瞑想に興味があると、どうしても身体的な感覚や、身体に起こる現実は見逃しがちになる。

しかし、身体と心は繋がっており、相互に関係しあっている、とても繊細な関係である。

 

いくら、心が静寂で安定しても、首を絞められて静かに瞑想できる人はいない。

人間は苦しさや、痛みには強烈に反応する。

心地よさがあっても、苦しさ、痛みがあると、たちどころに心地よさは吹っ飛ぶ。

 

瞑想をしていると、どうしてもこういった身体の事が無関心になりがちだが、とても大切な事に思えてならない。

 

どうしてそのような事を言うかと言えば、それは多少なりとも自分がそういった経験をすることがあるからである。

チョットした苦しさでも、心は大きく動き、折れそうになる。

苦しいことは、短絡的に言えば命の危険が迫っている事だ。

以外にちょっとした不快な事でも心は動く、心とは本当に繊細なものだ。

心が揺れることで、自分が思っているより身体には影響がでる。

スポーツ選手がメンタルトレーニングをするのもそういった理由からである。

 

しかし、逆も言える。

心が揺れず、安定していれば、身体の能力は限りなく100%発揮できるし、正しい選択をできれば時として200%、300%の能力が発揮できる。

 

要は心も体も健全で強くあれば、相互に良い影響があり、ウィンウィンの関係が気づけることだ。

 

心に興味がある人は心だけ、身体に興味がある人は身体だけに興味がいくが、バランスが大切だ。

 

偏った食べ物をを食べる人は、やがて健康を害する。

 

気功も同じだ。

 

バランスという概念は、とてもとても大切だと思う。

 

重厚で充実感のある瞑想ができるようになり、日々の瞑想に張が出来ました。

しかし、ここでまた問題が発生します。

 

せっかく、手に入れた感覚が何だか薄い感覚へと変わっていきました。

あれほど重厚感があった瞑想も、少しずつ薄まっていきます。

感覚がなくなった訳ではありません、しかし物足りない感じがします。

今までボロネーゼのパスタを食べていたのに、いきなり精進料理になった感覚です。

濃い味に慣れた体は、濃い味を求めました。

しかし、味は薄いままです。

この身体の感覚が徐々に薄くなる現象は、以前、朱剛先生から伺っていたので、あー来たなと思いました

 

しかしまた変化が表れます。

薄い感覚はさらに薄くなっていき、身体の末端に痺れが出てきました。

そして、その痺れさえも無くなっていきます。

徐々に体の端末から身体感覚が消えていきました。

正座して足が痺れた時、足の感覚がなくなるのと少し似ています。

 

座ると薄い感覚がして、そして体の感覚が端から消えていきます。

身体の感覚はほぼ無い中、自分の意識だけが際立っているようで、非常に不思議な感覚です。

自分の意識だけしかないような時は、非常に時間が経過するのが早く、アッと思うと30分ほどが経過しています。

 

そしてたびたび、意識さえないような感じになります。

後で感考えると、気を失っているのか、寝てしまっていたのか?

と思う事も度々ありましたが。

寝てしまっている感覚とは違うのです。

身体も意識も無いですが、何となく認識はしているのです。

ですから仕事の開始時間にはパッと瞑想から覚める状態でした。

 

瞑想の段階としてこの、身体感覚が無く、意識の感覚のな状態の事を何と呼ぶのかは分かりません。

 

しかし、瞑想をするとほぼ、身体感覚が無く、意識も無いような状態になることが非常に多くなりました。

そして、瞑想から覚めた瞬間に、重い気感がどっと体の中に流れるような感覚が出ます。

その瞬間、非常に穏やかで心地よい感覚になります。

 

結局、朝のリセットは毎朝行われる結果となり、自分ではなくてはならない時間となっていきました。

 

日々の練習が多少なりとも成果を出し始めました。

心の揺れが少なくなり、瞑想と呼んでも良い状態になったと思います。

 

しかし、ここでも自分の思うようにはいきません。

 

心は静かになりました、しかし何も起きないのです。

心が静かになれば何かが起こると期待しましたが、何も起きません。

 

えーそんな事あるの?

