そんなにも徳川家康に愛されていたお梶「英勝院」さま。
家康最後の子「市姫」を授かります。
しかしなぜか、その同じ年に家康次男、結城秀康が亡くなるとその子「松平忠昌」の養母となるのです。
秀康嫡男「忠直」の弟君です。それから松平忠昌は、越前福井を離れ江戸で二代将軍秀忠、そして英勝院のもとで育つことになります…。
これはなぜだったのでしょうか。
もしかすると、大きくなったら「市姫と縁組させよう」とか思っていたのでしょうか?
いや、Wikipediaによるとですが、市姫は1月に生まれて次の月2月には伊達照宗と婚約したはずです…。
しかし、市姫はわずか3才で亡くなってしまいます。
戒名は「徳川幕府家譜」によると「清雲院」。「幕府祚胤伝」によると「一照院」ということです。
(天下人徳川家康の娘でさえこうなのですから、一般の家系図に乱れがあるのは仕方がないことなのでしょうか。「戒名が違うから別人だ」と決めつけることはやはりできないと思いますが、どうでしょうか)
何で読んだか忘れてしまいましたが、その娘が亡くなったときあまりの悲しみに英勝院は「出家」しようとしたのだといいます。
悲しみに沈む英勝院を哀れんだ家康は、さらに彼女を徳川頼房の養母とします。
それだけではありません。
かつて、北条氏直夫人で北条家の家宝を嫁入り道具に再婚した督姫という家康の娘さんがいました。
(↑これ、「大福御前」がすごく怒っていました…。)
大福御前は怒っていませんでした。
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(↑確か、ここで読みました)
「英勝院」はその督姫の娘、振姫孝勝院の養母にもなります。そして、振姫は亡くなってしまった静雲院あるいは一照院の許婚だった伊達忠宗に嫁ぐのです。
英勝院のお悲しみ、少しは癒えたのでしょうか。
それともそんなことはなかったのでしょうか。
でもここで、「あれ?」と思うのです。
家康との子どもに先立たれ悲しみのあまりに「出家」というご夫人、他にもいませんでしたっけと。
そしてその人は、本当に出家してしまったのではなかったでしたっけと。
「松平忠昌」とは、その人の孫でした。やがて、いろいろあって忠昌の兄、松平忠直は失脚し追放されます。
そして越前福井藩は、英勝院の「息子」忠昌が継ぐことになります。
そして、この越前福井藩の家老こそが、太田資武なのです。
ここの辺り、少し…。
少しですが、怖さも感じます。
全部が偶然なのでしょうか。
しかし、いろいろあっても資武はすべてを乗り越え、何にも忖度せず「太田資武状」を残したのでした。
「道灌の実子これ無く」
と書くのに、どれだけ勇気が必要だったのでしょうか。
やはり、資武は戦国ラストサムライだったのでしょうか。
それとも、本当に単なるKYだったのでしょうか。