矢野治元死刑囚が週刊誌に告白した殺人事件 | 全曜日の考察魔~引越し版

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死刑囚から週刊誌に届いた手紙

死刑囚から「週刊新潮」に届いた一通の手紙。そこには、警察も知らない殺人が綴られていた。被害者は、かつて国会で証人喚問を受けた“永田町の黒幕”だ。新潮が1年余を費やして取材した、闇から闇に葬られた事件の全貌とは――。
暴力団事務所の奥の一部屋。そこには金属製の1・5メートル四方の檻が据え付けられている。その中に、恰幅の良い男が1人横たわっていた。呼吸は浅く弱い。

外から様子を凝視していた暴力団組長は覚悟を決めたように檻の扉を開け、中に踏み込んだ。横たわる男の体を引き寄せ、太い首にネクタイを巻きつけると、交叉させた腕を力一杯引き絞った──。

それから18年、殺された男の成仏できない魂が暴力団組長の精神を蝕(むしば)んでいる。夜毎、夢枕に立つ男に対し、贖罪の念が生じたのか。東京拘置所在監の暴力団組長、矢野治死刑囚(当時・67)が本誌(「週刊新潮」)に宛てた手紙は次のような書き出しで始まっていた。
〈前略、お手数をお掛致します。(中略)多分、平成6年頃のことと想います(※編集部註・平成10年の記憶違い)。警察が調べれば直ぐにわかります。法の改正で時効にはなっておりません。この処、毎晩のようにリュー一世(斉藤衛)の夢で苦しんでおります。このようなことを書き記すことは、私の立場が悪くなることを承知で書かねばならぬ心情を察してください〉

そして彼はこう続けた。
〈私とリューは板橋区に在るハタボールの2階の喫茶店で会った後にリューに〇〇組(手紙では組名明記)で仕事を手伝う人間が待っていると嘘を吐いて連れて行きました。(中略)事前に〇〇組長に頼んで檻を事務所内に入れてもらっていたので、リューは〇〇組に入るなり直ぐに檻に入れてます。(中略)私個人の考えでリューの首を絞め殺しました。3日間檻に入れていたので、リューは糖尿病なので死んでも可笑しくない位に弱った状態でした。その後に結城実(仮名・手紙では実名)に連絡をし、死体を始末させました。(中略)木村洋治(仮名・手紙では実名)も死体遺棄に手を貸している筈です〉

そして最後にこう締め括っていた。
〈ありのままを書き記しました。一日も早くリュー一世を穴から出してやって頂きたくお願いを申し上げます。要町事務所での事件ですから目白警察に届けるようにしてください。平成26年9月7日記 矢野治〉

週刊新潮が、彼の弁護人を通じ、この手紙を入手したのは、2014年12月のことだった。それは闇から闇に葬られた、知られざる殺人を打ち明ける、死刑囚からの“告白の書”だったのである。

確かに法改正で1995年4月以降の殺人事件の時効は撤廃されている。手紙の内容には要領を得ない部分も多いが、この全容を語る前に、まずは加害者と被害者について説明しておかねばなるまい。とりわけ、「リュー一世」、本名・斎藤衛さん(失踪当時49歳)は注目に値する男だ。かつて政界に激震が走った大事件のキーマンとして、捜査当局やマスコミに行方を追われ、日本中の耳目を集めた人物だったのである。

5億円を運んだ“永田町の黒幕”

──証人は「日本を動かす最有力議員17人を知っている」と話したことがあるか。
「そのような事実はない」
──あなたに政界工作を頼んで、金品など何度も取らせたとの証言もあるが。
「自分の刑事責任に関わる事柄と思うので、証言を控えさせていただく」
 97年3月26日、斎藤衛社長の姿は、国権の最高機関、国会の証人席にあった。90年代半ば、日本政界を揺るがす事件が勃発していた。現役の国会議員が多くの国民から多額の金を騙し取り、その一部が永田町に流れたとされる「オレンジ共済事件」である。彼はこの事件で金を運んだ“永田町の黒幕”として、参議院予算委員会に証人喚問され、追及を受けていたのである。

この斎藤社長と暴力団組長の矢野元死刑囚にはいかなる接点があったのか。それを語る前に、「オレンジ共済事件」を簡単に振り返っておこう。
政界工作の資金源となった“オレンジ・マネー”

国会議員を目指していた友部達夫元参議院議員(2012年死亡)は「オレンジ共済組合」を設立。92年より年6~7%の高配当を謳った金融商品を売り出し、100億円近い資金を集めた(そのうち六十数億円は議員当選後のもの)。しかし資金の大半は友部の選挙や親族の私的流用に消えていた。むろん配当は続かず、4年後には組合は倒産し、彼は詐欺容疑で逮捕された。