 

正直ガッカリしました。

止めてしまおうか、そんな気持ちになったのはこの時期でした。

 

だが、日々の練習と言うものは大したものです。

気が乗っている、乗っていないに関わらず、毎朝練習する習慣は、おいそれとは変わりませんでした。

 

それが、変化へと繋がっていきます。

 

瞑想に於いて私の基本となる感覚が、このころ強化されていったと思います。

 

静かな感覚の中に重みが出てきます。

血液が鉛になったのではないかと思うほど、身体には重量感があります。

そして誰かが、お尻の穴から空気を入れているのではないかと思うような全身の充実感があります。

 

この感覚は毎日の物ではありませんでした。

体調の悪い時、雑念が湧いてしまった時には、この感覚は現れませんでした。

 

しかし、この重厚で充実感のある感覚が現れる事が日々増えていきます。

このような感覚が出始めると、感覚を眺める事ができるようになり、さらに雑念減っていきました。

この感覚が現れると、手の指先が温かく、シャウエッセンのようにパンパンになり色も赤みが差しました。

 

この重厚で充実感のある、心地良い感覚は、以前、東京で参加した瞑想会での感覚と、遜色ない感覚でした。

 

やっとこさ気功らしくなってきた、やっと瞑想らしくなってきた。

そんな時期でした。

2日目

 

今日も、蠕動から始まる。

ただ、慧功を経て行う蠕動は、周通空霊の蠕動になる。

同じ蠕動でも、段階により中身が違う。
単純な動きだが、動きを繰り返し、他の功法を経るごとに、中身は深まっていく。

蠕動は動功だが、その動功が基礎となり、瞑想になっていく。

しかし、間違えてはいけない。
動功の動きが小さくなり、静功になるが、静功ばかりやっていれば良いと言う訳ではない。

全てはバランスからなっている。
動功だけ 静功だけ にならぬようにバランスを取りながら練習する!
そうでなければ、心身の健康はありえない。

蠕動は、どんどん動きが小さくなる。
微動になったタイミングで座る。
動功が、静功の瞑想になっていく瞬間である。

やがて、動きは完全に止まるが、意念は動いている。
外から見ても、動きは見えない状態となる。

そして、静かで豊かな時間が訪れる。
とても贅沢な時間だ。
この穏やかさや、心地よさは言葉では言い表すことはできない。
言葉などの陳腐な道具で語るのは、おこがましい。

昼からは 増量 を行う。
何を増量するか?
気を増量する。

増量

・動静勢
蠕動の質は周通空霊、身体は動、しかしそれを観察している第二の自分は静である。

・内外勢
内部は動くが、外部は止まっている。
ここで動きの要素は、消える。
しかし内部の動きは、より活発になる。
一般の人が見ても、分からない段階に入る。
しかし、当の本人の体の中では、マグマが動くように気が気が蠢き回る。

・陰陽勢(沈肩垂肘)


手の指を組み上下に動かす。
その動きと、意念に合わせて、内蔵を動かす。


指先をこすり合わせる。
感覚を、皮膚とリンクさせる。


・胸背勢
労宮から労宮に気を渡し、背中をまわす。
眼球の後ろ側で。

手の甲側から甲側へ、眼球の前側で。

・指掌勢
指先、指先で、圧力管や引張感

・手足勢

労宮と湧泉を繋げる、地根勢の様に
労宮は火(心臓)、湧泉は水(腎臓)


A(エー)


弁質

増量した気を遣い、人の体のスキャンを行いい、患部から悪い気を引き出し、良い気を入れる。
最後に気で自分自身を洗浄する。

・論証
・施治
・洗病


※弁質では相手に人に触れる事はありませんし、特定の経絡を意識する事はありません、触れて物理的な力を相手に与えません。

マッサージやほぐしの技術ではありません。

気感で相手を診て、気を送ります、相手には触れません。

ただし、手の形、体勢、意念は、より合理的な形、意識を取ります。



増量に関しては、今までもそれなりの感覚は確保できていたと思う。

しかし、今回べらぼうに面白かったのは、弁質に関してだ。

会員同士で、お互いに見立てを行い、悪いと思われる患部から、気を引き出し、気を送る。

正直、この弁質が苦手であった。
今まで、なんだか、良く分からなかった。
分からなかったと 言う表現は、あまり正しく無いのかもしれない。
正しくは 何も感じなかった であると思う。

しかし、今回は違った。
どこまで正確かはわからないが、調子の悪い部分に手が差し掛かると、何とも言えない感覚の変化がある。

当人に確認すると、多少なりとも調子が悪い部分であるとの事、何度スキャンをしても、やはり違和感がある。

自分も多少なりとも、そういった気の感覚が身についてきたようだ。

気功を習い出した理由は 武術に役立てたから だったが、正直、それはどうでもよくなり、できることなら、人の健康に関与できるようになれたら、と言う思いが増してきた。

今日参加した、仲の良い会員の人は、中々の手練なので、また色々アドバイスをもらおう。

ある意味、最も気功らしい側面を本日は体験できたのではないかと思う。

ぶっちゃけ、相当に、相当に面白い体験ができたし、自分にも、そんな事ができる芽があることに大変感激した。

こういう事は、経験値がとても大切になってくるので、地元に帰ったら、少しずつ経験を積みたい。

今まで何度も参加している、慧功・洗心法ですが、自分のレベルが変わることにより、功法に関する考え方や、取り組み方が変化してきます。

一回受講すれば、それで分かったと思うのは、やはり浅はかだなと思います。
単純な部分もありますが、それは深みを得るために敢えて単純にしてあるのだと思います。

やはり、禅密気功は侮れない、そして何より楽しい。

教室終了後。皆さんと一緒に帰った。
やなり、皆さん相当楽しかったようで、今日の教室での体験話で、とても盛り上がりました。

そして、私も一つだけ意見を言わせてもらいました。

瞑想も負けず劣らず最高に楽しいですよ。

皆さんにも、気功の楽しさ、瞑想の楽しさを是非とも体験してもらいたいと願います。

終わり

 

