焼火神社:島根県隠岐郡西ノ島町美田1294 焼火山
西郷港は観光客でごった返していた。車ごと移動するため、高速船ではなくフェリーにしたのだが一日一便しかなく、乗り過ごすと旅程を見直さなければならない。初めての港は要領を得ず、待機場所に辿り着いたのは出航の5分前だった。
デッキに席を取り、海風にあたる。島後の山々がゆっくりと遠ざかっていく。たった一日逗留しただけなのに旅情に誘われる。それ以上に西ノ島はどんなところか、これから経験することは何だろうという期待に心をときめかせる。未知の物事に対する好奇心は脳の報酬系を刺激し、快感物質であるドーパミンを分泌させるという。脳科学では未知への興味は単なる精神的な欲求ではなく、脳内の特定の神経伝達物質や領域が連動して起こるといい、生存や学習に不可欠なメカニズムとする。まだ見ぬ世界を目指す旅こそが、今日まで人類を永らえさせてきたのだろう。
西ノ島の別府港に接岸する。別府とは中世の荘園制度における特例地のことだ。本来の荘園とは別に開発された地であり、免税措置が伴うこともあったらしい。後醍醐天皇の行在所に比定される黒木御所はこの港を見下す高台にある。遠流に際して”別府”に指定されたのだろうか。午前十時過ぎ、船尾の扉が開いた。昼前には雨が降り出す予報だったが、空模様を見るとまだしばらくは持ちこたえそうだ。予定通り焼火(たくひ)神社を目指すことにした。
 
焼火神社は焼火山(452m)の山頂近くにある。麓には東西に鳥居があり、そこから山に登る道が参道となる。カーナビが示したのは東からの道だ。港から南下して東の鳥居の脇から山を上っていく。舗装はされているものの途中から車一台がやっとの道幅となり、伸びた草木が両脇から覆い被さってくる。延々と蛇行が続く道をそろそろと走り、やっと遊歩道入口の駐車場に辿り着く。西から回り込んだ方が距離は短く、道も広くて断然楽なのだが、旧参道の趣を知りたいのであればこちらをお勧めする。
ここから先は登山になる。道は整備され、急坂もないので健脚でなくとも問題はない。神域に入ると独特の植生を感じる。当社神域は県の天然記念物に指定されており、シダ類のタクヒデンダはここにしかない。シダではないがタマゴタケを見つけた。毒々しい赤色をしているが食用できるきのこだ。しれっと路傍にあるのがいい。ここには野鳥も多く、アカショウビンやサンコウチョウなど絶滅危惧種が生息しているともいう。しばらく登ると展望台と神社の分岐に出る。右にある銅鳥居の先は平坦な道だ。途中左手に長い石段があり、ここかと思って上ると朽ちかけた祠があるのみだった。


かなりしっかりとした野面積みの石垣が見えてきた。その上の社務所も大きな構えで、おそらく参籠できるようにしたものだろう。上がり框の雪駄は神職の方のものか。社務所の脇の参道を行くと御神木の巨樹と社殿が見えてくる。到着した。拝殿左手の岩壁には窟があり、その中に本殿が埋まるように収まっている。こうした造りは他で見たことがない。本殿の正面に拝殿を設ける広さがないためにこのようにしたものか。本殿は海を向いて南面しているので、この場所で火を焚いたものと思われる。
当社の概要を同社のホームページから引いておく。
焼火山(海抜452m)の中腹にある焼火神社は日本海の船人に海上安全の神と崇められている。 旧暦12月30日の夜(大晦日)、海上から火が三つ浮かび上がり、その火が現在社殿のある巌に入ったのが焼火権現の縁起とされ、現在でもその日には龍灯祭という神事が行われている。 以前はその時に隠岐島全体から集って神社の社務所に篭り、神火を拝む風習があった。現在もその名残を留め、旧正月の5日から島前の各集落が各々日を選んでお参りする「はつまいり」が伝承されている。
