(元の記事はこちらです。)
少し横道にそれてしまいました。前の話を覚えていますか?
道灌の後継者を考える②「道灌さまの奥様は…」はこちらとこちらです。
②では、太田道灌の「正室」は「主筋」。扇谷上杉家の姫が降嫁したのではないか。と考えました。
道灌の初代養嗣子、図書助が亡くなったのは「年代記配合抄」によると文明11(1479)年です。このとき道灌は47歳。
わざわざ記録もされ、現実に墓所もあるという彼は、やはり、「道灌後継者」として人々から重要視されていた人物だったのでしょう。
「資忠」という名前であったと言われています。
しかし、残されている太田氏の家系図では、この「図書助」は「資常」であったり、道灌の「甥」ではなく「弟」だったりします。
(太田家の家系図は、どうしてここまで乱れているのでしょうか)
でも、ここではこの「図書助」、甥でも弟でもいいこととします。1479年に彼が亡くなったとき、道灌実子太田資康はすでに生まれていて4歳でした。
これは空想にしかすぎませんが、道灌とその「正室」が②で書いたような関係だったとすると、その関係は「主従」のような堅苦しいものだったのかもしれません。
それにくらべれて、現代のような自由恋愛によって結ばれた(おそらく)若い妻と、わが子資康は、道灌にとってはかけがえのない「本当の家族」だったと思います。人生50年のころの44歳の時の子どもです。その生命の輝き。
道灌はもしかしたら、「資康」を後継者にする道はないか、とも思っていたのかもしれません。
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しかし、「図書助」とされる「資忠」は「太田家記所収源姓太田氏系図」によればこの人が「義芳永賢」であるとされています。臼井城で討ち死にしたのに、葬岩槻養竹院(本当は川島?川越?)とか書かれています。どうしてなのでしょう。
かつて、道灌の直系は「太田資家」であるというのが、心ある埼玉県民の常識でした。しかし、実は、岩付太田家の太田資武の残した「資武状」には、自らの祖を「義芳栄賢」「義芳永賢」「義芳賢公」(梅花無尽蔵等で「道灌」を「灌公」としている例があるので永賢を指すと思われる)と書いているだけで、「資家」ともましてや「資忠」とも書いていないのです。
紀伊大納言家から尋ねられたこの「書状」を、太田家記を書いた人たちが見ていないはずがありません。現に安房守資武のことも「資勝」と間違えた表記をしています。この「系図」残念ながら信ぴょう性がないと言わざるを得ません。
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ともあれ、想像する以外にいきさつは分かりませんが、「これも甥に候故」(太田資武状)と淑悦和尚の「兄」が新たに道灌の養嗣子として選ばれてしまいます。
現実に道灌が甥「資家」(あるいは資忠?)(もしかすると資忠の子?)をさらに養子にしていることは、いろいろな記録に残されており、家系図にも書かれています。
何度も同じことを書いてしまって申し訳ありませんが、「嫡男」がいるのなら、養子をとる必要はないのです。そんなことをしたら、お家騒動になるだけです。
嫡男「資康」がいるのなら、「資家」(あるいは資忠?)を道灌の養子にする必要は全くありません。(くどい)
ですから黒田基樹氏の「江戸太田氏と岩付太田氏」の「資康が道灌後継者であることは明白である」という結論(どうしてそういう結論になってしまったのでしょうか。そのことについてはのちに触れます)から出発してしまうと、「道灌の実子はいない」とし、「義芳永賢」(資家)こそが道灌の養嗣子であるとする「太田資武状」は「信用できない」と思うしかありません。
けれども「太田資武状」は「信用できない」資料なのでしょうか。
「じゃあどうして紀伊大納言は資武に聞いたんだよ」と言いたくもなってしまいます。この系図はどうして、その時生きている人間の名前までも間違えているのでしょうか。
「道灌の後継者を考える ④」に続きます。→こちら