1日目

午前中は仕事だったので、急いで東京に向かう。
昼食は新幹線の中で、PaoPaoの肉まん2個、思ったより大きく、中々侮れない美味さ。

 


お腹は十分、満たされた。
準備完了。

14時、教室着、間髪入れず 蠕動 に入る。

本日は慧功を重点的に。

慧功・洗心法は禅密気功では中級功法になる。

朱剛先生は 築基功・双雲功 さえ受講すれば、その後、初級、中級、上級の分けは、あまり区別をされていない。
要するに 築基功・双雲功 を受講すれば気功師研究会、以外のコースには参加が可能になる。
極端に言えば 築基功・双雲功 とそれ以外のコースとも言える。
個人的には、功法に拘るより、練習する事がと最も大切だと、朱剛先生は考えてみえると感じる。

自分は気功師研究会以外の、どのコースも参加出来る立場ではあるのだけれども、初級、中級、瞑想会に重点的に参加してきた。

ほぼ10年を掛けて、初級、中級、瞑想と毎年ほぼ同じ事を、繰り返してきた。

これだけ同じ事を繰り返していると、流石に、禅密気功の体系の、素晴らしさに気付かされる。

各々、短期集中コースは、単独で成立するだけの内容を十分に持っている。

しかし、自分が語れる初級、中級に関しては、確実に段階的に、上達するカリキュラムが組まれていると強く感じる。

築基、陰陽合気(天地部)、吐納、そして慧功と少しずつ感覚が磨かれ、必要な物が徐々に身に付き、動功としての完成をみる。

そして、この慧功は瞑想への橋渡しの役割を持っている。

禅密気功の真髄は瞑想です。

慧功は、非常に重要な位置を占めていると思います。
いきなり結跏趺坐で座り禅を組んだりと、拷問の様な、無駄な時間を使わないで済むと思います。
禅密気功は一見、功法が多く無駄に感じますが、気感を構築し、全身に繊細に気を配り、呼吸に合わせていく、そして気感に関する物は中級功法の慧功で纏めます。
末広がりの体系では無く、学んだ物は1つに纏まっていきます。

そして、この纏めた気感を足掛かりにして、瞑想に入っていきます。

この頃には、瞑想に十分耐えられるだけの心身が準備されています。
素晴らしい体系だと思います。

各功法のテーマが、ハッキリしているので、多少、形や、やり方が間違っても、テーマさえ誤らなければ、間違った方向に進むこと無く確実に上達します。

八段錦やって、五禽戯やって、六字訣やってみたいな、色んな流派を渡り歩く必要がありません。

以前、仲の良い会員の人が 禅密気功には全部ある と言っていたのを、思い出しました。
初級、中級までしか語れませんが、確かのそうだろう、と思わせるだけの物が、禅密気功にはあります。

さー、慧功です。
端的に文字で表すと

・鬆展放収
鬆と展は身体的な要求です。
放収は気の遣い方

・衝上貫下
これも気の遣い方です、呼吸と合わせます。
天地がここでも、生かされます。
当然、吐納の要素も入ります。

・周通空霊
気の凝縮と放射を行います。
内と外を融合していきます。
慧中を通し外の世界と繋がります。
収から放へと変化します。

慧功で大切なのは、自分の意思で揺れてはいけない事です。
揺れる のでは無く 揺れている、揺らされている、状態になる事です。
揺れる事に対して、意念を使いません。
自分の意思には関係なく、勝手になんだか揺れている状態になります。

初級では、意念を使い大きく揺れ、運動の要素が大きいですが、慧功では揺れは小さくなり、動きとしての揺れは無くなっていき、静の領域に入り、瞑想へと入っていきます。

慧功の瞑想は、慧中を主体にした瞑想ですので、意主丹田を強調する瞑想とも異なってきます。

しかし、この合理的な体系は本当に素晴らしと思います。

時間を掛けて、練り上げられた体系を作り上げてくれた先人に、感謝です。

この時代まで、形骸化すること無く、伝えてくれた事に感謝です。

そして、禅密気功が生まれた中国を遠く離れ、この日本に伝わっている事に感謝です。


続く