例大祭は7月23日・24日の2日間、昔は島前中から集って神輿をかついだが、昭和30年の遷宮を最後に廃止された。江戸時代には北前船の入港によって、海上安全の神と崇められ日本各地に焼火権現の末社が点在している。安藤広重・葛飾北斎等の版画「諸国百景」では隠岐国の名所として焼火権現が描かれている。
社殿は享保17年(1732)に改築されたものであり、現在隠岐島の社殿では最も古い建築とされている。当時としては画期的な建築方法で、大阪で作成され地元で組み立てられた(今でいえばプレハブ建築のはしりとでもいおうか)。平成4年には国指定の重要文化財に指定された。 城を偲ばせるほど広大な石垣の上に建設された社務所では、旧正月の年篭りの時に千人ほどの参詣人が火を待ちながらたむろしたり、また、江戸時代には巡見使が400人以上の家来を率いて参拝した折りの記録も残っているが、現在は客殿 きゃくでん という場所にその名残をとどめている。(以上、出典*1)
焼火権現の名の通り、当社は明治までは神仏習合しており、修験の行場だったという。引用が多くなるが、以下を参照いただきたい。
当社はもともと修験の霊場であり、無本寺で真言宗焼火山雲上寺と称し、かつ社号を焼火山第権現といい、しかしその内殿には地蔵尊を祀るという形になっていた。両部の場合、寺院は寺院として本尊を安置する本堂をもち、別にその境内に御神体を安置する鎮守社をもつというのが普通であるが、ここではそうではなく、施設としては本殿・拝殿のみがあり、そこに御神体として地蔵尊を安置して焼火山大権現と称していた。そして雲上寺が別当をつとめるという形になってはいたが、実際には雲上寺という別個のものがあるわけではなかった。そのため、明治の神仏判然令が出るやたちまちにして寺号を廃し、御神体をとりかえ、社号を焼火神社とし、別当は還俗して神主と称した。(出典*2)
焼火権現の本地は地蔵尊とされ、もともと垂迹はなかったらしいが、元禄の頃に大日霊貴尊(おおひるめむちのみこと)を垂迹としていたらしい。今も御祭神は大日霊貴尊、天照大御神の別称である。隠岐の廃仏毀釈は凄まじかったというが、おそらく一夜にして御神体の地蔵尊はどこかに匿すか棄ててしまい、代わりに鏡を祀ったのだろう。極端と言えば極端だが、聖地と宗教の関わりでは、聖地の場所は変わらずとも時代によって祀られる神が変わることはよく知られている。宗教人類学者の植島啓司氏はエルサレムを例にとり、宗教が変われど「聖地は一歩も動かない」ことを「神と特定の場所の結びつきであり、神そのものではない」としている。はじめに聖地ありきで、そこにどんな神を観想するかは人次第ということになる。
拝殿に立てかけられた木札には「焼火神社雲上宮」とあるが、本尊は「地蔵菩薩」である。
私見だが、おそらく古代には焼火山自体が信仰の対象で、人が入ることはタブーとされていたと思う。そこに修験者らが入り込み、山林抖擻を行う過程でここが聖地化していったのではないか。本殿のある窟はその名残と見ることもできよう。焼火山南麓には源頼朝に縁の深い文覚が修行したとの伝えのある窟がある。平家物語では文覚は隠岐の知夫里島に流され、この島には今も墓や五輪塔が残る。文覚は伝説の多い人物であり、史実かどうかは定かではないが、平安時代以降、この山を中心に修行を行う僧が多数いたことは想像にかたくない。
修験と聞いて思い当たったのは、四国八十八ヶ所の最御崎寺や神峰寺の奥の院で龍燈が焚かれていたことだ。最御崎寺の語意は「火つ」、つまり火を焚いた岬のことだ。また、神峰寺には「燈明巖」という岩があり、世の中に異変があると大晦日に光を放ったという。仏教民俗学者の五来重氏は、これを行者が火を焚いた証とし、大晦日に龍燈があがったというのは大晦日に大いに焚いたからだとする。辺路を廻る行者たちは海に接した山の上で火を焚いていた。それは龍宮や海神に捧げた火であるとともに、航海の目印ともなった筈である。
