帝銀事件② | 全曜日の考察魔~引越し版

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裁判とその後

裁判で無罪を主張

1948年12月10日より東京地裁で開かれた第1回公判において、平沢は自白を翻し、無罪を主張した。
1950年(昭和25年)7月24日、東京地裁刑事第9部(1審)で死刑判決(裁判官は江里口清雄、横地恒夫、石崎四郎)。
裁判長の江里口は慎重で良心的な法曹だった。彼は審理にあたり「一般市民は被告人の自供があるからと言っているが、はなはだ危険」という旨を述べ、慎重な態度で平沢をじっくり尋問し、録音テープを何度も聞き返すなどした。1年7ヶ月をかけ、60 回におよぶ公判の末に判決を出した。江里口は後年、最高裁判所判事に就任した時に「帝銀事件以外に死刑判決を出したことはない。あの事件に比べると、どんな事件にもどこかに救いがある」と述懐した。国会で議員の羽仁五郎が、帝銀事件の裁判をひきあいに出し、有罪の証拠がないのに国民が有罪判決を受ける可能性は本当にないのか、と問いただすと、江里口は「証拠が足りないということであれば、疑わしきは被告の利益に従うという原則に従って、無罪の判決をいたすべき」「証拠不十分のままに有罪を言い渡すということは、裁判官としてあり得ざること」と持論を述べた。
1951年(昭和26年)9月29日、東京高裁第6刑事部(2審)で控訴棄却(裁判官は近藤隆蔵、吉田作穂、山岸薫)。
1955年(昭和30年)4月6日、最高裁大法廷(第3審)上告棄却(裁判官は田中耕太郎ら14名)。平沢の死刑が確定した。
帝銀事件の捜査は旧刑事訴訟法・応急措置法のもとで行われたが、帝銀事件の裁判は戦後の日本国憲法のもと、被告人の権利と証拠を重んずる新刑事訴訟法にのっとって行われた。
帝銀事件の審理にGHQが圧力を加えたとする主張もあるが、平沢の死刑が確定した最高裁判決は GHQが1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ平和条約で消滅してから3年も後である。

死刑確定後

平沢が逮捕されて以来、平沢の妻子と幼い孫は、世間からの心ない迫害と、マスコミの非常識な取材攻勢にさらされた。平沢の家族は平沢姓を捨て、素性を隠して生きることを余儀なくされた。

1962年(昭和37年)、作家の森川哲郎は「平沢貞通氏を救う会」を立ち上げ、平沢の無実を立証するための再審請求、死刑執行の阻止などの活動に取り組んだ。森川は趣意書(1962年6月28日)で「私たちの運動は、平沢貞通氏が白であるとか黒であるとか、個人や局部に限定された単純な運動ではない」「この運動は、自覚した民衆が立ち上がって、権力のおかした一つの誤判事件に抵抗していく過程の中で、民衆の意識の中に、自らの人権を確立し、民主主義を深く把握し成長させていくという意義をもっている」と政治的な意義を強調した。平沢の家族は「救う会」の活動とは距離を置いた。

