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扇谷上杉定正の正室は山内家宰長尾景信の娘です。そして、道灌の母の姪に当たる方です。
であれば、長尾景信の姉か妹から生まれた道灌の正室に扇谷家の姫が降嫁してきてもそうおかしくはありません。
そうだとしたら。
上杉定正が、暗殺を考えるほどに道灌を警戒した理由はそこにもあったのかもしれません。
つまり、道灌と定正正室は「いとこ」なのですが、仮に「持朝の娘」と道灌が結ばれていたとすれば、二人は「兄妹」となるのです。「嫡子誕生が望めないような女性」は、もしかすると定正の姉かもしれません。そうだとすれば、道灌は定正の「義理の兄」となります。
「道灌が暗殺されていなければ、太田家は戦国大名になった」と言われています。道灌はそれだけの実力を持っていたでしょう。しかし、もしこの縁組があったとすれば、そう無理をしなくても「扇谷上杉の当主」そのものになれたのではないでしょうか。
そう考えると道灌が言った最後の言葉「当方滅亡」の「当方」とは。単なる忠節とはまた違う意味を持ってしまいます。けれども、家宰太田道灌こそ「扇谷上杉」そのものだったのです。道灌の死は悲劇以外の何物でもありません。
※※※
実子とされる資康が生まれたとき、道灌は43才でした。
資康の母もまた明らかではありません。
けれども母の身分が低ければ、やはり、資康は後継ぎとして認められなかったのではないでしょうか。まだ、そんな時代でもありました。
(そして、後継者とされたこの「甥」とされる人物「図書助」、そして「資家」(義芳永賢)。彼らはもしかしたら、太田家の血筋とともにこの「正室」の縁者の血も引いていたのかもしれません)
(そういえば、太田資武のいう自らの祖「義芳永賢」の法名「義芳」は、扇谷上杉朝良の法名「建芳」に似ていますね)
そうだとしたら。
自分を認めなかった扇谷上杉。道真。資康がこの二つを憎んだことは想像に難くありません。「父の復讐」を旗印に。
「自分こそ、太田家の正統である」と資康は叫びたかったのかもしれません。
「道灌の後継者を考える ③」に続きます。→こちら
前回はここで終わっていました。
けれども、その先を「妄想」するようになってしまっています。
それについては次回。
次回「扇谷上杉乗っ取り計画?」は、こちら