本日は1日だけですが、道家の 小周天瞑想 に参加。

気功と言えば 小周天 が頭に浮かぶほど有名な気功です。

自分は 周天 と言うものが、何を意味するのか知りませんでしたが、天が入れ替ると言う事らしいです。

何が入れ替わるかと言うと、昼と夜が、入れ替わることです。

要は太陽が昇り、沈み、月が出て、沈む、昼夜の入れ替わりです。

そんな日月(陰陽)の入れ替わりを、呼吸を基に体内で行います。

息を吐くときに、陰面(腹側)伝いに、気を降ろし、息を吸うときに、陽面(背中)伝いに気を上げます。
一般的には、任脈、督脈と表現されますが、内の教室では、あまりそういった表現はしません。
経絡についても、あまり詳細な表現はしません。
丹田、密処、命門、玉枕、天頂ぐらいです。

任脈、督脈、詳細な経絡の表現をしないのは、知らないのでは無く、それなりの理由があると思います。

ここでは言わな事とします。

秘伝とか、秘密とか、そういった理由では無いです。

小周天は、基礎的な練習でもあり、奥深い部分もある功法です。

抑えるべきは、気入丹田、気入玉枕、気入天頂、周天流轉です。

各状態には、簡単な練習上のポイントがありますが、それは教室で習って下さい。

禅密気功教室での小周天は、瞑想法としての功法紹介ですが、動功的側面もありますので、ポイントさえ守れば、特別に練習時間を取らなくても、日常生活の中で ながら練習 をする事が出来ます。
忙しい社会人には、もってこいです。

特徴的なのは 気入丹田 で丹田が温かくなり、その熱が全身に運ばれ、全身が暖かくなることです。
丹田の部分には、腸がありますので、その部分が温かくなるのであれば、自ずと免疫機能も、向上すると思われます。
意念で 腹巻き を巻くような、練習方法です。

自分は、あまり丹田に熱感が出ないタイプですが、今回はお腹も、全身も温かくなりました。
全身が、温かい繭に包まれているような感じがしました。

小周天は、呼吸と導引、行気による丹田の熱作用、天頂部分の行気による光などの映像の出現等、一つの功法で、色んな練習方法(吐納、導引、行気)が網羅されている、お得感のある功法です。

そして必要なときが来ると、呼吸、導引、行気からも離れます。

今回の練習中も、自分は身体の感覚が消え、時間の感覚も消え、意識だけの世界にいましたし、白昼夢の様な状態になり、瞑想中に寝ている夢を見ると言う、分けの分からない状態になりました。

禅密気功は系統的には、仏家の気功になり、小周天は道家の気功ですか、分ける事にさほど意味があるとは思えません。

禅文化が、道教の影響を受けたのは、紛れもない事実です。

現代人に取って、有効であるものはジャンジャン取り入れるべきだと思います。
無宗教の自分にとっては、仏教系だろうが、道教系だろうが関係ありません。

小周天も禅密気功と共通する部分もありますし、独特の部分のあります。

互いの長所を吸収すれば、大変メリットがあります。

自分も適時、取り入れて行って行きたいと思います。

 

激ウマ、ビャンビャン麺を食べながら❕️

 

瞑想は難しいか?

 

それは何とも言えないのが、正直な感想です。

 

マインドフルネスのような瞑想であれば、個人的には簡単だと答えます。

瞑想入門には、持って来いだと思いますが、コクと深みが足りないと個人的には思います。

 

ヴィパッサナーや、数息観のような単体の瞑想も、簡単だと思います。

そしてこれらの瞑想は、徐々に深い部分を目指します。

 

瞑想初期の段階では、身体にいろんな反応が出るので、それを以て満足しがちです。

しかし、それでは瞑想の体系的には入門したとは、とても言えません。

小学校に入学して、初日に教科書を貰ったぐらいの状態です。

 

