そしていよいよ、後の「小田原北条」が興隆してきます。
扇谷に帰参したものの、戦死してしまう資康。その子の資高は、その手引きで、江戸城を小田原北条に明け渡したのです。「扇谷上杉定正が祖父太田道灌を殺害したから、守っていた江戸城を小田原北条に明け渡した」という理由なのだそうです。でも、父である資康はその小田原北条と戦って戦死しているのではないのですか?(資康は、扇谷当主から「被誅」されたという説もあるそうですが…。)(←なぜ?)
(なぜ、太田家ばかりが「被誅」されてしまうのでしょう)
(↑まだ「乗っ取り計画」があった?)
江戸城明け渡しをしてしまう、太田資康の後継者資高。ここの辺りもまた混乱しています。道灌から資康そして資高の流れは、「どうして?」と思うことが多く、少し私には分からなくなってきています。
そんな中、「マリコ・ポーロ」さまの「風なうらみそ~小田原北条見聞録」を拝見しました。
「北条五代の娘たち②太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「続・浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3016.html
江戸城明け渡しの後、太田資高は北条氏綱から息女を正室に迎えます。その「浄心院」という女性の名前が、資康の側室?三浦義同の娘「浄心院」と同じだというのです。
しかも、マリコさまの「調査」によると「没年月日」も同じだというのです。これこそ本当に「あり得ない」ことですね!
いつも思うことですが、マリコポーロ様の女性に対する目はあたたかいです。昔の女性は名前がほとんど記録されておらず、そのせいかわりと忘れられがちです。それにしても、お父さんと息子の嫁が「同じ人」とされていたとは!
未来に発見されて「浄心院」さまも「ほっ」としていらっしゃるかもしれないと思いました。
このようにいろいろなことは、本当に調べてみないと分からないなと思いました。
「間違いのない記録など無い」とも思いました。