支援者らは、「平沢の供述は、拷問に近い取り調べ(ただし平塚八兵衛は関与していない)と、狂犬病予防接種の副作用によるコルサコフ症候群の後遺症としての精神疾患(虚言症)によるものであり、供述の信憑性に問題がある」「大村徳三博士の鑑定によれば、死刑判決の決め手となった自白調書3通は、取調べに関与していない出射義夫検事が白紙に平沢の指紋を捺させたものである」などと主張して、裁判所に再審請求を17回、法務省に恩赦願を3回提出したが、その都度、却下された。
平沢の生前に行われた再審請求は18回におよぶが、第1回と第2回は平沢が獄中から単独で起こしたもので、第3回から第17回までは何とか平沢の死刑執行だけを阻止しようとして出されたもので平沢の無実を示す証拠はあまり提出されず、第18回は再審の管轄権がない東京地裁に提出してしまったため門前払いを受けた。平沢の死後も第19回と第20回の再審請求が行われた。
1968年(昭和43年)に再審特例法案が国会に提出。この法案は、連合国軍領下の裁判で死刑が確定した死刑囚に再審の道を開くことを目的としたものであったが結果的に廃案。翌年以降、法案提出を契機として中央更生保護審査会により平沢ら7人の恩赦が審査されたが、拘禁性精神病にかかった受刑者などに無期懲役への減刑が行われたのみで、平沢のおかれた状況に変化はなかった。
帝銀事件の捜査本部の内部の対立は、判決確定後もずっと尾を引いた。
名刺班だった居木井為五郎と平塚八兵衛、主任検事をつとめた高木一らは、後年のインタビューや手記等でも平沢クロ説を曲げなかった。
高木は後年のインタビューで、「公判は、そうもめることもなかったのですか」という質問に対し、自信満々に「実態については、審理にたずさわった人は、誰も不審をもっていません。記録をみればわかりますが、傍証も、物証もあります。(犯人が帝銀事件の犯行現場に持参した)注射器具を入れたケースもありますし、薬物を茶わんに入れるとき使ったスポイトも、入手先はわかっているし、犯行のとき使った山口二郎の名刺も、印刷所はわかっています」と述べた。
居木井(1993年6月15日に87歳で死去)は1986年に「俺は平沢が死刑になればいいと思ったことは一度もないよ。自分の手掛けた人間が死刑になるのは、とってもヤなことなんだよ」「かわいそうだけれどね。率直に言って平沢は犯人ですから・・・。私自身、平沢が冤罪じゃないかと心配になったことも、疑問を持ったことも、一度もありません」と述べた。
一方、捜査二課で自称「秘密捜査班」だった成智英雄は、731部隊の軍医説を公表した。捜査一課係長で配下の名刺班に手を焼いた甲斐文助は、引退後の晩年、捜査の主流だった旧軍関係者筋の調査に関する膨大なメモ(『甲斐捜査手記』通称「甲斐メモ」)を民間にリークした。「甲斐メモ」は1989年に平沢の支持者らが提起した第19次再審請求で新証拠として裁判所に提出されるなどしている。
平沢は獄中で3度自殺を図ったが、すべて未遂に終わった。
日本画の大家である横山大観の弟子だった平沢は、死刑確定後も獄中で、支援者だった宇都宮市の洋品店店主から画材の差し入れをうけて絵を描き続けていた。
松本清張・小宮山重四郎などの支援者が釈放運動を行った。
1962年(昭和37年)に、俗に「仙台送り」と言われる宮城刑務所に移送された。この後支援者らの説得で平沢は恩赦を求めたが棄却された。タイム誌は東北に送ることで環境を悪くし自然死を早めようとしているのではないかと報道した。
宮城への移送は当時「死刑推進派」と目された衆議院議員中垣國男が法務大臣に就任した4ヵ月後に行われた。
1965年(昭和40年)3月15日、画商のNと当時の「平沢貞通氏を救う会」事務局長が東京地検によって逮捕・起訴される帝銀偽証事件が起きた。平沢が事件直後に預金した出所不明の金について、「救う会」による再審請求にあたり、Nが東京高裁において宣誓のうえ、昭和22年の10月末か11月上旬頃、平沢の自宅で絵画16点を15万円で買い受けたと証言した。が、東京高裁第六刑事部はこれを偽証と認定し、2人は逮捕され有罪判決を受けた。
帝銀偽証事件で「平沢貞通氏を救う会」と画商Nの虚偽が明らかになった理由は、平沢の妻と長女が嘘の口裏をあわせず真実を語ったためで、その経緯は「東京高等裁判所 昭和37年(お)10号 決定」(裁判長判事・兼平慶之助、判事・関谷六郎、判事補・小林宣雄)に詳しい。帝銀偽証事件について、後に「救う会」弁護士の遠藤誠は「森川哲郎さんに対する弾圧」「哲郎さんを殺した者は、東京地検と東京高裁・最高裁という名の国家権力そのものである」と批判した。平沢を取り調べ自白に追い込んだ主任検事(当時)の高木一は、帝銀偽証事件について「あの事件は、被告が悪いというのではなく、一つの時代的風潮でしょう。人権尊重という主張で、ああいうことはありうることでしょう」と一定の理解を示した。
1974年(昭和49年)11月15日早朝、平沢は心臓発作で東北大学附属病院へ移送された。26年ぶりの出獄だった。当時まだ日本全国で12箇所しかなったICUに入れられ、岩月賢一教授ら12人の医師団から最高レベルの治療を受けた。快復して1カ月半後に宮城刑務所仙台拘置支所に戻り「病院は拘置所より悪い。自由に絵をかかせてくれない。絵をかきたいから戻ってきた」と語った。
同じ1974年(昭和49年)11月、NHKテレビは「死刑囚平沢貞通」を放映し、「平沢貞通氏を救う会」や帝銀事件の生存者の声を紹介した。帝銀事件で殺された被害者の遺族は、その番組を見て激怒した。
事件で夫を殺され女手ひとつで遺児を育てあげた女性は「テレビのドキュメントを見て、思い出したくないことを考えさせられました」「平沢の絵を見て、悪いことのできない人だと言った人がいたことです」「無心に絵をかく彼と、他人の生き血を吸う彼と、両面あると思います。むしろ、十数人殺したという罪の意識から逃れようとして、絵に打ち込んでいるのではないでしょうか」云々と朝日新聞の読者欄に投書したが、黙殺された。
別の遺族の男性は偶然、NHKの番組を母親といっしょに見て「〝平沢を救う会〟という連中が、ああだこうだと言ってることは、どうにも腹に据えかねるんです。/一体、遺族のことはどうしてくれるんだ、という気持ちなんです。父は殺されっぱなしで、なんの補償もないんですよ。彼ら、売名行為であんなことをやっているんでしょうかね」と怒り、母親も「平沢を援助する会とかいうのに対しては、なんともやり切れない感じがします。殺されたほうにはなんの助けもなく犯人だとされている人間を助けようとする・・・矛盾していると思いますね」と述べた。ちなみに、日本で犯罪被害給付制度が公布されたのは1980年5月1日である。
判決確定から30年が経過した1985年(昭和60年)に、支援グループは刑法31条に定められた刑の時効の規定(刑の確定後、一定期間刑の執行を受けない場合は時効が成立する)を根拠として平沢の死刑が時効であることの確認を求める人身保護請求を起こしたが、裁判所は「拘置されている状態は逃亡と異なり、執行を受けられない状態ではない」としてこれを退けた。
弁護団の団長:事実上の初代は正木亮(途中で主任弁護人を辞任)、初代は山田義夫、2代目は磯部常治、3代目は中村高一、4代目は遠藤誠、5代目は保持清が務めた。
かつて弁護人の正木亮が指摘したように、平沢が自分の無実を証明する方法は簡単だった。帝銀事件直後に預金した謎の大金の出所について、誰からいつもらったのか、真実をひとこと明かせば即座に冤罪を晴らすことができた。

しかし平沢はそれを語らなかった。弁護士や支援者だけに内々に打ち明けることもできなかった。

後年、平沢の長女はテレビ番組のインタビューで「(平沢が)シロにしろクロにしろね、あんだけ世間を騒がしたんですからね、やっぱり誰だっていい思いはしてませんよね・・・」と述べた。
最終的に、歴代法務大臣も死刑執行命令に署名しないまま、1987年(昭和62年)5月10日午前8時45分、平沢は肺炎を患い八王子医療刑務所で病死した。95歳没。

平沢死後と現在

平沢の死後も養子・平沢武彦(森川哲郎の実子)と支援者が名誉回復の為の再審請求を続け、1989年(平成元年)からは東京高等裁判所に第19次再審請求が行われていた。武彦は、糖尿病と躁鬱病をわずらい、また平沢の家族から疎んじられたことを悩み、5回の自殺未遂を起こした末、2013年(平成25年)10月1日に自宅で孤独死しているのを発見された。この為、2013年12月2日付にて東京高等裁判所が「請求人死亡」を理由に第19次再審請求審理手続きを終了とする決定を下した。
2015年(平成27年)11月24日、平沢の遺族が第20次再審請求を東京高裁に申し立てた。
平沢冤罪説に立つ発達心理学者の浜田寿美男は「帝銀事件というと平沢さんの事件と言われていますが、実はそうではない」と述べ、帝銀事件本体と、平沢貞通が疑われて巻き込まれた「平沢事件」は別の事件と位置づけられる、と主張する。

犯人像の謎

帝銀事件(および2件の未遂事件)の犯人像について、

  • 巧妙なプロ説: 犯人は毒殺の訓練を積み特殊な毒を使うことができたプロで、おそらく旧軍関係者
  • 稚拙な素人説: 犯人は毒殺の素人で使った毒は(当時は一般人でも入手しやすかった)青酸カリ