瞑想が難しいなと感じるのは、練習の体系は完成されていていますが、そのとおり行っても、教えのとおりには、瞑想が行えないことです。

それは毎日、毎時、常に心の状態が同じではないからです。

 

例をあげます:まずは心を落ち着けましょう、そして無心になりましょう。

 

この例は一般的によく言われます。

入静などと表現する人もいますが、正直、本当に無心になることができれば、誰も苦労などしません。

当然、無心になる為の方法論も、理論的に完成されていますが、そのとおり瞑想を行えばすぐに雑念が消え、無心になるかと言えば、そうは問屋が卸しませんし、八百屋も魚屋もパン屋も勘弁してくれません。

 

私などは、ちょっと雑念が湧くのが抑えられたのは、瞑想を始めてから数年経ってからでした。

じゃあ、私のような人間のパターンが標準かと言われれば、人それぞれとしか言いようがありません。

 

素直で質素な生活の人であれば、私なんかより全然早く雑念が湧かなくなるでしょうし、金の亡者、権力、自己顕示欲の強い人などは多分、一生掛かっても、心が穏やかになること等無いでしょう。

 

瞑想は得る文化ではなく、捨てる文化だと言う大前提を忘れてはいけません。

捨てるからこそ、全てが得られるのです。

 

瞑想の難しさは、このように同じ練習をしても、効果も現象も異なることです。

そして、理論が分かったところで、それが直接的に瞑想には影響しないことです。(重要な部分はしっかりと抑える必要はあります)

 

禅が教外別伝と言われるのは、頭でっかちを蔑んでいるからだと思います。

 

そして、気持ちや心の状態が急激に変化します。

 

生まれ変わったと言っていいぐらいの変化が訪れます。

 

しかしそれまでは、自分のやってきたことに意味があるのか、自分のやり方は合っているのか、疑心暗鬼に陥ります。

そして、瞑想を止めてしまう人もいると思います。

 

これは、逆に真面目過ぎる人が、陥り易い罠ではないかと思います。

私のような、適当な人間はこういった底なし沼には落ちません。

 

いいかげんだなー と人を批判する事があります。

しかしこの言葉は 少し字面を変えると 良い加減 となります。

 

過ぎたるは及ばずが如し 一生懸命、一生懸命やることが、正解では無いと言う事です。

 

そもそも、悟ったブッダも、苦行には意味が無いと言っています。

 

勝手に一生懸命頑張って、勝手に満足してるのは自分であって、瞑想はそんな事を求めていません。

ただの独りよがりです。

 

瞑想が難しいと思うのは、根気と忍耐力がいる事。

そして、今だけを見つめる事。

 

これは難しい事だなと思います。

 

色んな条件を満たさなければなりませんが、その時は急にやってきます。

想像以上の自由が訪れます。

 

自由の解釈はとても難しいです。

 

しかし、私が言う自由は 瞑想的な自由です。

 

この自由は、お金がしこたまあるとか、権力があるとか、時間があるとか、自分の好き勝手にできる、とかは当てはまりません。

 

あくまでも瞑想で得られる自由です。

 

ここまで書いてしまうと、やっぱり瞑想は難しかなと思います。

 

しかし、心や気持ちの変化は、急激に起こります。

 

多分こういった急激な変化の事を 頓悟 と言うのかもしれません。

 

 

秘伝、秘密、なんて心をくすぐる言葉であろう。

脇の下、コチョコチョどころの騒ぎではありません。

 

自分だけ特別、自分以外に誰も知らない。

こんな事実があれば、優越感に浸れること間違いなしです。

 

秘伝などはあるか、無いかと聞かれれば、あるかなとは思います。

ただ、秘伝と言う名のチョットしたコツだと個人的には思っています。

 

私は武術を嗜むので、特に秘伝と言う言葉にはよく出会います。

 

秘伝と言って良いかは別にして これはうちの流派だけに伝わっている技術だよ、◯◯さんには特別に教えてあげる、でも誰にも言っちゃ駄目だよ。

こんな事を度々言われる事があります。

私:ありがとうございます、大切にします。

道場主:◯◯さんだからね、◯◯さんだから特別に教えてあげるんだから!

