(東日本大震災から7年、遭難された方々のご冥福と被災地の復興をお祈りします)
でもまだ続くよ、「太田永厳」。今回はちょっと厳しいことも書かせていただきます。「永厳」ですし…。
堂々の前回、第5回はこちら↓
「年代記配合抄」で太田道灌の後継をした記録されている太田六郎右衛門。
そして、その跡を継いだとされる「備中守」。
黒田基樹氏は「備中守」とは「太田永厳」であるとしています。しかし、それが太田資武の言う自らの祖先「太田永賢(=資家)」であっても不思議ではないとここでは考えてきました。
シンプルに考えれば「太田永厳」の書状は「資家とされる太田永賢」のものであると考えることが一番妥当であると思います。
しかし、黒田氏は”「資家」の法名として伝えられているものも、「永賢」は備中守の法名永厳と同音であるから、実際には備中守のものであった可能性が高いとみられる”(2013年「総論 岩付太田氏の系譜と動向」)
として、太田永厳と永賢が同じと認めても、それを資家と比定することは考えもしないのです。それはなぜでしょう。
この「六郎右衛門」が江戸太田家の「太田資康」であると、黒田氏は最初思っていたのです。北区史編集をしていた若き日の黒田氏にとって「江戸太田氏の始祖資康が道灌の家督継承者であることは明白である」(江戸太田氏と岩付太田氏)という見解は、空気のようなもので(しかしそんな考察は別に「発見」とは言えません)ガッチリと思考回路に組み込まれてしまっているのでしょう。しかし、さすがにそれを言い続けることは苦しかったのでしょう。
そして、第3の家系が誕生したのです。違うでしょうか。どうしても永厳を岩付太田と結びつけたくないという思い。それが「太田永厳」論です。違うでしょうか。違うと言ってほしい。道雄なのか道薫なのか分からない、資雄なのか名前も分からない。でも絶対に「資家」ではない。そんなことがあるでしょうか。
「太田永厳」はその名前以外「伝承」さえも残されていないのです。
それは、「太田永厳」が太田資武の言う「永賢」だからです。淑悦和尚の兄、資頼の父だから。違うでしょうか。養竹院に眠っておられる方が「太田永厳」なのです。
岩付城を追われた資頼が石戸城に退却したのは、そこが根拠地だからではなく、「永賢(厳)」が眠る養竹院のある太田家の「聖地」だからです。資正が養竹院のことを資武に「常に申し聞かせ」ていたのもそこに「太田永賢(厳)」がいるからに他なりません。ちがうでしょうか。
それでも、こんなにも家系図に乱れがあるのですから、どんなに状況が整っていても絶対に「そうだ」と断定はできません。
ここでも私は「専門家による比定は慎重にしてほしい」と願うしかないのです。
しかし、シンプルに考えれば「太田永厳」の書状は「資家とされる太田永賢」のものであると考えることが一番妥当なのではないでしょうか。なぜ切り離して考えてきたのでしょう。
分からないことだらけなので、何でも自分に都合のいいように操作できる、そんなところに「学び」があるでしょうか。誠実に、謎は謎のままで分かるまで考え抜ける環境こそ、教育の場、「学びの場」と言えるのではないでしょうか。
しかし、いろいろ疑問はあっても、黒田氏の研究がなければ私もここまで書き進むことはできなかったのです。
感謝しています。
(でも、まだ続きます…。)
感動の「太田永厳について」最終回に続きます。→ こちら