むしろ
「太田資康の子孫が徳川家康夫人になったからこそ、太田道灌は消えなかった」
そんなことはないでしょうか。
有名な「山吹の里」の伝説。埼玉にも東京にも神奈川にもあります。
「コノシロ」という魚からここに築城したという江戸城築城の伝説。
神田の太田姫稲荷。
暗殺の悲劇があった相模。
黒いネコ。
さいたま市には「三貫清水緑地」といって、道灌が「おいしい水」にお金をくれたという伝説の土地がありますが、似たような伝説は東京にも神奈川にもあるのです。
道灌さまは「団子がおいしい」と言ってはお金を下さり、「お茶がおいしい」と言ってはお金をくださいます。
この伝説の広がりは何なのでしょう。そして、その伝説を愛し、
語り伝えていた名もなき民衆にとって「道灌伝説」とは何だったのでしょう。
これらすべてが本当にあったことなのでしょうか。そんなはずはありません。では、「史実」ではないから軽視してもいいのでしょうか。また、この伝説のどれが本当かと突き詰めて考えることはそんなに大切なことでしょうか。
道灌の伝説群。それは、江戸城に君臨した徳川幕府の祖、徳川家康夫人である英勝院の祖先であるという一事からはじまっているのではないでしょうか。本来ならば徳川幕府の支配する江戸にかつての江戸城主の伝説など禁忌なはずです。
旧主のもとで思う存分に活躍できたかつての「北条」「上杉」等の旧家臣たちにとって、「太田道灌の伝説」は語ることのできる数少ない「栄光」であったに違いありません。
それが証拠に、格上のはずの山内上杉の家宰長尾景仲のことなど誰からも知られていませんが、同時代の扇谷上杉の家宰太田資清(道真)は、道灌の父として知られています。
「英勝院」が存在しなければ、本当にすべての歴史が消えていたのではないでしょうか。
道灌をここまでの「伝説的英雄」にしたのは、「英勝院」なのです。違うでしょうか。
※※※
「英雄」道灌の墓所はあちこちにあります。が、その父太田道真の墓所は一つ。
そこは、埼玉県の越生です。
(そこもまた「山吹の里」として知られています)
道灌以上の歌人として知られていたという文化人太田道真は、
そこで道灌、万里集九を交えて詩会を開いたというのです。
悲劇はそのわずか1か月後に起こりました。
太田家に隠然たる影響力を持っていたに違いない道真は、なぜ嫡男資康から遠く離れた越生などにいたのでしょう。
祖父道真は孫資康のことをどう思っていたのでしょう。
◇なぜ、道灌死去の後、資康はまだ存命する太田道真のもとに行かなかったのでしょうか。◇