 

でも、私は声を大にして言いたい。

 

そんなの、他の流派でも普通にありますから〜

他の流派では、基本ですから〜

 

そんな事を言ったらぶっ殺されてしまいますので、水戸黄門が印籠を出した時の様に はは〜 と平伏して、道場主を崇め奉らなければなりません。

そこは、大人、相手の気を読み道場主を良い気分にさせなければなりません。

 

特別な事と言うのはそれ程世の中に多くは無いのでは無いかと思います。

 

目が5個あって、手が10本、脳みその容量が30kgあると、言うのなら話は別ですが、人間である以上、みんな、誰もが同じです。

 

人類がある程度、文明を持ってからそれなりに時間は経過しています。

よって、国や地域は違えど、人々は色んな事に気づいたはずです。

確かに最初に特別な事を見つければ 秘密 になります。

しかし、時間が経てば秘密でもなんでもなく 普通の事になります。

日本のお家芸だった 液晶テレビ がどの国でも作れる様になってように。

瞑想文化が思いの外、何処の国にも名前を変えて存在している様に。

 

誰もが思います 楽して凄くなりたい。

ですが、ある程度、人間をやっていると そんな物はねーな と体感的に分かってしまいます。

 

ここまで言って何ですが、禅密気功には 秘伝 があります。

それは コツコツといっぱい練習する 事だそうです。

 

結局、地道で、地味な行為が全体を通してみると、最も近道であることがほとんどです。

 

派手な行為より、実を取りましょう。

 

6月1日 吐納気法(1)(2)

昨日は会員の方と一緒に帰った。
短い道すがら、太極拳の老六路の話をしたり、気功を始め、物の感じ方が変化したり、考え方が変わったり等などの話をした。


実生活を含め、良い方向に変わっていっている。
感覚は繊細になり、性格はおおらかになった。
蟻の思いも天に届く なんて話もしました。

昨今、世の中、ギスギスしすぎなので皆、ちょっとは気功をやってほしいものだ。


誰か一人がおおらかであれば、怒りの連鎖も多少は減るだろうに・・・

午前の部開始

昨日の納気法の復習、動作が難しい陰陽勢を集中的に行う。
その後、ジュウドウ(ほぼ自由クネクネ運動)して、瞑想に入る。


今回の瞑想は、五感も空間も時間も喪失する、無と言っても、良い瞑想だった。


意識はあるが、雑念も無いので、自分の意識だけが世界の全てとなるような瞑想だった。

お昼はイタリアン。


会員の方と、武術のアニマックな話で盛り上がる。
こういった、マニアックな話は、中々出来ないので嬉しい。
地元の武術情報も教えていただき感謝である。

午後からは、吐気法を重点的に行う。

排山勢、山を倒す様な気勢で行う。
バイドウ(ワニのような横運動)から両手を広げ、山を倒す様に。
その後、渾円勢の動きを取り入れる。
動きとしては、バイドウ→ニュウドウ(捻り運動)→ヨウドウ(蛹の様な前後運動)となる。
呼吸はバイドウで整え、吸う息に合わせ陰の気を、陽面を通して上げ、手を広げた時に、ニュウドウ動作に息を吐き出合わせ、掌から気を出す。
吐き出した後は、渾円勢のヨウドウ動作に合わせ、吸う時に気を取り入れ、吐く時に陰面を通し、足裏まで気を下ろし、呼吸を、整える。