の2つがある。捜査本部の主流は前者で旧軍関係者を追っていたが、傍流であった名刺班が逮捕したのは後者の平沢貞通だった。

巧妙なプロ説

捜査本部の主流は、犯人はプロという線で捜査を行った。平沢冤罪説論者は今も、平沢のような素人には犯行は無理で、真犯人はプロだと主張する。
犯人は詐欺師的な巧妙な言葉づかいと、手品師のような手口で行員らに毒を飲ませた。
警察は、帝銀事件の犯人が第1薬を飲んでも平然としていたのは、手品のトリックを使った可能性があると考え、奇術と変装の専門家で旧軍の関係者でもあった柳澤義胤(よしたね)を容疑者として調べた。柳澤は戦時中、昭和18年(1943年)10月から陸軍登戸研究所に入所し、少佐待遇で奇術を戦略・謀略に利用する研究に従事していた。
これから目のまえの人々が悶死するのを知りながらもピペットを持つ手が全く震えないなど冷静そのものだった。
犯人は、毒殺に慣れた旧軍の特務機関員か、他人の痛みに対する共感も良心の呵責も全く感じないサイコパスの可能性がある。
平沢冤罪説を主張する再審弁護団は「犯人は、被害者が第一薬を飲んだあと第二薬を飲むまで1、2分間は死なないことを、あらかじめ知っていた。真犯人は平沢貞通のような毒の素人ではない。また使用された毒は即効性の青酸カリではありえず、平沢のような一般人には入手不可能な特殊な毒である」と主張した。
この主張は裁判所により、以下の理由で却下されている(以下「東京高等裁判所 昭和37年(お)10号 決定」の記述内容による)。たしかに、多数の被害者に同時に毒を飲ませることは必要である。もし毒をバラバラに飲ませたのでは、全員が飲み終らぬうちに先に飲んだ者が苦痛を訴えたり倒れたりして、あとの者は警戒して毒を飲まず、犯人は目的を達せられない。そこで犯人は、全員に一斉に飲ませるための口実を考え、第一薬(実は毒)を飲んだあと一定の時間をおいて第二薬(実は水)を飲まねばならない、と嘘の説明をした。そのうえで、時間を正確にはからねばならないから、と時計を見ながら一斉に飲む合図をした。被害者は、その嘘にまんまと騙された。被害者の全員が同時に第一薬(毒)を口にした時点で、犯人の目的は達成された。つまり、犯人は「被害者が第一薬を飲んだあと第二薬を飲むまで1、2分間は死なないこと」を知っている必要は、全くなかったのである。もし仮に被害者が毒を飲んだ数秒後からバタバタ倒れ始めたとしても、犯人が金品を悠々と奪い去ったという結果は、変わることはなかったろう。
犯人は「詐欺のプロ」ゆえ、かえって旧軍の特務機関員とは考えられないとする主張もある。戦時中、中国大陸で特務機関の顔役だった人物は「銀行員というのは、人を見る目が肥えている。そういう方々が、〝医学博士〟といってきた犯人をうのみにして信じたからには、医学博士にふさわしい人柄だったのだろう。態度、振る舞いがだ」「しかし特務機関員というのは、内地で食いつぶしたようなものがほとんどだ。銀行員がどこから見ても医学博士にふさわしいと見るような、そんな人はいませんよ」と述べた。

稚拙な素人説

犯人が帝国銀行椎名町支店で成功したのは偶然の結果にすぎず、未遂事件も含めて犯人の手口を子細に分析すると、巧妙さよりむしろあらが目立つ、という説。つまり、平沢のような素人が犯人であると考えても矛盾はない、という説である。

安田銀行荏原支店

未遂。死者がでなかった理由について、第一審判決書(昭和25年8月31日、東京地方裁判所刑事第九部)は「青酸加里の分量が少な過ぎたため」の失敗とした。中村正明は純粋に化学的見地から、犯人が不純物を含む青酸カリをオキシフルで溶かしたため無毒化され番茶のような色になったと考えられること、犯人は毒物の知識がないシロウトであることを指摘した。
なお、第二審判決書(昭和26年9月29日、東京高等裁判所第六刑事部)によると、同支店の用務員だったK(判決書では実名)は「私は飲む気になれなかったので皆のするように飲む真似をして茶碗の中の液を手に注ぎ背後に廻して拭いてしまい、小使室に帰った。それから一応お巡さんに聞いてみようと思い、近くの交番へ行き」云々と証言した。犯人は飲むふりだけする人間がいた場合の対策をまったく想定していなかった。もし仮に毒の分量が充分であっても、確実に失敗し、逮捕は免れなかった。犯人がプロでなかったことがわかる。
事件発生当時、推理小説を連載中だった作家の坂口安吾は、エッセイ「哀れなトンマ先生」の中で帝銀事件は「まったく、偶然の成功ですよ」「一人のまない人間がいても、すぐ失敗する」と犯人の頭の悪さを指摘した。
荏原での未遂は失敗でなく「予行演習」だったと推測する説もあるが、もしそうなら、犯人はますますプロではありえない(プロなら事前に秘密の訓練や経験を積んでいるはずである)。

三菱銀行中井支店

未遂。居合わせた高田馬場支店長が「私はこの銀行の者ではないし、ちょっと来合わせただけだから」と断ったため、犯人は行員らに薬を飲ませることを断念して退散した。

帝銀事件椎名町支店

荏原と中井の未遂事件で2回も失敗を重ねた犯人は、こりずに同様の手口で、しかも中井の近隣である椎名町で犯行を行い、3度目にようやく成功した。椎名町支店では、偶然、飲むまねだけする者も、断る者もいなかったからである。
坂口安吾は前述のエッセイで「もしも椎名町で、殆ど有りうべからざる偶然の成功がなければ、恐らく、この先生はむなしく数十軒の銀行を遍歴し、その度毎に新手の術を会得しつゝ永遠に遍歴しつゞけたかも知れません。その程度にトンマな先生のように私は思いました」「一人のまない人間がいても、すぐ失敗する。/たまたま一人便所にいても失敗する。外から誰かが這入ってきても失敗する。オレは、もう、昨日チブスの注射をしたんだい、という給仕が現れてもダメなのであります」「翌日小切手を受取りに行くのもズブトイというより、トンマ、マヌケ、なのです。バカモノなのです」「私は、この犯人は、マヌケからマグレ当りに成功し、マグレ当りだから、警察が、なかなか、つかまえられないのだと思っていました」と、早い段階で指摘した。
犯人がもし毒殺のプロなら、自分の顔を見ている生存者を4人(事件直後、近くの交番の巡査がかけつけた時点での生存者は6人)も残すという失敗を犯した理由は、謎である。旧陸軍の毒殺兵器のプロは、帝銀事件の犯人は「技術達者な者とはいえない。だから生存者ができた」「よく青酸カリの特徴を研究した大家か、もしくは全然素人」と指摘している。

