☆太田道灌の後継は、
実子とされる太田資康を祖とする「江戸太田」家と甥で養子の太田資家を祖とする「岩付太田」家に分かれたとされてきました。
どうしてそのようなことになったのでしょうか。
そしてまた、今「最新研究」として「太田永厳」という人物が太田道灌の後継者であるとされています。
その太田永厳とは太田資武状にある自らの祖「義芳永賢」とは違う人なのでしょうか。
そして、「太田六郎資定」とは誰なのでしょう。
あとそれから「太田顕資」とは誰なのでしょう。
そのことについて、
「もう一度、最初っから読みたい」というご意見をいただきました。
ですので「まとめページ」を作ろうと思ったのですが、
その後、私にも新たに本を読んだり、他の方のブログに接したりしながら分かったことやもう少し説明したいことが出ても来ました。
かなり追加もありますので、これからしつこいようですが、
「振り返り」シリーズとしてしばらく続けさせていただきたいと思います。よろしくお願いいたします☆
※※※
〇非業の死を遂げた太田道灌。その家督継承はスムーズだったのでしょうか。〇
かつては、実は「岩付太田」こそが太田道灌直系であるということが心ある埼玉県民の常識でした。
そうは言っても、心ある東京都民にとって、また神奈川県民にとっては、道灌後継者は「江戸太田」の「太田資康」しかいないと思います。
2対1、しかも相手は巨人東京とおしゃれ神奈川です。この相続争いは埼玉に非常に不利でした。
それでも、練馬の前島康彦先生のようにかつての「研究家」は非常に岩付寄りな見方をしてくださっていたのです。
前島先生は
ここでは「太田永厳」も「想定が許される場合」において考えられるという存在でしかなかったのでした。
(この「太田永厳」については、おいおいまた触れていきます。)
そんなことよりも、ここでは「太田資康」について。
「太田資康」とは誰なのでしょうか。
彼が「太田道灌後継者」ではないとは言えません。
しかし、そんなことを言うよりも、ずっと大切なことは
黒田氏が言う通り、彼が
「徳川家康夫人英勝院の祖先である」ということです。
こういう説明の方が、より彼の「真実」を語ることができるのかもしれません。
いや、むしろ
「太田資康の子孫が徳川家康夫人になれたからこそ、太田道灌は消えなかった」
と言えるのではないでしょうか。