の造るところの由加物の使、京に向かひし日路次の国道路を掃くことを承れ」とあることから、この三国の由加物使は朝廷から特別な地位が与えられていたものと解される。淡路の鳴門海峡を隔てた対岸、阿波国板野郡は、阿波の凡直氏の本拠地である。紀伊水道の沿岸には凡氏の姓をもつ海人族が分布し、摂津・河内国にも強大な凡氏が存在した。凡氏は海人を統括する氏族で、阿曇氏の一派ではないかと思われるが、こうした海人系の氏族が紀伊水道から吉野川をさかのぼって勢力を扶植した地域こそ、美馬郡に点在するイザナミ信仰の地域であろう。(出典*1)

また、松前健氏は、阿波では古来水の神であるミヅハノメを地主神としており、これを農耕の神として奉じた斎女のイメージが、後に淡路から持ち込まれたイザナミに投影されたのではないかと考察している。一方のイザナギは、母系的色彩の濃い稲作地帯の阿波においては受容されなかった可能性があるという。

どうやら海民たちが紀伊水道を往来する中で、イザナミ信仰が阿波や熊野に持ち込まれたということのようだ。ここからは僕の仮説だが、イザナミはポリネシアなど南方からもたらされた万物生成の地母神であり、おそらくイザナギよりも遥か前から淡路に根差していたのではないか。前段で見たようにイザナギは祖神として崇拝されており、その根拠は伊弉諾神宮に求められるが、イザナミはこれよりもずっと観念的でアニミズムに近い海神や農耕神であったように思える。

諭鶴羽神社は、元々淡路から発したイザナミ信仰が中世熊野の地で修験者とともにメタモルフォーゼを遂げ、速玉男、事解男の二神を伴って再び淡路に戻ってきたと考えたい。国生み神話はこの二神を融合させつつ、皇祖神をつなぐ媒介として設定されたものではなかったか。いずれにせよ揺籃期にあった大和朝廷は、対外的にも王権の正当性を示す物語を必要としたのである。

境内にある天の浮橋遥拝所から沼島を眼下に眺める。イザナギとイザナミは遠い未来の日本のありようをどのように思い描いて国生みを行ったのだろうか。



(2026年3月11日、3月14日)

出典・参考
*1  濱岡きみ子「伊弉諾神宮」 所収「日本の神々ー神社と聖地 第三巻 摂津・河内・和泉・淡路」白水社 1984年
出典
*1  坂東悊夫・松本隆義「伊邪那美神社」所収「日本の神々ー神社と聖地 第二巻 山陽・四国」白水社 1984年

参考
松前健「日本の神々」講談社学術文庫 2017年
吉田敦彦「日本神話の源流」講談社学術文庫 2014年