立天勢、空の雲を吹き飛ばす気勢で行う。
ヨウドウ動作に合わせ、雲を吹き飛ばす様に。
その後、渾円勢の動きを取り入れる。
動きとしては、バイドウ→ヨウドウ→ヨウドウとなる。
呼吸はバイドウで整え、吸う息に合わせ陰の気を、陽面を通して上げ、手を前に出す時に、ヨウドウ動作に息を吐き出合わせ、掌から気を出す。
吐き出した後は、渾円勢のヨウドウ動作に合わせ、吸う時に気を取り入れ、吐く時に陰面を通し足裏まで気を下ろし、呼吸を、整える。

翻江勢、川の水を翻す様な気勢で行う。
動きとしては、バイドウ→ヨウドウ→ヨウドウ→ヨウドウ→ニュウドウと築基の動作が全て入る。
バイドウから、ヨウドウで水を翻す。
その時に、平歩から弓歩になる。
拳を腰に引き、もう一度ヨウドウ。
また腰に拳を引き、もう一度ヨウドウ。
その後、手を引きながらニュウドウ動作時に、弓歩から平歩に戻り、呼吸を落ち着ける。
呼吸はバイドウで吸い、ヨウドウで手を出す時に吐き、拳を腰に戻す時に吸い、ヨウドウで手を出す時に吐き、拳を腰に戻す時に吸い、ヨウドウで手を出す時に吐き、ニュウドウで拳を戻し、平歩になる時に吸い、平歩になった時に吐き呼吸を、整える。

納気、吐気をまとめていきます。

転倒勢、陰陽勢の動きに、大きなニュウドウが加わります。
大きなニュウドウは、指先をピンと伸ばし、左右に大きく捻ります。
最初の捻りで吸い、次の捻りで吐きます。

大きなニュウドウには、陰の気を使います。
二回目の捻りの後に、手を前に持って来ると、動作が切り替わります。

龍鳳勢は転倒勢の動作と同じで、陽の気を、吸い、吐き出します。
陽の気の時は、手は立掌です。


吐納気法(1)(2)功法は以上です。


禅密気功の経験があれば、ある程度わかると思いますが、門外漢の人には、何のことやらサッパリだと思います。


正直、あまり詳しく書いて、間違った方法でやられると困ってしまうので、正直、分からないようには書いています。


興味がある方は、最低限DVDを買って、教本としてもらえれば、ここに書いてあることは多少なりとも分かると思います。


吐納気法は、武術的な動きを取り入れている事もあり、他の功法に比べ運動強度が高いと思います。
しかし、ゼーゼー、ハーハーまでの運動強度はありませんので、身体を強くしたい方には、向いていると思います。

そして、何よりの魅力は、呼吸と外気と言う概念で功法が構築されていることです。


呼吸については、詳細な方法は説明されていません、それは、自分の呼吸に合わせて動けば良いので、腹式とか逆腹式とかの説明はありません。
呼吸は、自ずと合ってきますし、呼吸と、動きの関係に無理が無ければ、それで良いかと思います。


呼吸を通し、外の世界と繋がる事が出来れば、素敵だなと思います。

芸術家の世界だと思います。

追記
今日も朱剛先生は乗り乗りでした。
双把、刮地風、大劈まで飛び出す大サービス。
吐納気法は、やっぱり武術由来の功法だと感じました。

終了

5月31日 吐納気法(1)(2)

今イチ苦手な吐納気法、久々の参加。


世の中は自分だけでは、成り立っていません。
自分の世界を、内なる世界とすれば、それ以外は、外なる世界です。
内なる世界と、外なる世界は、互いに干渉し合って、この世の中が成り立っています。


内なる世界は、誰もが認識出来て、分かるか分からないかと言われれば、分かると思います。
しかし、個人主義が際立ってきた今現在、外なる世界とうまく繋がっている人はどれくらいいるでしょう。


外なる世界との繋がりが希薄な今、逆に本当に自分の事が、分かっているのでしょうか?
自分を本当の意味で知りたいなら、他人や外の世界を知るのは、とても大切な事だと思います。


