「『太田資康』その栄光 」① | ゆうゆうねこの感想ブログ

ゆうゆうねこの感想ブログ

「会計ねこ子の感想ブログ」から
ゆうゆうねこの感想ブログとなりました。
内容は、本などの感想です~~

☆太田道灌の後継は、

 

実子とされる太田資康を祖とする「江戸太田」家と甥で養子の太田資家を祖とする「岩付太田」家に分かれたとされてきました。

 

どうしてそのようなことになったのでしょうか。

 

そしてまた、今「最新研究」として「太田永厳」という人物が太田道灌の後継者であるとされています。

 

その太田永厳とは太田資武状にある自らの祖「義芳永賢」とは違う人なのでしょうか。

 

そして、「太田六郎資定」とは誰なのでしょう。

 

あとそれから「太田顕資」とは誰なのでしょう。

 

そのことについて、

「もう一度、最初っから読みたい」というご意見をいただきました。

 

ですので「まとめページ」を作ろうと思ったのですが、

その後、私にも新たに本を読んだり、他の方のブログに接したりしながら分かったことやもう少し説明したいことが出ても来ました。

 

かなり追加もありますので、これからしつこいようですが、

「振り返り」シリーズとしてしばらく続けさせていただきたいと思います。よろしくお願いいたします☆

 

 

※※※

 

〇非業の死を遂げた太田道灌。その家督継承はスムーズだったのでしょうか。〇

 

 

かつては、実は「岩付太田」こそが太田道灌直系であるということが心ある埼玉県民の常識でした。

 

 

そうは言っても、心ある東京都民にとって、また神奈川県民にとっては、道灌後継者は「江戸太田」の「太田資康」しかいないと思います。

 

 

2対1、しかも相手は巨人東京とおしゃれ神奈川です。この相続争いは埼玉に非常に不利でした。

 

 

それでも、練馬の前島康彦先生のようにかつての「研究家」は非常に岩付寄りな見方をしてくださっていたのです。

 

 

前島先生は

「封候になった資宗の系統は何といっても強い。しかし、亡び去った岩付系太田氏と何れが筋目が正しいかといえば、それはやはり早く亡びた岩付系である。」(前島康彦「岩付城主太田氏衰亡論」より)とさえ言ってくださっていました。
 
 
しかし、大学院在学時代の黒田基樹氏は、「江戸太田氏と岩付太田氏」という論文の中で、道灌の後継者として「太田永厳」という人物に注目させながらも、「おわりに」では「江戸太田氏の始祖資康が道灌の家督相続者であることは明白である」としています。
 
 
それはなぜか。
 
 
黒田氏は「資綱(重正)の妹が徳川家康側室英勝院殿、嫡子が江戸幕府若年寄太田資宗であるから、その系譜はかなり信用しうるものと思われる」とします。
 
 
…………。
 

 

ここでは「太田永厳」も「想定が許される場合」において考えられるという存在でしかなかったのでした。

 

 

(この「太田永厳」については、おいおいまた触れていきます。)

 

 

そんなことよりも、ここでは「太田資康」について。

 

 

「太田資康」とは誰なのでしょうか。

 

 

彼が「太田道灌後継者」ではないとは言えません。

しかし、そんなことを言うよりも、ずっと大切なことは

黒田氏が言う通り、彼が

「徳川家康夫人英勝院の祖先である」ということです。

 

 

こういう説明の方が、より彼の「真実」を語ることができるのかもしれません。

 

 

いや、むしろ

「太田資康の子孫が徳川家康夫人になれたからこそ、太田道灌は消えなかった」

と言えるのではないでしょうか

 

 
太田道灌は英雄でしょう。しかし、誤解を恐れずに書いてみますが、
本当の英雄は江戸幕府を打ち立てた「徳川家康」であり、
その家康を支えた「英勝院」なのです。
 
 
本当に偉大だったのは、英勝院という一人の女性なのです。