岩付太田家の「太田資武」は道灌が暗殺されるとき、「当方滅亡」と言ったと書き残しています。
この、「当方」とは、「扇谷上杉家」であるとされ、道灌はそれほどに扇谷上杉に尽くしていたとされています。
しかし、こうした表現を本当にしていたとしたら、その言い方はやはり当主定正を刺激するものだったと思いますが、どうでしょうか。
もともと定正が扇谷上杉家の当主になれたのも、家宰道灌の決定からでした。すでに道灌はキングメーカーだったのです。
そして「空想」にしかすぎませんが、その上道灌の正室が「扇谷上杉家の姫」だったとしたら。跡継ぎの男子のいない定正に万が一のことがあった場合、道灌が扇谷上杉家そのものを継ぐという可能性も出てきてしまいます。
そう考えれてみると、弟の子に先に「太田」を継がせる道筋をつけていたことも、「扇谷上杉乗っ取り計画」(←嫌な言い方ですみません)の一部だったのかもしれません。この計画は一族を挙げてのものだったと思うのです。
定正は、愚かだったわけではなく、身の危険を感じたのでしょう。「やらなければやられる」と思ってしまったのかもしれません。(それは言われるように錯覚だったのかもしれませんが)
太田道灌が暗殺されなければ、太田家は戦国大名になったといわれています。しかし、そこにはおびただしい血が流れたことでしょう。太田道灌は(道真や一族も)平和的にそして自然に「扇谷上杉家を継ぐ」方法を考えていたのかもしれないと思うのです。
道灌が亡くなり、山内と扇谷は手切れ、敵対します。なぜでしょう。山内が道灌を邪魔にしていたのなら邪魔な道灌を誅してくれた扇谷上杉定正は「ありがたい存在」です。手を組み続けるべきなのではないでしょうか。ここの所はまだ資料などをちゃんと調べていません。すみません。
けれども道灌による「扇谷上杉乗っ取り計画」があったとしたら、それは山内にとってもそう悪い計画ではありません。
山内家宰長尾景信の娘である定正正室のことを考えてみましょう。自分と血のつながるいとこ(あるいは義理の兄)が家を継ぐ「扇谷上杉乗っ取り計画」は(もしあったとすればですが)、男子のいない彼女にとって、将来の安泰を約束してくれる計画だったに違いありません。
跡継ぎもなく、もはや実家を頼りにはできない定正正室が頼るのは、伯父太田道真と太田家の養子しかいなかったのではないでしょうか。
養子、義芳永賢(資家)が「養竹院」という号なのは、この辺りから来ているのではないでしょうか。