目標を達成する、目標にまっしぐら、いいと思います。

 

でも目標を達成したらどうしますか。

燃え尽きでいいですか?

 

以外に、大切な事を見落としているのではないでしょうか。

 

過程です。

 

料理好きの人が言います。

料理を作るのが好きなの。

 

料理を作れば料理は完成します。

美味しく、美しい料理は作った本人も、周りも喜ばせます。

しかし、その前に料理好きの人は、料理を作ることが好きなのです。

 

私は以前、山登りによく行ってました。

当然、頂上を目指します。

しかし、頂上にたどり着けなくても、やはり楽しみはあるのです。

 

途中で見える絶景、荘厳な森、可憐な花等々、頂上に着かなくても、その道すがらは以外に楽しみに満ちています。

 

私の登山は、頂上第一主義ではなく、なんか周りを見ながら歩いていたら、頂上に着いてしまったと言うスタイルです。

 

以前、山岳会に入っていたころは、料理も楽しみの一つで、頂上で天ぷらとか、すき焼きとか、煮込みうどん、なんかもみんなで作っていました。

時には野点なんかしちゃったりして、結構なお茶でなんて事も度々ありました。

 

目標を設定しないと、何も始まらないと言う一面はあると思います。

しかし、その道すがらは楽しい事でいっぱいです。

 

個人的には目標よりも この楽しむ と言う行為の方が、本体ではないかと思います。

別にヒマラヤや、北アルプスに登るだけが、登山ではありません。

低い山でも、自分なりの楽しみを持っていれば、十分楽しい登山です。

 

 

気功は健康の為、精神的な 悟 などの目標はありますが、やはり練習自体が楽しいと言う側面があります。

 

気功が上手とか、境地が高いとかは確かにあると思います。

しかし、自分が楽しみながらできるのあれば、それが一番だと思います。

 

気功の裾野は驚く広く、どんな話題にも、要求にも対応できるだけの包容力があります。

この広さと、深さは本当に気功の魅力だと思います。

仮に練習しなくても、そんな人も楽しませるだけの情報は集積してますし、健康重視、悟り重視の人にも、十分答えられます。

 

究極、目標が無くても理論に沿って、楽しんでいれば、行くべきところに落ち着くと思います。

 

自分は色んな意味で日々気功を楽しんでいます。

 

好き

 

頭でも狂ったかと思った皆さん、元からまともではないです。(偏差ではないです)

花びらも一枚一枚 好き 嫌い 好き・・・なんてやってません。

むしっているのは犬の抜け毛ぐらいなので、安心してください。

 

好き、とても大切な要素だと思います。

 

まがりなりにも、仏教系の瞑想を嗜んでいて、こんな煩悩臭い事言っていて良いのかお叱りを行けそうですが・・・

 

好きとか、嫌いとか、拘りを生むような心の状態は、良いとは言えないのではないのか?

個人的には、いいんじゃないかと思っています。

 

好きは、確かに拘りだと思います。

拘りと言えば、あまり良くないように感じるかもしれませんが、拘り=エネルギー=気 と考えてはいかがでしょうか?

人は何かを行うとき、絶対的にエネルギーが必要です。

 

そのエネルギーも一過性の物なのか、継続してエネルギーを発揮できるのかで、その後の物事の結果は違ってきます。

 

確かにどこかのタイミングで、瞬発的なエネルギーが必要な事もあります。

この瞬間的に大きなエネルギーを出すのは比較的簡単かと思います。

この、瞬間的にエネルギーを発揮するのは誰にも経験があるのではないでしょうか。

 

3日坊主なんかは、この瞬発的エネルギーの部類かなとおもいます。

これは誰もが、身につまされる現象だと思います。

 

個人的にはこの 好き に関しても 浅い好き 深い好き があると思っています。

 

アイドルが好き、などは浅い好きだと思います(例外はありますが)

 

男性が女性を好きであるように、女性が男性が好きであるように、これは個人的には深い好きです。

 

この違いは頭で考えた好き=浅い、頭で考えない好き=深いだと個人的に思っています。

 

難しいのは継続的に、同じように、エネルギー出力する事です。

 

コツコツとか、地味とか、しつこいと言われるのは、この部類のエネルギーです。

物事を成しえるには、この地味なコツコツエネルギーがどうしても必要です。

 

しかし、このコツコツエネルギーは本当に難しい。

 

ずーっと好きでいられれば、好きの対象に継続的にエネルギーを届ける事が出来ます。

 

しかし、人はこの好きと言った感情も、ずーっと継続する事はほぼできません。

 

あきるからです。

 

この深い好きの状態に持ってこられれば、継続的なエネルギーを確保する事ができると思います。

 

自分事ですが、過去に好きである理由がハッキリしていて、人に対して魅力を言葉で語れるような好きは、今は好きではありません。

しかし、人に聞かれて何で好きかも、分からない好きな物については、飽きもせず未だに好きで、ずーっと取り組んでいます。

 