この間の95年の参院選に際し、友部は、新進党での比例名簿順位を上げさせようとして、細川護煕元総理に接近。その一方、元総理の側近と親しい政治ブローカーにも政界工作を依頼した。これを受け、政治ブローカーが要求した工作資金は約5億円。ブローカーはこの“オレンジ・マネー”を新進党内でばらまいたという。結果、友部の名簿順位は上がり、念願かなって、彼は参院選で初当選を果たすわけだ。この政界工作を仕掛けたブローカーこそ、他ならぬ斎藤社長その人だったのである。

斉藤社長の経歴

斎藤は、そもそもどういう人物だったのか。彼を知る暴力団関係者が語る。
「不動産ブローカーとして住吉会のある組に出入りしていた。そのうち経済活動を旺盛に展開していた幸平一家のある有力幹部に気に入られ、企業舎弟になりました。その関係で矢野さんとも知り合った。この頃から、『龍一成』(※矢野は一世としているが、正しくは一成)という稼業名を名乗るようになりました」

その有力幹部の紹介で、斎藤はある人物と出会う。旧川崎財閥の資産管理会社「川崎定徳」の佐藤茂社長(94年死亡)である。
佐藤社長は、85年頃、首都圏への橋頭堡を築こうとしていた住友銀行(当時)が平和相銀を吸収合併しようとした際、陰で暗躍したとされる。表の社会と裏社会の“交通整理”を行い、フィクサーと呼ばれたものだ。
「斎藤は、この佐藤に可愛がられ、用心棒役を担っていました」(同)

佐藤社長の後ろ盾を得て、バブルの波に乗った彼は、一時、地上げで成功を収めた。92年には10億円近い所得があり、全国長者番付の62位にランクインした。
しかし金をあっという間に使い果たしてしまった。彼の口癖は、“俺は生活費が月に3000万円かかる”。スーツは英國屋、ネクタイも1本10万円のものを身につけていた。ベントレーに乗って、毎晩のように銀座に繰り出し、ホステスにチップを配りまくる。あんなに豪遊していれば、金が続く筈がありません」(同)

遊ぶ金に窮した斎藤が、食いついたのが、オレンジ・マネーだったわけだ。

のらりくらりの「証人喚問」

──オレンジ共済がらみで政治家にお金を渡した事実はないか。
そのようなことはない
──報道によると、「オレンジ共済から証人に渡った金は5億円」などとあるが、授受はあるのか。
刑事罰を受ける恐れがあるので、答えられない
証人席の斎藤は低音の声で、自民党の片山虎之助議員(当時)などの質問をのらりくらりとかわす。そして核心部分では、「証言を控えたい」などと、何度も証言を拒否し、喚問を乗り切ったのである。
その一方で斎藤は警視庁にも連日、呼ばれ、事情聴取を受けていた。しかし結局、オレンジ・マネーの行方は未解明のまま、政界工作の立件は断念された。

この騒動で一時的に表社会にあぶり出された“黒幕”は、捜査当局を嘲笑うかのように、再び闇の世界に潜り、そのまま姿を消してしまった。いや、消されてしまったというのだ。

遺体発見

四方を峰に囲まれた山深い峠。鬱蒼と生い茂った木々の中を右に左につづら折りとなる林道を下りていくと、辺りの濃緑は暗く翳りの度合いを増していく。頂上から数百メートルほど下った大きな右カーブ。そのガードレール脇の急斜面が“悲劇の地”だった。

僥倖の瞬間、捜査員は目を見張ったという。虚空を掴むように地中から突き出された右手の骨。その薬指にはプラチナの指輪が嵌められたままになっていた。

2016年11月30日、秩父に隣接する埼玉県ときがわ町の山林で、警視庁は初夏以来、探し続けてきた遺体を発見した。20年近くも地中の闇に埋もれ、白骨化していた屍はついに発掘され、木々の間から漏れる仄かな光に照らされたのだ。それは、闇から闇に葬られていた凶悪犯罪がようやく白日の下に晒された瞬間でもあった。