GHQの影

占領下で発生した帝銀事件の捜査にはGHQが大きく関与していた。その関与の度合いについては、

  • 協力説:GHQは日本の警察の捜査に協力はしたが、圧力や介入はなかった。
  • 介入説:GHQは旧731部隊の情報や要員を独占するため、警察の捜査に介入した。
  • 謀略説:帝銀事件そのものがGHQ内部の一部の者たちによる謀略活動であった。

など、さまざまな説が今も主張されている。
1948年(昭和23年)10月29日に行われた帝銀事件捜査本部打上げ式において、田中栄一警視総監は「本事件に対してGHQ公安課の絶大な御協力を頂いた」との挨拶を述べ、同事件捜査本部長であった藤田次郎刑事部長も「本事件発生直後から逮捕に至るまで、また逮捕後においても、最高司令部公安課当局(PSD)の懇切な指導と援助を賜った」、「公安課のイートン主任警察行政官の指示で作成したモンタージュ写真が、平沢逮捕の上で有力な手がかりとなった」との内容の挨拶を述べている。この式にはGHQ公安当局の担当者も出席しており、占領下で発生した帝銀事件の捜査にGHQが大きく関与していたことが伺える。

介入説

平沢冤罪論者の一部(全部ではない)が主張し、帝銀事件関係の出版物や記事などでも人気がある説である。
介入説では、捜査本部は旧731部隊の関係者を洗っていたが、細菌兵器の情報を独占したいGHQが捜査本部に731部隊の捜査を中止するよう内々に命令した、そのため731部隊と関係のない平沢貞通が逮捕されたとする。作家の松本清張は『小説帝銀事件』や『日本の黒い霧』の中で、推理と想像を交えてGHQによる圧力や介入を描いた。清張の原作にもとづいて昭和期に作られた映画やドラマでは、あたかも事実であるようにそれらのシーンが描かれ、また平沢冤罪説論者の一部もGHQ介入説を主張したため、一般の認知度は高い。が、実際には、GHQが日本の警察に圧力をかけ旧軍関係者の捜査を打ち切らせたのかどうかは、下記のとおり確実な資料では確認できず、学界や法曹界での通説とはなっていない。
また、平沢の三女のボーイフレンドだった進駐軍のエリー軍曹は、平沢の家族の証言によると事件当日に平沢家を訪れており、平沢のアリバイを証言できたので、弁護側はエリーを証人として申請したが、裁判所はなぜか許さなかった。これもGHQの圧力があったとする主張がある。

協力説

GHQの協力はあったが、介入や圧力はなかったとする説である。裁判所の公式見解(後述の「東京高等裁判所 昭和56年(お)1号 決定」参照)でもある。 当時の関係者の証言や一次資料によると、捜査本部は最後まで(平沢逮捕後もしばらくのあいだは)旧陸軍の特務機関筋の捜査を続けていたことが確認できる。
捜査一課係長・甲斐文助の「甲斐メモ」(『甲斐捜査手記』)を読むと「平沢逮捕当日も,警察は旧軍関係者を追っていたことが分かります。平沢が小樽から東京へ移送された8月23日の捜査手記には『関係者面通しにより犯人と断定する者なし』,翌日は『殆ど全員傍証固めにより黒白を決するため終日努力するも決せず』とあり,警察が確証を持って平沢を逮捕したわけではないことがわかります」(明治大学平和教育登戸研究所資料館・企画展「帝銀事件と登戸研究所」資料)。
平塚八兵衛は「一部に、捜査本部が特務機関を捜査してたのが、一挙に平沢に転換した、といわれたが、それは捜査の実態を知らねえからだ。吉展ちゃん事件のときもそうだったが、必ず捜査内部の対立があるもんだ。それを外部に公表できねえから、誤解されるわけだ」と述べている。居木井為五郎も、捜査本部は平沢逮捕後も旧軍関係者犯人説だったと証言している。ちなみに平塚の回想にもとづいて作られた2009年に放送されたテレビドラマでは、GHQの介入は描かれていない。
逮捕後の平沢の取り調べを独占的に行った検事の高木一は、米国人ジャーナリストの取材に対して、GHQは捜査に介入したことはなく実際には「協力」してくれたのだ、と述べたうえ、藤田次郎刑事部長らとともにGHQの監視ぬきで731部隊の石井四郎から事件と犯人像についての意見を聞いた秘話を明かした。高木もまた、捜査本部が平沢逮捕時も旧軍関係者を追っていたことを以下のように証言している。「八月ごろになって、名刺の線を追っていた居木井為五郎警部の方から平沢が出てきたわけです。そのころ、警視庁が二つに割れていましてね。平沢説が居木井班で、もう一つは鈴木清君の班で軍の関係者という見方でした。居木井君は、巻き物みたいなものに、二八項目の容疑事実をあげて持って来ました。警視庁の藤田刑事部長は、私の大学の同期だったのですが、『困ったことになった』と話していました」「逮捕する段階でも、シロともクロとも断定していたわけではありません」「クロの意見をもっている者に捜査をやらせるとクロの捜査資料しか持ってこないし、シロの意見の人の場合もシロしか集めない傾向がなきにしもあらずです」「居木井君の班は、平沢逮捕後は捜査班からはずし、証拠の整理をしてもらったんです。そして、シロ説をとる者に全力捜査をさせました」。
平沢冤罪説論者のあいだでも、1948年当時の実情を知る者たちはGHQ圧力説に否定的である。
731部隊関係者真犯人説を追い続けた読売新聞の竹内理一はリアルタイムで第一線で取材にあたった当事者として、捜査二課「秘密捜査班」(通称)の「成智(英雄)が旧七三一部隊関係者の捜査をやめるよう(GHQから)圧力を受けたという憶測が流れたが、これは真実ではない。同様に、読売新聞の記者たちが旧七三一部隊員の調査から手を引くよう(GHQから)命令を受けたという噂も、事実ではない」とGHQから捜査や報道に圧力があったとする説はゴシップにすぎないと否定した。
真犯人は平沢ではなく旧731部隊関係者であると主張した成智英雄は、自分は731部隊関係者の怪しい容疑者を全員調べたと豪語した。もしGHQの圧力で捜査を途中で中止されたなら、全員を調べることは不可能だったはずである。
裁判所もGHQ介入説の矛盾を指摘している。平沢貞通の再審弁護団による第17次再審請求を棄却した「東京高等裁判所 昭和56年(お)1号 決定」の中で、裁判所は「満七三一部隊を含む旧軍関係の捜査は請求人(平沢貞通)の検挙の時まで続行されていたのであって、GHQの命令で満七三一部隊関係の捜査が打ち切られたことを示す証拠は」どこにも存在しないこと、再審弁護団の主張のうち「GHQの命令で731部隊の捜査は途中で打ち切りになった」と「捜査二課の成智英雄は731部隊の全員を最後まで調べあげ真犯人は平沢ではなくS中佐(原文では実名表記)であるとつきとめた」の2つは矛盾していること、を指摘した。

