本事件の謎に関して、これらの事が挙げられます。
・真犯人 ・人物像 ・毒物の正体 ・真犯人の人数 ・米軍の関与 ・平塚八兵衛氏の”関与”
これらの事を考察していきます。
真犯人
事件の動機はやはり「お金」だったと思う。
真犯人は、毒物の入手経路があり、毒物の扱いに慣れた冷静な人物だが、銀行のどこにどのくらいのお金があり、自分が一人でこういうことをやった場合にどのくらいのお金を奪えるかはよく分からなかった。
だから、現在の貨幣価値で1500万円という、殺人を伴う銀行強盗としては少ない金額で満足せざるを得なかったんだろう。
平沢貞通氏の関与について
犯人の左頬に二つのシミがあったと言われているが、「平沢貞通」で画像検索してみると、そういうものはないように見える。
奪われた額とほぼ同じ金額の現金を事件直後に銀行預金したことを平沢犯人説の大きな根拠になっている。
しかし、平沢が実行犯だとしても、実行犯が別にいて平沢はお金を預かっただけだとしても、強盗殺人で奪ったお金だと知った上でそのお金をすぐに銀行預金するというのは無防備すぎる。
だから、現在の貨幣価値で1500万円という、殺人を伴う銀行強盗としては少ない金額で満足せざるを得なかったんだろう。
奪われた額とほぼ同じ金額の現金を事件直後に銀行預金したことを平沢犯人説の大きな根拠になっている。
しかし、平沢が実行犯だとしても、実行犯が別にいて平沢はお金を預かっただけだとしても、強盗殺人で奪ったお金だと知った上でそのお金をすぐに銀行預金するというのは無防備すぎる。
人物像
帝銀事件(および2件の未遂事件)の犯人像について、
- 巧妙なプロ説:犯人は毒殺の訓練を積み特殊な毒を使うことができたプロで、おそらく旧軍関係者
- 稚拙な素人説:犯人は毒殺の素人で使った毒は(当時は一般人でも入手しやすかった)青酸カリ
の2つがある。捜査本部の主流は前者で旧軍関係者を追っていたが、名刺班が逮捕したのは後者の平沢貞通だった。
捜査本部の主流は、犯人はプロという線で捜査を行った。平沢冤罪説論者は今も、平沢のような素人には犯行は無理で、真犯人はプロだと主張する。毒物は即効性の高い青酸カリでは、誰か1人でも先に内服して苦しめば犯罪は失敗するが、内服後1-2分の遅効性毒物であれば、疑われずに全員を殺害できる。この為、毒物は青酸ニトリルである可能性が高い。死体の吐瀉物が青くなる特徴があり検死結果でも確認済。
一方、犯人が帝国銀行椎名町支店で成功したのは偶然の結果にすぎず、未遂事件も含めて犯人の手口を子細に分析すると、巧妙さよりむしろあらが目立つ、という説。つまり、平沢のような素人が犯人であると考えても矛盾はない、という見方もある。
毒物の正体
青酸カリ説
- 裁判所が判決で採用した「青酸カリ」説は、純粋な青酸カリウム(KCN)ではなく、事実上、青酸ナトリウム(NaCN、別名「青酸ソーダ」「シアン化ナトリウム」「青化ソーダ」)や炭酸カリウム(K2CO3)との混合物で毒性もいくぶん弱い「市販のいわゆる青酸カリ」を想定している。
- 事件発生の直後に現場の被害者を検視した古畑種基は「おそらく青酸カリ、ないしは青酸ナトリウムなど青酸化合物によるもの」と述べた。古畑は、帝銀事件の犯人が使ったのは「古い風化した青酸カリ」だったと推定した。被害者は嘔吐するなど純粋な青酸カリ中毒とは違った症状を見せた。その理由は、青酸カリの一部が空気と反応して炭酸カリになっていたためである。
- 青酸カリをなめただけで一瞬で死ぬというのはフィクションの中だけのことで、実際には青酸カリを飲むと胃の中で胃酸と反応して猛毒の青酸ガスが発生し、このガスが食道を抜けて肺に到達すると死ぬ。その間の時間、被害者は生きている。青酸中毒死の実例を見ると、死ぬまでの時間はたいてい2分後から25分後のあいだであり、中には7時間44分後に死亡した例もある。青酸化合物を口にすると数秒以内に必ず死ぬ、という小説や映画の描写はフィクションである。