もう一つの殺人

矢野元死刑囚が告白した「もう一つの殺人」は、住吉会系の若頭から相談を受け、不動産業を営んでいた津川静夫さん(失踪時60歳)を殺害させた、というものだった。津川さんは1982年、小田急線伊勢原駅前に建つビルの土地を競売により転売目的で落札。“市が10億円で買い取る話が進んでいる”と周囲に語っていたという。ビル明け渡しのため、テナント、ビルオーナーを提訴し、会社の運転資金やビルの解体費用を求めて94年9月に1700万円の融資を受ける。歌舞伎町の金融業者を介して出会ったこの金主こそ、津川さん殺害の首謀者という住吉会系の若頭だった。
この融資にあたり、若頭は津川さんから、担保として土地の権利証と印鑑証明書、それと同じ実印が押された委任状を差し出させていた。この3点セットがあれば、土地の所有権を移転することが可能になる。なお印鑑証明書の有効期限は発行から3カ月なので、期限切れが近づくごとに新しいものに差し換えさせていた。
「さらには、若頭が金を貸した事実の証拠として、融資の実行現場を写真撮影することも、津川さんは求められた」(津川さんの知人)
そのうちの1枚が週刊新潮に掲載されていた。場所は都内のある司法書士事務所の一室。手前の椅子に腰かけた津川さんが、カメラのレンズの方を振り返っている。彼の前には1万円札の札束が積まれ、金額はしめて1500万円。撮影日は1994年9月14日となっている。
「こうした証拠写真を撮るのは、取り立ての激しい暴力団系の街金のやり口です」(不動産取引に詳しい司法書士)

しかも、津川さんは、歌舞伎町の金融業者との間で、見せかけの土地の売買契約書まで作成させられていた。これをもとに、土地の登記に、売買予約を原因として、所有権移転請求権が設定されている。この権利は後に若頭に移った。話が複雑になってきたが、関係者が入り組んだ取引を解きほぐすように、解説する。
「金融業者は、津川さんに金主だけではなく、“土地の購入者も探してやる。市よりもっと高く買ってくれるやつがいる”などと言っていた。“ついては、自分が所有権を押さえていると言った方が、交渉しやすい。だから見せかけの売買契約書を作っておこう”と持ちかけたのです。彼は、津川さんを安心させるために、この土地の売買契約書は便宜上、作成するだけで、真正ではない、との確約書も作っていました。その後、“名目上の買い手を若頭にした方がより効果的だ”と言って、所有権移転請求権の権利者を若頭に代えたのです」
3点セットを押さえられ、少しでも返済が滞れば、土地の権利を取り上げられてしまう。それどころか、1700万円の融資と引き換えに、売買契約書まで作られてしまった。仮装のものとはいえ、いつ何時、これをタテに強引に土地を奪われるやも知れない。津川さんには相当なプレッシャーがかかっていたはずだ。

それでも彼は、借金の利子として毎月50万円を懸命に返済しつづけた。元金は減らないが、裁判で勝訴し、テナントやビルオーナーが立ち退けば、土地は高値で売れる。その暁に、一括して元金を清算しようという腹積もりだったという。

そして96年7月18日、ついに最高裁で被告らの上告が棄却され、津川さんの勝訴が確定したのである。
「乾坤一擲の勝負に勝った」

この時、彼は万感胸に迫り、こう思ったにちがいない。若頭に土地の購入者を探してもらわなくても、市がすでに購入を表明している。一方、意気揚々の津川さんを見た若頭の胸中には黒い思惑が渦巻いていたことだろう。彼の真の狙いは、金利を稼ぐことではなく、この土地を我が物にして、再開発に乗じ、大儲けを目論むことだったのだ。

彼が手にしている津川さんの印鑑証明書の有効期限はひと月を切っていた。もはや津川さんが新たな証明書を差し出すこともあるまい。若頭が暴力装置のスイッチを押すまでに、さほどの時間はかからなかった。13年かけ、待ちに待って手に入れた判決からひと月も経たないうちに、津川さんは、葬り去られてしまったというのである。すぐさま若頭は権利証、印鑑証明書、委任状、売買契約書を行使し、土地の所有権を自分のものとした。その日は96年8月12日。津川さんが最後に差し出した印鑑証明書の有効期限が切れるわずか1日前のことだった。
当時、津川夫人の捜索願に基づき、捜査を展開した神奈川県警の元捜査一課幹部が事件を振り返り、嘆く。
「当然、この若頭が重要参考人として浮上し、事情聴取を行いました。しかし、津川さんの失踪時、警察官と一緒に居て、これ以上ないほど完璧なアリバイがあった。交友関係から、矢野元死刑囚の存在も浮かび、事情を聴きましたが、結局、シラを切り通されてしまった……」

矢野に命じられ遺棄を担った結城実氏(仮名)は、“大山に向かい、山の林道脇の雑木林に死体を埋めた”と本誌(「週刊新潮」)に語っている。

津川夫人は悲痛な思いを明かす。
「伊勢原の山に埋められたのが本当なら、一日も早く掘り出してあげてほしい。骨だけでもいい。私の元に帰ってきてほしいんです」

黒幕

また、一説によれば前橋スナック射殺事件にも教唆犯がおり、まだ逮捕されておらず、そもそも捜査でも裁判でも明らかにされていない。

その人物は東京の某暴力団の親玉で、業界なら誰でも知っている有名人で、その人物を逮捕するために組対は矢野を逮捕したと言われている。