毒物の謎

遺体解剖や吐瀉物や茶碗に残った液体の分析は、東京大学と慶應義塾大学で行われたが、液体の保存状態が悪く、青酸化合物であることまでは分かったものの、東大の古畑種基と慶大の中舘久平の鑑定が食い違い、100 %正確な鑑定結果は出ていない。
検視結果が東大と慶大で違った理由については諸説がある。平沢冤罪説・謀略説に立つ松本清張らは、使用毒物の正体を知られたくなかった国家やGHQが東大に秘密裏に圧力を加えたからだ、と推測する。

いっぽう、医化学的にみれば、現場の警官が機転をきかせ赤みがかった遺体6体を東大に、黒ずんだ遺体6体を慶大に送ったため必然的に東大と慶大で検視結果が食い違ったにすぎず、何の不思議もない、という指摘もある。青酸カリも含めて、青酸化合物は被害者の胃液と反応することで毒性を発揮する。被害者の胃酸のpH(ペーハー)が正常値であればショック死して遺体は赤みがかり、胃酸のpHが低ければ窒息死して遺体は黒ずむ。東大は前者を検視し、慶大は後者を検視したため、結果も違ったとされる。

青酸カリ説

平沢貞通に死刑を宣告した第一審判決書(昭和25年8月31日、東京地方裁判所刑事第9部)では、理系の専門家の意見も採用し、使用毒物を「青酸カリ」と認定した。犯人は第1薬として青酸カリを、第2薬として水を飲ませた、とされる。この判決は今もくつがえっていない。が、帝銀事件関係の本や記事では、青酸カリ説を疑う声が今も多い。
裁判所が判決で採用した「青酸カリ」説は、純粋な青酸カリウム(KCN)ではなく、事実上、青酸ナトリウム(NaCN、別名「青酸ソーダ」「シアン化ナトリウム」「青化ソーダ」)や炭酸カリウム(K2CO3)との混合物で毒性もいくぶん弱い「市販のいわゆる青酸カリ」を想定している。
事件発生の直後に現場の被害者を検視した古畑種基は「おそらく青酸カリ、ないしは青酸ナトリウムなど青酸化合物によるもの」と述べた。
古畑は、帝銀事件の犯人が使ったのは「古い風化した青酸カリ」だったと推定した。被害者は嘔吐するなど純粋な青酸カリ中毒とは違った症状を見せた。その理由は、青酸カリの一部が空気と反応して炭酸カリになっていたためである。
青酸カリをなめただけで一瞬で死ぬというのはフィクションの中だけのことで、実際には青酸カリを飲むと胃の中で胃酸と反応して猛毒の青酸ガスが発生し、このガスが食道を抜けて肺に到達すると死ぬ。その間の時間、被害者は生きている。青酸中毒死の実例を見ると、死ぬまでの時間はたいてい2分後から25分後のあいだであり、中には7時間44分後に死亡した例もある。青酸化合物を口にすると数秒以内に必ず死ぬという小説や映画の描写はフィクションである。
中村正明は著書の中で、当時の調査結果から毒物は青酸カリウム(シアン化カリウム)と推定できること、一般に即効性と思われている青酸カリウムでも帝銀事件のような情況を引き起こしうること、安田銀行荏原支店での未遂を失敗と考えるなら犯人は薬学についてシロウトであること、を検証している。
青酸カリの入手経路について、平沢を取り調べた検事の高木一によると、調査の結果、犯行に使われたのは満洲から引き揚げてきた平沢の近親者が持っていた自殺用の青酸カリと判明し、その分量までわかっていた。
戦争末期には外地や戦地の民間人が自決用の青酸カリを持っているのは普通で、終戦前後には集団自決も多発している)。取り調べで平沢は青酸カリの入手先についてあれこれ嘘を並べた。高木は平沢の嘘を一つ一つ、つぶした。すると平沢は最後に「(『レ・ミゼラブル』の)大僧正のご慈悲をお願いします」と哀願した。娘を巻き込みたくない、という平沢の「最後の父性愛」を感じた高木は、あえて最後まで追求しなかった。このため、後に平沢冤罪説論者から「青酸カリの入手先もはっきりしていない」と言い立てられることになった。刑法学者の植松正は、この件を高木一に電話で確認したうえで、植松の知人女性も占領軍兵士から性的暴行を受けた場合に備えて終戦後も自決用の青酸カリを持ち続けていたことを明かし、高木の話を肯定している。
当時の日本では青酸カリは誰でも買える安価な薬剤であった。1935年の浅草青酸カリ殺人事件の被害者も即死ではなく、倒れるまで一定の時間がかかっている。
陸軍登戸研究所で毒物の研究開発に従事した伴繁雄は、平沢は冤罪で真犯人は旧陸軍の関係者であると主張する一方で、使用毒物については専門家の立場から「一般市販の工業用青酸カリ」と断言している。
帝銀事件後、警察から話を聞かれた石井四郎は「青酸加里は分量により時間的に生命を保持させられるか否か出来る。致死量多くすればすぐ倒れる。分量により五分̶̶八分、一時間三時間翌日、どうでも出来る(之は絶対的のものである)」[75]と、もし青酸カリであってもプロが精確に分量を調整すれば遅効性の毒として使えることを専門家として証言した。このとき石井は、ソ連に包囲されたときの自決用にドラム缶半分くらいの青酸カリを軍医中尉2人に分け与えたこと、犯人は「俺の部下にいるような気がする」という心証も刑事に述べている。

アセトンシアノヒドリン説

平沢冤罪論者の一部は、帝銀事件で使われた毒は日本陸軍が秘密裏に開発したアセトンシアノヒドリンという特殊な薬であり、毒とも軍とも関係がなかった平沢がこの毒薬を入手できたとは考えにくい、と主張する。以下、日本語では、アセトンシアノヒドリンは「アセトシアノヒドリン」、青酸ニトリルは「青酸ニトリール」など表記のゆれがあることに注意されたい。