- 中村正明は著書の中で、当時の調査結果から毒物は青酸カリウム(シアン化カリウム)と推定できること、一般に即効性と思われている青酸カリウムでも帝銀事件のような情況を引き起こしうること、安田銀行荏原支店での未遂を失敗と考えるなら犯人は薬学についてシロウトであること、を検証している。
- 青酸カリの入手経路について、平沢を取り調べた検事の高木一によると、調査の結果、犯行に使われたのは満洲から引き揚げてきた平沢の近親者が持っていた自殺用の青酸カリと判明し、その分量までわかっていた。
- 戦争末期には外地や戦地の民間人が自決用の青酸カリを持っているのは普通で、終戦前後には集団自決も多発している)。取り調べで平沢は青酸カリの入手先についてあれこれ嘘を並べた。高木は平沢の嘘を一つ一つ、つぶした。すると平沢は最後に「(『レ・ミゼラブル』の)大僧正のご慈悲をお願いします」と哀願した。娘を巻き込みたくない、という平沢の「最後の父性愛」を感じた高木は、あえて最後まで追求しなかった。このため、後に平沢冤罪説論者から「青酸カリの入手先もはっきりしていない」と言い立てられることになった。
- 刑法学者の植松正は、この件を高木一に電話で確認したうえで、植松の知人女性も占領軍兵士から性的暴行を受けた場合に備えて終戦後も自決用の青酸カリを持ち続けていたことを明かし、高木の話を肯定している。
- 当時の日本では青酸カリは誰でも買える安価な薬剤であった。1935年の浅草青酸カリ殺人事件の被害者も即死ではなく、倒れるまで一定の時間がかかっている。
- 陸軍登戸研究所で毒物の研究開発に従事した伴繁雄は、平沢は冤罪で真犯人は旧陸軍の関係者であると主張する一方で、使用毒物については専門家の立場から「一般市販の工業用青酸カリ」と断言している。
- 帝銀事件後、警察から話を聞かれた石井四郎は「青酸加里は分量により時間的に生命を保持させられるか否か出来る。致死量多くすればすぐ倒れる。分量により五分̶̶八分、一時間三時間翌日、どうでも出来る(之は絶対的のものである)」と、もし青酸カリであってもプロが精確に分量を調整すれば遅効性の毒として使えることを専門家として証言した。このとき石井は、ソ連に包囲されたときの自決用にドラム缶半分くらいの青酸カリを軍医中尉2人に分け与えたこと、犯人は「俺の部下にいるような気がする」という心証も刑事に述べている。
アセトンシアノヒドリン説
読売新聞とGHQ
しかし突如、警察の捜査が731部隊から大きく離れた時点で、報道も取材の方向を転換せざるをえない状況になり、731部隊に関する取材を停止した。 後年、GHQの機密文書が公開され、1985年(昭和60年)、読売新聞で以下の事実が報道された。この薬は防諜名ニトリールといい、昭和十七年ごろ神奈川県稲田登戸にあった当時の陸軍第九研究所二課T大尉によって発明されたもので、この薬の特色は、青酸系毒物としては、効き目が遅い点にあった。致死量二cc(ニトリール分のみ)で大体服用後三分から七分の間に倒れるようになっている。薬物の使用目的は大量毒殺、集団自決などが主であった。いずれも先に倒れるものがてて、あとのものがおじけづかぬよう考えられたものである。さらにこの薬の特色は、服用後は胃の中で青酸分のみが分離するため、青酸分は検出できるが、ほかの薬は反応がないという。つまり、青酸反応が認められ、青酸系毒物とはわかるが、それから先はわからないという点にある。(竹内1957, p.29)死亡直前に苦しんで吐く吐しゃ物が青い液体になるという特徴があり、現場状況に酷似している。
- 犯人の手口が軍秘密科学研究所が作成した毒薬の扱いに関する指導書に一致
- 犯行時に使用した器具が同研究所で使用されていたものと一致。
