天下人家康の愛情と権力や、秀忠家光の尊敬、
そして、これから書くかもしれませんが天海さんの霊力法力に守られ
思いのままに生きた英勝院。
これほど幸福な人生はあるでしょうか。
それに比べて、戒名も似ているお万「長勝院」です。
光と影のような、「英勝院」と「長勝院」です。
結城秀康の母「長勝院」は、まだ若く美しかったころ家康に手を付けられてしまいます。
そして、すぐに子どもを身ごもってしまうのです。
家康がどんな人なのかは、私ごときには分かりません。
天下人になるのですから、魅力のある素晴らしい人に違いありません。
けれども、そんな人と夫婦らしくすごせた日が「長勝院」には全くありませんでした。
スタートからして、家康正室「築山殿」の侍女だった「長勝院」が、
家康のそばで子どもを産むことなど許されませんでした。
「長勝院」にとって家康は夫であるけれども「遠い人」。
そして、家康にとってもそうだったのでしょう。
たくさんいる夫人の中の一人だし、
ちょっと手を付けてみたけど、「なんか嫌」な女性だったのでしょう。
(この「何か嫌だ」という感覚。これは大切にしましょう)
お万「長勝院」も子どもさえいなければ
「あたしだってお前なんか嫌だ」と言って、
さっさと縁を切り、土地の気の合う男と所帯を持てたのかもしれません。
しかし、お万は、生まれた子どもの将来を考え、家康の子の「母」として生きてしまったのです。
そこに家康への愛はあまりなかったのかもしれません。
それとも長勝院は、一途に「子どもを育てることが家康に尽くす道」と信じていたのでしょうか。
しかし、家康はそんな長勝院母子のことはいつもガン無視です。
それでも殺されてしまった「築山殿」と松平信康よりはましだったのでしょうか。
最近の研究では(←根拠は不明です。すみません)
「信康を殺す命令を出したのは信長ではない」
とされたとのことですが、それならどうして嫡男を?と思うのです。
謎が深まるばかりです。
信康の死後、当然跡を継ぐのは次男の「秀康」と人は思っていたに違いありません。
「母」として生きるしかなかった長勝院にとっても
わが子が家康の後継者となることが、唯一の希望だったのだろうと思います。
とにかく、「秀康を立派に育てよう」と思ったのだと思います。
そこに生きがいを見つけるしかなかったのでしょう。
そして、秀康は立派な武将になりました。
「関ヶ原の戦い」では、豊臣側につくか、徳川方につくか秀康は迷ったと思います。
おそらく、熱心に徳川方につけと諭したのは「長勝院」。(空想ですけど)
多分その時だけは、家康も優しく「長勝院」に甘いことを言っても来たでしょう。
もちろん、秀康にもそうだったでしょう。(空想ですけれども)
しかし、「関ヶ原」で徳川の天下が確定すると、家督は弟秀忠のものとなります。
私はこの家督争いに「英勝院」が絡んでいないはずはないと思います。
もちろん表立ってのことではありません。
秀忠、家光が「英勝院」を大切にしたのは、その時「英勝院」が
二代将軍を「秀忠」とするために骨を折ってくれたからなのだと思います。
そう、家康が心底愛せたのはやはり「英勝院」だけだったのだと思います。
「英勝院」の秘密。私も知りたいな、と思います。