読売新聞とGHQ

当時、読売新聞の記者・竹内理一は、陸軍9研(登戸研究所)でアセトシアノヒドリン(青酸ニトリル)という薬を開発していた事実を突き止めた。竹内によると、この薬は防諜名ニトリールといい、昭和十七年ごろ神奈川県稲田登戸にあった当時の陸軍第九研究所二課T大尉によって発明されたもので、この薬の特色は、青酸系毒物としては、効き目が遅い点にあった。致死量二cc(ニトリール分のみ)で大体服用後三分から七分の間に倒れるようになっている。薬物の使用目的は大量毒殺、集団自決などが主であった。いずれも先に倒れるものがてて、あとのものがおじけづかぬよう考えられたものである。
さらにこの薬の特色は、服用後は胃の中で青酸分のみが分離するため、青酸分は検出できるが、ほかの薬は反応がないという。
つまり、青酸反応が認められ、青酸系毒物とはわかるが、それから先はわからないという点にある。
しかし突如、警察の捜査が731部隊から大きく離れた時点で、報道も取材の方向を転換せざるをえない状況になり、731部隊に関する取材を停止した。 後年、GHQの機密文書が公開され、1985年(昭和60年)、読売新聞で以下の事実が報道された。

  • 犯人の手口が軍秘密科学研究所が作成した毒薬の扱いに関する指導書に一致
  • 犯行時に使用した器具が同研究所で使用されていたものと一致
  • 1948年(昭和23年)3月、GHQが731部隊捜査報道を差し止めた。

ただし、アセトシアノヒドリンであっても事件の経緯からすると謎が残る(少なくとも5分は経過していると思われる)。もし効能や致死量を熟知したプロの犯行なら、生存者を4人も出すという失敗(事件発覚時の生存者は前述のとおり6人)を犯した理由を説明する必要がある(生存者が証言者になることはわかりきっている。もしアセトンシアノヒドリンなら、犯人は致死量を余裕で超える量を投与して全員を毒殺できたはずである)。

余談ながら、アセトシアノヒドリン説・平沢シロ説を追い続けた読売新聞の竹内理一記者は、帝銀事件のあとの1948年11月、生き残った4人のうちの1人であるMと結婚した(Mは竹内姓に改姓)。事件の当日、犯人の顔を正面から見たMは、法廷でも、平沢を犯人とは思えない、と証言した。Mの証言は夫の仕事とも夫の論拠とも無関係であったが、高木や世間は、Mの否定的証言は夫の影響にちがいない、とあらぬ疑いをかけた。
竹内理一は平沢冤罪説を主張したが、その竹内さえ以下のように述べている。「私はだからといって平沢が〝白〟だともいい切れないのである。平沢と松井名刺との結びつき、事件後の平沢の行動、はっきりしない金の入手先など、平沢をめぐるモヤモヤとしたものは私にも説明がつかない」「不思議な毒薬や、巧妙なトリック、毒殺部隊などというのは探偵趣味ごのみの新聞記者が勝手に描いた幻想かも知れない」。

伴繁雄の「変節」

捜査本部が旧軍関係者を中心に調べていた1948年4月、伴繁雄(登戸研究所の関係者)は捜査員に対し、過去に自分が行った人体実験をふまえ「青酸カリとは思えない。絶対ニトリールである」と述べたとされる。ただし法廷での証言では、伴は専門家として、毒物は青酸カリだったと断言している。
昭和24年(1949)12月19日の証人尋問で、伴は毒物科学捜査会議の結論について「毒物は、純度の比較的悪い工業用青酸カリで、入手の比較的容易な一般市販の工業用青酸カリであると断定しました」と述べ、裁判長から「本件毒物がアセトンシアンヒドリンとは考えられないか」と念をおされると、伴は「アセトンシアンヒドリンは無色無味無臭で水と同じのため、犯人が飲ませる際に飲み方について説明する必要はないはず」と答えた。
登戸研究所で青酸ニトリール開発主任だった土方博は、すでに1948年6月22日の時点で捜査員に対し「嘔吐することは青酸カリでもニトリールでも普通である。青酸カリは苛性ソーダのような刺激の味があるので、帝銀事件で呑ませたとすれば、味から言って、青酸カリではないかと思う。ニトリールは青臭い臭いはするが味はない。ニトリールの症状はカリよりも症状を出すのが遅い」と証言している。

バイナリー方式説

次にあがったのが、安定した(人間に毒性を持たない)シアン化物(シアン配糖体)と、その成分を毒性化する酵素の2薬を使用した、バイナリー方式と言うもので、ジャーナリストの吉永春子が自著の中で言及した。シアン配糖体は身近な食用植物に含まれている。また、これにより発生するのはシアン化水素で、体内の水分と結びつくことでシアン化水素水溶液となる。このシアン化水素は一般に入手可能なシアン化化合物より遥かに毒性が強い。
この吉永の説は、従来の731部隊犯説を大きく覆すもので、一定の説得力があった。犯人が第1薬を平然と飲んだこと、他に失敗した例があること、後に米軍がこれを研究し実用化の段階まで進めていること、などである。
吉永の主張は、731部隊とは直接関係がない米軍による人体実験である、というものだった。実際、日本ではこの分野の化学兵器の研究は行われておらず、酵素の研究が進んだのは戦後のことである。
ただし、この説でも、この時点では酵素の研究がそこまで進んでいたのか、人体内での反応が安定して起きるのか、容器に使われた茶碗からは青酸化合物が検出されていない理由はどうなるのか、もし人体実験のデータ収集が目的ならなぜわざわざ都内の市街地という目立つ場所を選んだのか(もし仮に軍政下の沖縄の住民や在日米軍基地内の日本人従業員を犠牲者にすれば、米軍の病院に搬送し遺体解剖や治験のデータを収集できたはずである)、などさまざまな疑問が残る。

731部隊が開発した毒薬説

共産党の志賀義雄が1962年に国会の法務委員会で主張した説である。志賀は、1948年の帝銀事件と、1958年に南ベトナムで起きたフーロイ収容所虐殺事件(ベトナム戦争#反政府勢力の掃討作戦)で使われた毒薬は同一で「青酸カリによく似ておるが、青酸カリでない、新しいものであり、それは石井部隊(731部隊)によって作成され」たものだ、と述べた[85]。

再審弁護団の見解

帝銀事件再審弁護団に第19次の時から参加した弁護士の渡邉良平は、犯人が使用した第1薬と第2薬の組み合わせについて、
・青酸化合物(青酸カリ)+ 水 (判決が認定した説)
・薄い青酸化合物 + 水 (九研にいた伴繁雄が裁判で証言した説)
・アセトンシアンヒドリン(旧陸軍で研究された毒物) + 水
・青酸配糖体(アミグダリン等)+ 酵素 (吉永春子が提起)
・青酸化合物 + 酸(塩酸など)
・酸(塩酸など)+ 青酸化合物
の諸説を挙げて説明したうえで「弁護側としては,これが間違いなく犯行毒物だといえる毒物は,少なくとも現段階の証拠ではいえない」ものの「弁護団としては青酸カリと水だというこの判決認定は,これ自体は間違いだと確信しています」と根拠を挙げて述べている。
渡邉によると、帝銀事件の死亡者の血中青酸濃度が異常に高かったことから、帝銀事件で使用された毒物は青酸カリではなく、青酸イオンが分離しやすい特殊な青酸化合物ないし特殊な手法であった可能性がある。再審弁護団は、専門家の協力を得てブタによる動物実験を行い、帝銀事件の使用毒物は青酸カリではなかったという医学的分析をふまえた鑑定書を、第20次再審請求の新証拠として準備中である。