- 1948年(昭和23年)3月、GHQが731部隊捜査報道を差し止めた。
余談ながら、アセトシアノヒドリン説・平沢シロ説を追い続けた竹内記者は、帝銀事件のあとの1948年11月、生き残った4人のうちの1人であるMと結婚した(Mは竹内姓に改姓)。事件の当日、犯人の顔を正面から見たMは、法廷でも、平沢を犯人とは思えない、と証言した。Mの証言は夫の仕事とも夫の論拠とも無関係であったが、高木一検事や世間は、Mの否定的証言は夫の影響にちがいない、とあらぬ疑いをかけた。
竹内理一は平沢冤罪説を主張したが、その竹内さえ以下のように述べている。
伴繁雄の「変節」
昭和24年(1949)12月19日の証人尋問で、伴は毒物科学捜査会議の結論について「毒物は、純度の比較的悪い工業用青酸カリで、入手の比較的容易な一般市販の工業用青酸カリであると断定しました」と述べ、裁判長から「本件毒物がアセトンシアンヒドリンとは考えられないか」と念をおされると、伴は「アセトンシアンヒドリンは無色無味無臭で水と同じのため、犯人が飲ませる際に飲み方について説明する必要はないはず」と答えた(証人訊問調書)。
登戸研究所で青酸ニトリール開発主任だった土方博は、すでに1948年6月22日の時点で捜査員に対し「嘔吐することは青酸カリでもニトリールでも普通である。青酸カリは苛性ソーダのような刺激の味があるので、帝銀事件で呑ませたとすれば、味から言って、青酸カリではないかと思う。ニトリールは青臭い臭いはするが味はない。ニトリールの症状はカリよりも症状を出すのが遅い」と証言している。
バイナリー方式説
この吉永の説は、従来の731部隊犯説を大きく覆すもので、一定の説得力があった。犯人が第1薬を平然と飲んだこと、他に失敗した例があること、後にアメリカ軍がこれを研究し実用化の段階まで進めていること、などである。
吉永の主張は、「731部隊とは直接関係がないアメリカ軍による人体実験である」、というものだった。実際、日本ではこの分野の化学兵器の研究は行われておらず、酵素の研究が進んだのは戦後のことである。
ただし、この説でも、この時点では酵素の研究がそこまで進んでいたのか、人体内での反応が安定して起きるのか、容器に使われた茶碗からは青酸化合物が検出されていない理由はどうなるのか、もし人体実験のデータ収集が目的ならなぜわざわざ都内の市街地という目立つ場所を選んだのか、などさまざまな疑問が残る。
731部隊が開発した毒薬説
共産党の志賀義雄が1962年に国会の法務委員会で主張した説である。志賀は、1948年の帝銀事件と、1958年に南ベトナムで起きたフーロイ収容所虐殺事件(ベトナム戦争#反政府勢力の掃討作戦)で使われた毒薬は同一で「青酸カリによく似ておるが、青酸カリでない、新しいものであり、それは石井部隊(731部隊)によって作成され」たものだ、と述べた[85]。再審弁護団の見解
帝銀事件再審弁護団に第19次の時から参加した弁護士の渡邉良平は、犯人が使用した第1薬と第2薬の組み合わせについて、- 青酸化合物(青酸カリ)+ 水 (判決が認定した説)
- 薄い青酸化合物 + 水 (九研にいた伴繁雄が裁判で証言した説)
- アセトンシアンヒドリン(旧陸軍で研究された毒物) + 水
- 青酸配糖体(アミグダリン等)+ 酵素 (吉永春子が提起)
- 青酸化合物 + 酸(塩酸など)
- 酸(塩酸など)+ 青酸化合物
渡邉によると、帝銀事件の死亡者の血中青酸濃度が異常に高かったことから、帝銀事件で使用された毒物は青酸カリではなく、青酸イオンが分離しやすい特殊な青酸化合物ないし特殊な手法であった可能性がある。再審弁護団は、専門家の協力を得てブタによる動物実験を行い、帝銀事件の使用毒物は青酸カリではなかったという医学的分析をふまえた鑑定書を、第20次再審請求の新証拠として準備中である。