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◇なぜ、道灌嫡男だという「太田資康」は、道灌死後太田道真のもとに行かなかったのでしょう◇
本当に太田家の嫡男であったとしたら、なぜ、太田資康は
太田道真の所に行かなかったのでしょうか。この点がよく私には理解できない所です。
道灌亡き後、太田家に絶対の影響力を持てるのはその父道真を置いて他にはいなかったはずです。
しかし、道灌の父道真は、特に「資康」に対して何かをしているという形跡がありません。
「資康は、元服するとすぐに人質という名目で古河公方家に避難した」と何かに書いてありましたが、その古河公方足利家を鎌倉から古河に追いやった張本人が資康の祖父、道真です。そんなところに避難して大丈夫だったのでしょうか。
また、もしか本当に「避難」したというのなら、道灌死後頼るべきは「古河公方家」だったのではないでしょうか。
道灌死後、資康は「道灌の死後、家督を継ぎ江戸城に入る」と何かに書いてありました。
しかし、すぐに上杉定正に追い出されてしまい、甲斐に逃げ、その後山内上杉顕定の家臣となっています。
なぜ甲斐に逃げてしまったのでしょう。
1497年まで存命であったとされてきた道真ですが、黒田説では88年で死去したとされました。
しかし、死去したとされるその年には他でもない万里集九が、道灌三回忌をともらうためか越生(おごせ)・龍穏寺にやってきています。
道真は、少なくとも道灌死後3年間は越生(おごせ)で健在であったのです。
同じ88年に万里集九は、越生に近い須賀谷原の資康のもとにも訪れています。
この時、「長亨の乱」の真っ最中です。資康は、山内側で参陣していました。
「はみ唐」さんによると、万里集九は資康のもとには、1ヵ月も滞在していたということですが…。
※※※
道灌の父道真は、扇谷上杉から動くことはありません。
なぜなのでしょう。
道真は、「扇谷上杉」家宰でした。興隆する「扇谷上杉家」を築いてきたのは、道灌以上にこの太田道真なのです。
先ほど言ったように上杉の敵、足利家を鎌倉から古河に追いやったのも彼でした。古河公方に敵対していたから「江戸城」「河越城」を築いたのです。そしておそらく「岩槻城」も築いたのです。
道真こそ「扇谷上杉」そのものです。そんな彼が、「扇谷上杉」から離れることができるでしょうか。
例え、かけがえのない「息子」を失ったとしても…。
そして、静かに悲しみに耐える「道真」には、定正も手を出すことができません。
私が考える「太田家」の後継者とは、この時この「太田道真」から「家督」を託された人物です。違うでしょうか。
その人は、長らく「太田資家」とされてきました。
通野昭壽著「戦国武将 太田資正ー岩付城主、岩付太田氏及び当時の情勢ー」では、この時の道真の様子がこう記されています。
「わが子道潅が主君に謀殺された悲憤を越えて、資家(養子)が引き続き主君に仕えることを決意させた。(略)弔事を営んだ道真は、資家・彦六父子を伴い定正に儀礼を済ませ、武州河越城西門内の道潅屋敷に入った」
と。
この時、彦六(資頼)ももうけている「資家」は家督相続者として安定していました。
そして通野氏は、「現世のこと、今後のことは、資家・彦六(資頼)に託した。」と、太田道真が家督を譲ったのは「太田資家」であることを記しています。
この通野氏の見解がそれまでの心ある埼玉県民の常識だったのです。
「道灌の後継者を考える ②」の1に続きます。→ こちら