瞑想は難しいか?

 

それは何とも言えないのが、正直な感想です。

 

マインドフルネスのような瞑想であれば、個人的には簡単だと答えます。

瞑想入門には、持って来いだと思いますが、コクと深みが足りないと個人的には思います。

 

ヴィパッサナーや、数息観のような単体の瞑想も、簡単だと思います。

そしてこれらの瞑想は、徐々に深い部分を目指します。

 

瞑想初期の段階では、身体にいろんな反応が出るので、それを以て満足しがちです。

しかし、それでは瞑想の体系的には入門したとは、とても言えません。

小学校に入学して、初日に教科書を貰ったぐらいの状態です。

 

瞑想が難しいなと感じるのは、練習の体系は完成されていていますが、そのとおり行っても、教えのとおりには、瞑想が行えないことです。

それは毎日、毎時、常に心の状態が同じではないからです。

 

例をあげます:まずは心を落ち着けましょう、そして無心になりましょう。

 

この例は一般的によく言われます。

入静などと表現する人もいますが、正直、本当に無心になることができれば、誰も苦労などしません。

当然、無心になる為の方法論も、理論的に完成されていますが、そのとおり瞑想を行えばすぐに雑念が消え、無心になるかと言えば、そうは問屋が卸しませんし、八百屋も魚屋もパン屋も勘弁してくれません。

 

私などは、ちょっと雑念が湧くのが抑えられたのは、瞑想を始めてから数年経ってからでした。

じゃあ、私のような人間のパターンが標準かと言われれば、人それぞれとしか言いようがありません。

 

素直で質素な生活の人であれば、私なんかより全然早く雑念が湧かなくなるでしょうし、金の亡者、権力、自己顕示欲の強い人などは多分、一生掛かっても、心が穏やかになること等無いでしょう。

 

瞑想は得る文化ではなく、捨てる文化だと言う大前提を忘れてはいけません。

捨てるからこそ、全てが得られるのです。

 

瞑想の難しさは、このように同じ練習をしても、効果も現象も異なることです。

そして、理論が分かったところで、それが直接的に瞑想には影響しないことです。(重要な部分はしっかりと抑える必要はあります)

 

禅が教外別伝と言われるのは、頭でっかちを蔑んでいるからだと思います。

 

そして、気持ちや心の状態が急激に変化します。

 

生まれ変わったと言っていいぐらいの変化が訪れます。

 

しかしそれまでは、自分のやってきたことに意味があるのか、自分のやり方は合っているのか、疑心暗鬼に陥ります。

そして、瞑想を止めてしまう人もいると思います。

 

これは、逆に真面目過ぎる人が、陥り易い罠ではないかと思います。

私のような、適当な人間はこういった底なし沼には落ちません。

 

いいかげんだなー と人を批判する事があります。

しかしこの言葉は 少し字面を変えると 良い加減 となります。

 

過ぎたるは及ばずが如し 一生懸命、一生懸命やることが、正解では無いと言う事です。

 

そもそも、悟ったブッダも、苦行には意味が無いと言っています。

 

勝手に一生懸命頑張って、勝手に満足してるのは自分であって、瞑想はそんな事を求めていません。

ただの独りよがりです。

 

瞑想が難しいと思うのは、根気と忍耐力がいる事。

そして、今だけを見つめる事。

 

これは難しい事だなと思います。

 

色んな条件を満たさなければなりませんが、その時は急にやってきます。

想像以上の自由が訪れます。

 

自由の解釈はとても難しいです。

 

しかし、私が言う自由は 瞑想的な自由です。

 

この自由は、お金がしこたまあるとか、権力があるとか、時間があるとか、自分の好き勝手にできる、とかは当てはまりません。

 

あくまでも瞑想で得られる自由です。

 

ここまで書いてしまうと、やっぱり瞑想は難しかなと思います。

 

しかし、心や気持ちの変化は、急激に起こります。

 

多分こういった急激な変化の事を 頓悟 と言うのかもしれません。