浄見原神社:奈良県吉野郡吉野町南国栖1
葛城一言主神社:奈良県御所市森脇432
高天彦神社:奈良県御所市北窪158
「まつろわぬ民」という言葉がある。古代日本において大和王権の支配や権力に服従せず、抵抗した人々のことだ。彼らは異族とされ、その殆どが征討の対象となった。日本書紀を紐解くと、神武紀や景行紀における日本武尊の征討譚などにおいて、国栖、土蜘蛛、隼人、熊襲、蝦夷などさまざまな異族が存在したことがわかる。彼らは討ち滅ぼされた後、国家体制の中に組み込まれていく。たとえば、服属後の隼人は都に移配となり、宮廷警護や軍事への従事に加え、宮廷行事で隼人舞の奉納を行ったりした。京田辺の月読神社には隼人舞発祥之碑があり、今も秋の例祭で奉納が行われるが、古社やその祭事の中には今もこうした異族の痕跡を残すところが多い。本稿では国栖と土蜘蛛について取り上げる。

浄見原神社と吉野川
まず、国栖(くず)について。あくまで仮説としてなのだが、彼らは奈良の吉野の山中に定住し、後に王権に取り込まれた在地集団で、狩猟や採集により生活を営んでいたと考えられている。本来は「山の民」であり、王権に連なる農耕を行う平地民とは区別されていたようだ。日本書紀巻三、神武紀の記述を現代語訳で引用する。
天皇は吉野のあたりを見たいと思われて、宇陀の穿邑(うかちのむら)から軽装の兵をつれて巡幸された。吉野に着いたとき、人がいて井戸の中から出てきた。その人は体が光って尻尾があった。天皇は「お前は何者か」と問われた。答えて「手前は国つ神で、名は井光(いひか)といいます」と。これは吉野の首部(おびとら)の先祖である。さらにすこし進むと、また尾のある人が岩をおしのけて出てきた。天皇は「お前は何者か」と問われた。「手前は石押分(いしおしわく)の子です」という。これは吉野の国栖(くず)の先祖である。(出典*1)
一方、応神紀には以下の記述がある。
十九年冬十月一日、吉野宮においでになった。国樔人が醴酒を天皇に奉り、歌を詠んでいうのに「橿の林で横臼を造り、その横臼に醸した大御酒を、おいしく召し上がれ、わが父よ」。歌が終わると、半ば開いた口を、掌で叩いて仰いで笑った。いま国樔の人が土地の産物を奉る日に、歌が終わって口を打ち笑うのは上古の遺風である。国樔は人となりが純朴であり、常は山の木を取って食べている。またかえるを煮て上等の食物としており、名づけて毛瀰(もみ)という。その地は京より東南で、山を隔てて吉野川のほとりにいる。峯高く谷深く道は険しい。このため京に遠くはないが、もとから訪れることが稀であった。けれどもこれ以後はしばしばやってきて、土地の物を奉った。その産物は栗・茸、鮎のたぐいである。(出典*1)
どうだろうか。山の民、あるいは縄文人を思わせるが、吉野川流域の国栖の近在には宮脇遺跡という縄文時代から近世にわたる複合遺跡があり、ここが吉野宮であったことも考古学的にはほぼ確定している。国栖は王権以前から当地に暮らした先住の民であったのだ。
前置きが長くなった。浄見原神社へはその日最初に参拝した丹生川上神社中社から向かった。このあたりは大海人皇子(後の天武天皇)が根拠地とし、壬申の乱において挙兵した場所である。国栖の民が先住していたことを考えると一種のアジール(注*1)であったように思われる。吉野から熊野にかけての山中は、後世の南朝に与する武士などまつろわぬ人々を多く匿ってきたのだ。

国栖の集落の人々が設けた駐車場に車を置き、吉野川沿いの参道を歩く。エメラルドグリーンの川面が美しい。途中に「国栖奏」を解説した案内板がある。国栖奏は先に引いた応神紀に見る通り、天皇を寿ぐ歌舞を奏したものだ。壬申の乱の平定にもつながったとされ、天武天皇の殊遇を受けて大嘗祭でも奏上するようになった。現在は旧暦1月14日の例祭にて南国栖地区の男性12名が翁を務め、奏上が行われている。文末の参考に動画のリンクを貼っておいたので観てほしい。同社の祭神は天武天皇であり、当社は壬申の乱の際に彼を匿った場所とされるが、これ以外の由緒はまったく不明で、国栖奏のみが伝わっている。断崖絶壁に設けられた石段を上ると鳥居と舞台があり、その先に続く石段の上に小さな本殿が立っていた。他に例祭は行っておらず、神社の態は為しているものの、古くから国栖奏のための舞台装置であったように思える。国栖は辺境の民なのだが、早くから為政者に恭順の意を示したことで後世の安寧を得て、それが今日まで連綿と続いているのである。長い物には巻かれろということだったのだろうか。


