よく考えてみれば、この半年間、分からないながらも「北区史資料集」にもお世話になってきたのでしたね。
今、その中にたった一つだけある「扇谷上杉系図」(「続群書類従」巻153所収)を見ています。
道灌を誅したとする扇谷上杉定正は、本来「当主」になることは期待されてはいませんでした。
定正の父、持朝の跡は兄顕房が継いだのです。しかし、顕房は21歳の若さで亡くなってしまいます。そしてその子政真が継ぐのですが、まだ子どもです。顕房・政真という幼い当主の間は家宰「太田道真・道灌」が柱となって扇谷上杉家を支えたのでしょう。しかし、政真もまた(この系図では)22才の若さで亡くなってしまうのです…。
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そして、気づいたのですが、この系図では政真の死因は「被誅」となっています。えー?という感じです。当主を被誅できる人なんているのでしょうか…。
明らかな間違いも見られるこの系図、書き間違いだと思いますが、「被誅」とは必ずしも暗殺、処刑を意味するものではないのかもしれません。
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52歳まで生きた上杉持朝は、この系図では男女15人の子どもに恵まれています。
(この系図では)男子は長男顕房、次が尊蓮僧正、その次が三浦義同の父高救です。定正はその次なのです。(尊蓮は誤入とされています)道灌死後、ここにも争いは起こらなかったでしょうか。
道灌の実子資康は、三浦義同派に。養子「義芳永賢(資家)」と太田道真は定正派についたのでしょうか。
道真たちはまだ「扇谷上杉乗っ取り計画」(あればですけれども)を捨てられなかったのでしょうか。「計画」は「義芳永賢(資家)」があとを引き継いだのでしょうか。というか、それどころではなかったのかもしれません。山内は三浦高救(あるいは息子の義同)を扇谷の当主にするつもりもあったのでしょうか。道灌の死により、扇谷を離反する家臣たちが多い中、道真たちまでが見捨てたら「扇谷上杉」は無くなるかどうかという瀬戸際だったのでしょうか。
ここはまだ、空想にしても「もやっ」としかまとまれていません。それなのに書いてしまってすみません。
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上杉持朝が52年間で15人もの子女を残せたこと。
ということは、(この系図には載っていませんが、)
その後に家を継いだ朝興も50年間である程度の子女を残せたのではないでしょうか。
また、代々の扇谷家のご連枝。
「その中の一人も太田家に嫁がなかった」ということがあるはずがありません。
また、太田家からそれらの分家に一人も縁しなかったということもないと思います。
「乗っ取り計画」はなかったとしても、「扇谷上杉」と「太田家」は、
親族のようになっていたということはないでしょうか。