真犯人として指摘されている人物

平沢冤罪説では、さまざまな真犯人像が語られてきた。ただし「平沢貞通氏を救う会」の平沢武彦(平沢貞通の養子)は「真犯人説を追いかけるのは、もう一つの冤罪を生む」と戒めた。以下、今まで語られてきた真犯人説の一部を掲げる。
やはり平沢貞通が犯人だが、実情は判決とは違うという説。「複数犯人説」(平沢は従犯ににすぎず主犯は別にいる)や「平沢部分関与説」(稚拙な未遂事件は平沢のしわざだが帝銀事件はプロの別人の犯行だった)、「犯行忘却説」(平沢はコルサコフ症候群のため犯行の記憶を消失し自分も本気で冤罪と信じた)なども含む。

  • 千葉県居住で1954年(昭和29年)に死去した医師H説。平沢貞通と弁護団が主張。読売新聞の竹内理一記者の回想によると、弁護団長の磯部常治は真犯人はHだと確信しており、竹内の妻(帝銀事件の生存者の1人)が「平沢のほうが、この人よりずっと犯人に似ている」と答えても、磯部は「間違いなくこれが犯人ですよ」と何度も食い下がった。また磯部は、その医師がすでに故人となっていたため、霊能力者に「心霊調査」を依頼した。
  • 陸軍中野学校出身の特務機関員説。平沢逮捕後もしばらくのあいだ捜査本部の主流はこの線だった。
  • 平沢の獄死直後の5月25日、捜査本部の刑事に協力した伴繁雄がテレビに出演し、真犯人は平沢でなく、元陸軍関係者と強調していた。
  • 731部隊の軍医・中佐説。捜査二課だった成智英雄は、後年に雑誌に発表した手記で、平沢は冤罪であり真犯人は旧軍の軍医中佐で医学博士のSであると主張した。成智は手記でS(原文では実名)という姓のみを書いたが、成智の賛同者はS中佐の姓と個人名の両方を実名で明かした。このS中佐犯人説は今日では否定されている。以下は成智英雄の手記からの引用である。
  • 「私は事件が起こってすぐ、二月一日から藤田刑事部長直属の特命捜査官で、課長にもその捜査内容を報告しなかった。従って、私の報告書は一枚も残されていないはずである。いま私が持っている捜査記録が、唯一のものである。(中略)私は軍関係の佐官クラス以上の者約三百人と対談している。その誰もが、犯人はいろいろな面からみて、軍関係者以外にはいないと断言した。」
  • 「アリバイその他で、犯人と認められる者は、結局、医博S軍医中佐(当時51)ただ一人となった。(中略)ところが中佐は昭和二十四年に死亡。けっきょく死人に口なし。」(※Sは原文では姓のみの実名表記)
  • 東京都内在住のある歯科医が真犯人とする説。上掲の複数の説と重なる部分がある。
  • 捜査が731部隊に及んだころ謎の自殺を遂げたN。捜査本部の係長の記録(いわゆる「甲斐メモ」)にも記されている人物。作家の近藤昭二が、テレビ番組「毒の伝説・帝銀事件46年目の真実」(朝日放送『驚きももの木20世紀』1994年11月25日放送)の中で紹介。
  • 事件から6年後の1954年(昭和29年)、茨城県内で青酸を使用した大量殺人事件が発生した。この手口が保健所を名乗り毒物を飲ませるという帝銀事件と酷似したものだったことから弁護人が調査の為に現地入りしたが、逮捕された容疑者が服毒自殺してしまったため調査も進展しなかった。

 

自白をめぐる謎

平沢は1948年8月21日に逮捕後、警視庁での送致前の取り調べでいったん自白(幻の自白)、送致後の検事による取り調べでは当初は否認、後に自白、後に再度の否認、と二転三転した。

幻の自白

8月23日夜、東京に到着して最初の夜の、送致前の取り調べで、平沢は犯行を自白したとされる。最初、平沢は、謎の大金の入手先について次々と嘘を並べたてた。担当刑事の居木井為五郎は、事前に綿密に調査していたので、嘘は全て通用しなかった。平沢は観念し「何とも恐れ入りました。申訳ありません。帝銀の犯行は私であります。御手数かけて申訳ありませんでした。本日は長旅でもあり疲れたので詳細は後に述べさして頂きたい」と自白したが、その直後に居木井らがはずされ、検事が直接に取り調べるという前例のない事態になったため、これは幻の自白になってしまった。
送致後に否認:検事の高木一による取り調べを受けた平沢貞通は、当初、帝銀事件および2つの未遂事件について自分が犯人であることを否認した。しかし、自分が偽名で預金した謎の大金の出所を、高木に説明できなかった。
自白の開始:1948年(昭和23年)9月23日から自供を始め、自分の犯行だと認めた。最後に10月8日と10月9日の両日、高木の上司であった検事の出射義夫が取り調べを行い、調書を取った。
再度の否認:裁判開始の直前、平沢は自白を撤回し、再び否認に転じた。本人は「確か11月28日、18日かな、確か8がついた筈ですが、やっと催眠術から醒めたのです」(内村・吉益鑑定の聞き取り)と述べている。裁判の開始後も平沢は否認を続け、死刑確定後も自分は冤罪であると主張した。
後に、平沢の弁護団は、高木による取り調べは拷問に近いもので、平沢の自白は強要ないし誘導されたもので証拠能力はなく、出射義夫による検面調書(検察官面前調書。検察官の目の前で被疑者がサインをした供述調書)は捏造であると主張したが、裁判所は棄却した。
以下、否認→自白→再度の否認、の流れを時系列順に示す。
1948年(昭和23年)8月21日:北海道の小樽で、名刺班の刑事・居木井為五郎らが平沢貞通を逮捕。
8月23日:東京の警視庁で、居木井らが取り調べる。平沢は自分が犯人だと自白したが、居木井はあえて自白調書を作成しなかったため「幻の自白」となった。後に居木井は法廷で「このようなこと(平沢が否認に転じたこと)になるなら、あの時、自白調書を作成して置き、秘かに今日まで保管しておけば良かったと思う位です」と証言した(居木井1955c [17], p.29)。
8月25日:平沢、自殺未遂。早朝、留置場内で、ガラスペンで左手静脈を突き刺す。
8月26日:検事の高木一による取り調べが始まる。警察をはずして、検察が独占的に取り調べを行うのは異例。平沢は否認。
高木は連日、朝10時ごろから昼食と夕食の1時間ぐらいずつ休み、夜の10時ごろまで平沢を取り調べ、その後は刑事を指揮して報告書を書いた。平沢が高木を「気分がおわるいのですか?」といたわることもあった[97]。
8月29日:高木、別件の「日本堂事件」について尋問を始める。平沢は、銀座の日本堂時計店の詐欺未遂事件の犯行を否認。
9月1日:日本堂事件について、動かぬ証拠をつきつけられた平沢は、自分が犯人(未遂)と認め、高木に「どうか自殺させて下さい。日本堂の事でとても生きていられませぬから今迄何にもかも嘘を云って来て申訳ありませぬ」と述べた。
この日本堂事件については、平沢は後年も自白を撤回せず、平沢冤罪論者も平沢の犯行と認めている。
9月23日:高木は、安田銀行荏原支店で犯人の顔を見た警察官Iに、平沢の顔を見せた。Iは「間違いありませぬ」と高木に耳打ちした。この日から、平沢は少しずつ帝国銀行椎名町支店での犯行の自白を始めた。
9月27日:新聞各紙「平沢ついに自供」の号外を出す。