いま一度「龍燈」の意味を確認する。「龍神の住処といわれる海や河川の淵から現れる怪火で、龍神の灯す火の意味で龍燈と呼ばれ、神聖視されている。主に海中より出現し、海上に浮かんだ後に、いくつもの火が連なったり、海岸の木などに留まるとされる」(Wikipedia)キーワードは前段の「大晦日」と「いくつもの火が連なる」ことだ。これは当社の「旧暦12月30日の夜(大晦日)、海上から火が三つ浮かび上がり、その火が現在社殿のある巌に入った」という縁起と一致する。龍燈は行者による人為だが、当時の島民は山を畏れて立ち入らなかったことを考えると、怪異や奇瑞と見るほかなかったのだろう。そう考えた方がありがたみがある。
海から望む焼火山
さて、当社にはもう一つ、烽火台としての役割があった。倭国は白村江の戦いの後、天智3年(664)に対馬、壱岐、筑紫などに防人と烽火台を配備、長門、筑紫の太宰府には城を築き、西海の防衛体制を固めた。その後も新羅との緊張関係は続き、北方の守りも固める必要から、天平4年(732)には山陰道節度使を派遣し、体制の強化を図った。続く天平6年(734)に、出雲・隠岐の二国間に烽(のろし)を置くことが朝廷より命じられている。この烽火台が置かれた場所は、出雲は美保崎の馬見山、隠岐は焼火神社と考えられている。この二地点の距離は直線で40kmもある。はたして視認できるのか、AIに試算と検証を依頼した。結論は以下の通りだ。
提供された情報と地理的な見通しの計算に基づき、隠岐西ノ島の焼火山から焚かれた烽火は、海を隔てて約40km離れた松江市美保関(まつえしみほのせき)の馬見山(うまみやま)から夜間であれば見ることができる可能性が非常に高いと考えられます。
両地点間の実際の距離40kmは、計算された総最大可視距離141.2kmよりもはるかに短いため、地球の丸みによる遮蔽は起こらず、互いに見通すことが可能です。地理的な見通しは確保されています(視界はクリアです)。したがって、夜間であれば、燃焼力の高い烽火の火は、約40km離れた馬見山から問題なく見えると考えられます。昼間の場合は、烽火の煙の濃さや天候(湿度、風、霞など)に大きく左右されます。夜間の火に比べて視認性が低下する可能性があります。美保関の馬見烽(とぶひ)は、隠岐方面からの外国の侵入に備えるための最前線の烽火台として設置されたとされており、馬見山からは隠岐島が望めることが設置の理由とされています。この史実が、この地理的経路での視認性を裏付けています。(Google Gemini)
もともと修験者が修行の一環として龍燈を焚いており、後に烽火台として利用されたのだろう。一方で、船で海上を行く人々にとっては海上安全を願う神であった。因みに隠岐汽船の御船印(船の御朱印)は、焼火神社の神紋の三つの丸と同じだ。同社の創業は明治18年(1885)、代々焼火神社の宮司を務める松浦家の松浦斌(さかる)氏が私財を投じて隠岐航路の基礎を築いたという。同社の船舶は松浦家への敬意と航海安全を祈願して、焼火神社の前を通るときはいまも必ず汽笛を鳴らしている。
焼火神社を後にする。どこからか汽笛が聞こえる。
(2025年9月20日)
出典
*1 焼火神社 ホームページ
*2 石塚尊俊「焼火神社」所収「日本の神々 神社と聖地 7 山陰」白水社 1985年
参考
植島啓司「聖地の想像力」集英社新書 2005年
【御船印をめぐる旅】 御船印に込められた地域の歴史と誇り