この深い好きは、いかに心の深い部分で、判断させることができるかが、ミソだと思います。

ある意味、自分の意志で決定しているのではないので、種火のように、ジワジワ燃える感覚を、深い意識に届ける事が出来れば、ほぼ完成だと思います。

 

そういった意味では、考えて判断するのではなく、なんだかいいなーと思う物は、大切にした方が良いと思います。

理由は分からないが、なんだか良いなーと思うようなものは、心の奥に響いているのだと思います。

素直で正直な自分を、否定しないほうが良いと思います。

 

禅密気功の瞑想文化は、深い部分の心を揺り動かすだけの十分な魅力があると思います。

 

ラーマ(マーガリン)じゃないよ ラーハ だよ。

 

先日テレビを見ていて ラーハ と言う時間が、イスラム圏にはあることを知りました。

 

イスラム圏では ラーハ と言う時間を持つことが非常に大切とされ、幸せとされるそうです。

 

このラーハと言う言葉は、厳密に日本語に訳す事は出来ないそうです。

一応解釈としては 「労働」「遊ぶ」このふたつの時間に収まらない第三の時間 であったり 身体を休めるだけでなく、心もリラックスさせる時間 とされています。

具体的には 仲間でお茶を飲んだり おしゃべりしたり ボーっとしたり とそういった時間みたいです。

何となくですが、ニュアンスは理解する事が出来ました。

 

そういった意味では、スペインのシエスタ等も似た考え方なのかもしれません。(歴史的にもイスラム圏とは縁がありますし)

 

この ラーハ と言う言葉を聞いた時、正直うらやましいなと思いました。

 

日本人は高度経済成長期から、あまり変わっていない部分があると感じています。

 

モーレツに働き、根性で乗り切り、一時期は24h戦えますか なんてCMまでありました。

非常に偏った生活リズムだなと思います。

個人的にはこれは偏差だと思っており、精神疾患の患者数は年々増え、日本は先進国の中では異常に短い睡眠時間になっています。

 

外国人の方に私が聞いた話ですが、日本ほど均一的に便利な国はないそうです。

田舎でもコンビニがありますし、ショッピングセンター、医療なども、やはり均一的に展開されています。

私なども子供時代が高度経済成長期でしたので、生活がみるみる便利になっていった記憶があります。

 

この便利になっていくといった時代が、幸せであった時代が確かにあったなと思います。

 

しかし、この便利を求める欲求は留まることを知りません、もっと便利にもっと便利に・・・

そして確かに便利に、便利になっていきました。

 

しかし、その便利の為に、人が振り回されるようになります。

主従が反転したと言っても良いでしょう。

 

ですが、資本主義の世の中では、この流れから下車する事は許されません。

一瞬で没落するからです。

 

大変な世の中になりました 不便だったが昔は良い時代だった と思うお年頃になりましたし、やはりどんどん世の流れが異常になっているのではないかと思います。

 

最近では、働き方改革などが提言され、もう少しゆとりを持とうと言う流れもあります。

 

気功を行っていると、ゆとりを持つことは本当に大切だと思います。

 

長期的な視点で観れば、短期的な損益が発生しても、ゆとりを持つことが全体としての利益にもなると思います。

 

私たちが行っている 気功の瞑想は ラーハ に当てはまると思います。

 

仕事でも遊びでもない ゆったりとした心身を整え、健康に益する時間です。

 

瞑想をしてくださいと言う事ではなく、日本人もラーハのような時間を持つことが非常に大切だと思います。

 

最後にこのテレビの中で紹介されたショッキングな出来事を書いておきます。

 

このTVで紹介された方は、シリアの男性と結婚されました。

シリアで内戦がおこり、国内は地獄絵図と化し ラーハ どころの騒ぎではありません。

 

この、地獄から抜け出すために日本に移住されました。

 

男性の方も、日本で仕事を探し働くことになります。

しかしそこに待っていたのは シリアの地獄の方がましだと思えるほどの 日本の生き馬の目を射抜くような地獄 だったそうです。

 

文化の違いもあるので一概には言えませんが、他民族の方から見た日本は 地獄の中の地獄 みたいです。

 

その 地獄の中の地獄 で生活している私たちは、一体何なんでしょうか?