吐納気法は、この内なる世界と外なる世界を、繋げ、感じていく、功法だと思います。
繋げる手段として、呼吸と気感を使っていきます。

午前の部、開始です。


まずは蠕動、これは外せません。
蠕動は禅密気功の基礎中の基礎であり、奥義です。
奥義と言う言葉を使いましたが、ここには色んな意味を込めました。


実際に体験して、自分で感じて下さい。


その後は瞑想です。


今日は、映像が非常によく現れました。
何故か映像に集中しました。
暗闇の中、映像を集中して見ています。

何も聞こえません、何も感じません。
没頭状態です。


寝てはいませんので、白昼夢といって良いでしょう。
非常に集中はしていますが、いくらかの雑念がある時の現象です。
集中はしていますが、観察しているだけなので、現象には引っ張られてはいません。
大変穏やかで、落ち着いた状態です。

その後はまず、納気法です。
一字勢 站樁の様な姿勢を取り、呼吸に合わせ気を取り入れます。


意念の置き方、使い方に特徴があります。
吐納気の、基本の基本となります。
徐々に動きが加わり、手を呼吸に合わせ動かし、気を引き込み、吐き出します。


合間合間に 渾円勢 を入れ、呼吸を整えます。
蛹動動作が主体で掌と足の裏の気を繋げ動かします。

渾円勢 は目を瞑って行います。


呼吸が整うとまた 一字勢 の練習です。
動きとしての要素が大きいので、有酸素運動ですし、深呼吸の要素も含まれています。


午前中はここまで。

昼食は中華、大好物の黒ゴマ担々麺刀削麺を注文。
やっぱり、たまらなく旨い。
飲んじゃダメだけどスープ全部飲んじゃった、懺悔部屋行き決定。
罪悪感に襲われるが、欲には勝てず。
スープ飲んだっていいじゃない、人間だもの・・・みつを

午後は昼寝から。


初めての方は、この昼寝に面食らいます。


動いて、瞑想して、だけが練習ではありません。
昼寝と言う体調を整え、休める事も練習の一部です。


この休むと言う概念は、本当に、非常に大切です。
決してサボって、だらけているのでは無いのです。
昼寝も練習なのです。


そもそも、練習時間だけが練習ではありません。
徐々に、練習と生活の境界がぼやけていきます。
生活は練習で、練習は生活です。

昼からは 一字勢 渾円勢 に加え 陰陽勢 の練習が加わります。


武術由来とも言われる 吐納気法 この 陰陽勢 の動きにはそれを如実に体感できます。


動きとしては、捻動と若干の蛹動の組み合わせが主になります。


武術的な動きで言うと、太極拳の雲手と、心意六合拳の挑領の様な動きです。
気の要素としては、1つの気を、2つに分け、各々の手に気を持ち、それを感じながら動きます。


身体の動きも秀逸です。
開合、呑吐、伸縮、起落、陰陽、螺旋、逆螺旋、円運動、逆円運動、複合円運動が1つの動きの中に含まれています。


その動きに呼吸と、気を取り込む、吐き出す、を合わせます。


そして、これらの吐納気は本来、本人にとって心地良い場所で行います。


そりゃあ、ストレスも吹っ飛びますわ。
陰陽勢 以外の動きは非常にシンプルです。
陰陽勢 も覚えてしまえば、そんなに難しくはありません。

 

朱剛先生が乗り乗りになり、心意六合拳の双把が飛び出します。

その後、陰陽勢の武術的な使用方法、手を掴まれた時の防ぎ方等を、私を相手に、実際に技を掛けるような形で、説明がありました。

その後も、虎擺尾の様な打撃技が出ます。

さすが、上海の元武術家、飾り気は無いですが実戦的です。

吐納気は、外部の気と繋がる功法です。


気があるとか、無いとは置いておいて、この吐納気は単純に心地よく、気を信じない人にも、効果があると思います。
興味のある人は、呼吸と自律神経について調べれば、科学的な根拠が見つかるかも知れません。

二日目につづく