ニュースを知った練達の裁判官たちは異口同音に「高木君が自白させたのか。それならまちがいない。彼は決して無理な調べをする男じゃないからなあ」と述べた。
その後、平沢に対して、UPI通信社のベテラン特派員であるアーネスト・ホーブレクトが、同僚のイアン・ムツとともに約1時間にわたる独占インタビューを行った。平沢が警察から手ひどい扱いを受けた徴候は認められず、平沢の手つきはしっかりしていた。(平沢は拘留中の自殺未遂で自分の手を傷つけていた)。平沢は英語で「警察は自分を礼儀正しく扱い、自白を引き出そうとして拷問的手段を用いるようなこともなかった」と強調し、自分を取り調べた検事の高木一を「ハイエストクラス・ジェントルマン」と賞賛した。米国人記者が見た平沢は「取調べを受けている係官たちとは、きわめて友好的な関係にあるように思われた」。ホーブレクトによる記事は「ニホンタイムス」紙(現「ジャパンタイムズ」)の一面を飾った。
平沢は第60回調書(1948年10月8日)の中でも検事の出射義夫に対し「先日UPIの記者が検事の調べがひどいのではないかと言って来た事がありますが私は断じてそうではない。高木検事は『ハイエストクラスジェントルマン』であると答えました。私は高木検事を心の友と思ってるぐらいであります」と陳述した。
平沢の精神鑑定書には「警視庁看守係巡査の動静報告書によると、平沢の精神状態は全部自白した後には前と比べて明瞭に平静となり、熟睡していることが認められる。/これなども真実を告白した場合と異るところがない」とある。
10月8日:平沢の身柄を小菅の拘置所へ移管。午前7時、報道陣を前に車に乗り込む映像が残っている。
平沢は移送の車中の中で、同乗した捜査本部の鈴木清に対し「私は、居木井さんたちに捕ったお陰で、真人間になることが出来ました」「自分の手にかかって死んだ12名の帝銀の犠牲者に仏画を描いて差し上げ、冥福を祈り、お詫びしたいと思います」云々と述べ、心から改悛した様子を見せた。鈴木は捜査本部では旧軍関係者捜査班の主任だったが、平沢が真犯人だと確信した。
10月8日と翌10月9日、高木一の上司で検事の出射義夫が小菅の拘置所に赴き、調書をとる。

出射は熱心なクリスチャンで、戦時中は聴訴室を開設し民衆の直訴や相談を受け付けるなどリベラルを貫いた法曹であった。出射は、第一審の公判中に書いた文章「帝銀事件の問題点」で次のように述べている。

その年の十月中旬(正しくは上旬。出射の記憶違い)、私は平沢を逮捕して以来の高木検事の取調べをもう一度白紙の立場から検討するつもりで、小菅刑務所に出かけて行った。(中略)
「高木君は無理な調べをしたかね」
「高木さんは紳士です。私の友達です。留置中に進駐軍の人が来て、調べに無理はないかと言ったので、高木さんはゼントルマンだと言ってやりました」(中略)
まだ電燈をともすほどではなかったが、調書を取り終わって、平沢貞通と達筆に署名した頃には、秋の夕暮の気配が社会から隔離されているこの部屋にも忍び入って、私の前に腰かけている一個の人間に対し無限の哀愁の情を唆るのである。(中略)
私が十月という秋の感傷にふけっているのに、平沢は実に何ごともなかったかのごとく、またこれから何ごとも起こらないかのごとく平然としているのである。彼は犯した罪業に恐れ戦くか、または冤罪であれば七転八倒の思いがあってしかるべきであるのに、何らの感動を示さないのである。実に不思議な男である。

敬虔なキリスト教徒だった出射は「帝銀事件の問題点」の中で、神ならぬ法曹が、目の前の人間が犯人か冤罪かを見極める本質的な難しさを述べ、「私が問題にしたいのは、人を裁くことがいかにむずかしい仕事であるかということである」「判決はしょせんは人間のわざなのである」と正直に語った。
10月12日、平沢が起訴される。
平沢の弁護人で弁護士の山田義夫は、小菅拘置所に移管されてから1週間目の平沢の様子を「上告趣意書」で次のように述べた

小菅入りをして一週間目に平沢は面会に行った私に、最初は「私は犯人でありません」と言った。「それにしても細かい事を答えるぢやないか」という私に答えて、「教えられれば何でも答えられます」と言った。次いで「しかし私は今は結構たのしいのですよ。夜になると仏様が毎晩来て歌の遊びをしているのです。私はもう現し身でなくて仏身なのです。だからたのまれれば何にでもなりますよ、帝銀犯人にでも何にでもなりますよ」と言った。その瞬間たちまち彼は犯人になったらしい。眼を光らせて「私は帝銀犯人だ」と言った。「さっきの話と大分ちがうようだが」と言う私に、「いいえ私がやりました、荏原も椎名町もやったんです」と断言した。その怪しい無気味な彼の目付きから、私は彼は狂っていると直観した。こんな風じゃ何を聞いても駄目だと、何かまだ聞こうとする高橋弁護人を押し止めて、今少し落付かせよと言って引揚げてしまった。

12月10日、東京地裁で第1回公判。平沢は自白を撤回し、帝銀事件および2件の未遂事件について無実を主張。
以後、平沢は獄死するまで、帝銀事件の犯行は自分ではないと無実を主張し続けた。