一方、帰順しなかった在地の民は土蜘蛛である。以下、日本書紀の神武紀を引く。
高尾張邑(たかおわりのむら)に土蜘蛛がいて、その人態は、身丈が短く、手足が長かった。侏儒と似ていた。皇軍は葛の網を作って、覆い捕らえてこれを殺した。その邑を改めて葛城とした。(神武紀 出典*1)
土蜘蛛は景行紀にも登場する。長くなるので引用はしないが、こちらは現在の大分県竹田市、くじゅう連山のあたりに割拠していた複数の在地集団であり、放っておくと悪さをするので皆殺しにされている。これに限らず、王権は従わない者、抵抗する者はなりふり構わず征討していく。大義は常に強者の側にあり、国体に依存したのだ。前記の土蜘蛛を祀った塚は、葛城(現御所市)の神社二社の境内にある。
葛城一言主神社は、雄略天皇と対決した一言主神を祀る。古事記では、悪事も善事も一言で言い放つ神として自ら名乗り、雄略天皇は恐れ入って弓矢や刀に加えて臣下の衣類まで脱がせて献上したと伝わる。この記述を見る限り、一言主神は朝廷に対抗する在地勢力として強大であったことが窺える。葛城はもとより土蜘蛛の根拠地であったが、神武征討で生き延びた後裔の族長が一言主神であったかもしれない。
当社は二つの蜘蛛塚を擁する。案内板によれば境内の蜘蛛塚は能の「土蜘蛛」に着想を得て後世に作られたもののようだ。参道脇の蜘蛛塚も形状はほぼ同じで正方形の石組の上に自然石を戴いている。能の土蜘蛛の初見が16世紀末ということを考えると、おそらくは記紀の伝承を踏まえて神武征討の顕彰と鎮魂を目的に江戸時代前期に作られたと思われる。


もう一つ紹介しよう。一言主神社から南下し、金剛山に向けて上った場所に鎮座する高天彦神社だ。高天は高天原に擬えた名称か。広々とした高原に農地が広がり、清冽な天水が得られるこの地はいかにも高天原を思わせる。万葉集には「高間」と詠まれており、金剛山東麓の平坦地は高間と称されていた。主祭神は造化三神の一柱の高皇産霊神だが、元々は当地の地主神、高天彦を祀っていたものと考えられる。(参考*2)


蜘蛛塚は社殿に向って左側にあった。一言主神社の塚とは異なり、磐座のような形状で注連縄が回されている。奈良県史には「高天山(今の金剛山)には大きな土蜘蛛が住んでいたので、矢で射殺した。その矢が落ちたところを矢の段という。土蜘蛛の屍骸は高天彦神社の傍らに埋めた。そこを蜘蛛塚と呼ぶ。蜘蛛の住んだ蜘蛛の窟が神社前にある」(要約。出典*2)との記述がある。当社を出て杉並木の参道を出ると一帯に田畑が広がり、その先の森の中に住居跡とされる蜘蛛窟がある、ということなのだがいくら探せどそれらしき場所はない。途方に暮れていたところ、案内標識が見つかった。見るとほど近いところにあるが、獣除けの柵を回らせている上、中に入れたとしても藪漕ぎ必至である。石窟でもあれば面白いのだが、近代に立てられた石碑があるだけとのことなので諦めることにした。

この奥が蜘蛛窟。獣除けで入れない。

僕たちが歴史と呼んでいるものは主に戦争と収奪の記録であり、勝者として為政者になった側のものである。そしてそこには何千、何万、何十万という無辜の者たちの血が流されている。まつろわぬ者はたとえ降伏しても生かしておくとまた報復されるので、根絶やしにすることさえある。これが時代、地域を問わず、ホモ・サピエンスが到達した姿なのだ。独裁国家はもとより、民主主義を標榜する国家においても同様だろう。敵対はせずとも、為政者にとって邪魔な異族やマイノリティは、いつどこにおいても排除の対象になり得る。そして、排除される前も後もいわれなき迫害を受けるのである。差別なき社会は果たして幻想なのだろうか。
(2024年3月30日、4月1日)
注
*1 アジール コトバンク
出典
*1 宇治谷孟「日本書紀(上)全現代語訳」講談社学術文庫 1994年
*2 土蜘蛛 怪異・妖怪伝承データベース 国際文化研究センター
参考
*1 動画 2013年 浄見原神社 国栖奏 奈良県吉野町
*2 木村芳一「高天彦神社」
所収:谷川健一編「日本の神々ー神社と聖地 第四巻 大和」白水社 1987年