 

結構、ショックでした。

 

以上

天下第一掌、その名を 孫 禄堂

 

 

近世、形意拳三大名人の一人でもあり、孫式形意拳、孫式八卦掌孫式太極拳の創始者でもあります。

そして、内家拳と言う概念を打ち立てた巨人であり、形意拳、八卦掌、太極拳の共通する術理に気づき、三拳弊習を提起した人でもあります。

 

中国武術で達人と言えば、必ず名が挙がります。

 

孫式太極拳の創始者である 孫 禄堂 ですが、まずは形意拳を語らないと 孫 禄堂 と言う人は成り立ちません

孫 禄堂 は非常に貧乏な生まれでした。

どのくらい貧乏だったかと言うと、世の中が嫌になり、首吊り自殺を実行したことがあるぐらい貧乏でした。

 

しかし、形意拳を 李 魁元 から拳を学べる事になります。

 

孫 禄堂 は寝る間も惜しみ練習をします。

そして、数年でメキメキと実力を付けます。

 

孫 禄堂 の才能はずば抜けていました。

李 魁元 は自分の師匠に当たる 郭 雲深 に 孫 禄堂 を紹介します。

孫 禄堂 は、形意大師 郭 雲深 から、直接形意拳を学べる機会を得ます。

 

因みに 郭 雲深 も近世、形意拳三大名人の一人で、その中でも筆頭となる人です。

崩拳と言う技で、並みいる武人を倒してきた達人中の達人です。

 

その 孫 禄堂 ですが 郭 雲深 の名前を辱しめる事は、ありませんでした(連戦連勝)

 

孫 禄堂 の逸話です。

 

孫 禄堂 は非常に身が軽かったので活猿子(猿のようにすばしっこい)と呼ばれました。

調教中の馬に飛び乗れるほど動きが軽かったそうです。

 

郭 雲深 は止まった状態か、ら二歩で9m移動できたと言われていますが、孫 禄堂 はそれには少し及びませんでしたが、二歩で8m移動する事が出来ました。

近世の人なので、以外に具体的な逸話が残っています。

 

郭 雲深 の逸話

 

形意拳は3年練習すれば人が死ぬ、と言われるぐらい打撃が強烈な拳法です。

そんな中でも、達人中の達人である 郭 雲深 の打撃は強烈でした。

当時、人々を困らせる悪人がいました。

ピストルも持っており、誰も逆らえませんでした。

義侠心に厚い、郭 雲深 は人々の意を組み、悪人を懲らしめましたが、強烈な打撃の為、死んでしまいました。

一応、近世なので法に則り、郭 雲深 は裁かれる事になりますが、地元の人々から嘆願が出た事もあり、刑務所に入ることは無く、地元の有力者の家で刑に服すことになりました。

 

一般的には刑務所に入り、手かし、足かせの状態で虎形拳を練った、と言われていますが、現実は違うようです。

 

 

形意拳は非常にシンプルな拳法で、究極まで無駄を省き、究極の実力を持ったの中国武術と言われることもあります。

 

孫 禄堂 の武術はこの形意拳が全てのベースと言っても過言ではなく、特に形意拳の三体式という立ち方が全ての基本となっています(孫式形意拳、孫式八卦掌、孫式太極拳)

 

河北派形意拳の一般的な三体式孫 禄堂

 

孫式形意拳の三体式孫 禄堂

三体式は站樁でもあります。

 

身体を強化する伸筋抜骨に優れていて、体質を変えていくのに、非常に優れています。

 

興味のある方は習ってみてください。

 

ただし辛いですよ。

 

つづく

 

築基功は読んで字のとおり、基礎を築く功法です。

 

一般に思われるのは、基礎を築けば次の段階に進めると言う考え方です。

 

家の基礎などはまさにこの考え方で、基礎があるからこそ、その上に家を建てることができます。

個人的にはこの考え方は半分は正解で、半分は間違いだと思います。

 

それは基礎のレベルにより、その上に立つ建物は制約を受けるからです。

二階建ての木造住宅を建てるのと、15階建てのビルを建てるのでは、そもそも基礎構造自体が全く異なります。

どのような建築物を建てたいのかで、どのような基礎を作るのかが決まります。

 

以前、少し聞いた記憶があるのですが、朱剛先生は 築基が一番難しい と言われていたと思います。

 

禅密気功の短期集中コースで、一番多くコースが設定されるのが、この築基功です。

それは、最も大切な功法で 基本こそが奥義 だからではないかと思っています。

 

私個人は築基は、一生をかけて深めていく大切な功法と認識しています。

 

築基功は動きが単純な為、飽きやすい面を持っていますが、単純だからこそ深めることができると言う、優れた面も持っています。

 

築基は3つの動きを1つに纏めることができます。

1つかよ、と思われる方も多いかと思いますが、この一つが万への変化の元になります。

朱剛先生が良く言われる 千変万化 がその言葉です。

変化させるのは、取り組むその人個人です。

 

十にするのか、百にするのか、千にするのか、万にするのか、それはあなた次第です。(私の事でもあります)

変化の為には、初めの 1 を確実にしなければ、その後の変化はありません。

 

築基を地味に行っていますが、進歩が目に見えて感じられるほどの進歩は私にはありません。

 

しかし、しばらく経ってふっと観察すると、以前とは変わったな思うことが少なからずあります。

地味にですが、少しずつ進歩はしています。

 

私にとって、築基は通過点ではなく、立ち止まるたびに確認すべき原点です。

ですから、今後も原点である 築基を見つめる 練習は続いていきます。