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太田資康は「太田道灌の嫡子」とされていますが、嫡子がいるのなら、なぜ道灌は甥を養子にしたのでしょう。
一説によると「太田図書助資忠」が道灌初めての養子にされた後に、実子である資康が生まれたとされていますが、もし嫡子が生まれる可能性があるなら、早い段階で甥を養子にする必要はないのではないでしょうか。
(そして「図書助」が下総臼井で戦死したあとも、「資家」が養子とされているのはなぜなのでしょうか。)
様々な記録で「図書助」とされる人物が早い段階で道灌の「養嗣子」とされていることが残されています。臼井城には「墓」も残されています。
そこには何か事情があったのだろうと思います。が、「嫡子が生まれないであろう」という判断は道灌「正室」に関係することなのではないでしょうか。
なぜかというと、後継ぎを生むことができない(であろう)「正室」への遠慮があるために、「養子」をとったのだろう。と思えるからです。しかし、道灌の正室は誰なのか定かではありません。
道灌の後継者を考えるには、まずこの道灌の「正室」は誰だったのかも考えなければならないと思いますが、どうでしょうか。
そして、そこまでの配慮をされる「正室」であれば、おそらくその人は「主筋」。
道灌の正室は扇谷上杉家から「降嫁」してきた人なのではないでしょうか。もしかすると道灌の正室は記録に無い持朝の娘とかなのではないでしょうか。
◇道潅の「正室」が扇谷上杉家の人間だったとしたら。◇
もし、仮に道灌正室が「持朝の娘」だとすると、道灌と定正は「義理の兄弟」になります。
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