太田永厳について ⑤ | ゆうゆうねこの感想ブログ

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岩付太田の祖「太田永賢」こそが、太田家家督相続者「太田永厳」ではないか(なんかややこしい)と考える、堂々の第5回です!

 

第4回はこちら↓

 

太田資家=太田永賢=太田永厳説を言うのに最大の難間は「石川忠総留書」にある大永四(1524)年正月十日の記録です。ここには「為代官太田備中入道永厳出仕」とあります。
 
しかし養竹院に残る「資家」の位牌によると資家は大永二(1522)年の正月十六日が命日とされているのです。
 
「資家」が大永二(1522)年に亡くなっているのなら、大永四(1524)年に上杉朝興のもとに出仕した「太田永厳」は「資家」であるはずがありません。
 
しかし、まず現在養竹院殿に残る位牌は、後世に作られたものだということを言わなければなりません。
 
何度も書きますが、資武は自らの祖を「永賢」としか記していないのです。菩提寺養竹院に送った資武状では兄の法名が間違っていることを指摘しています。資武状>養竹院の力関係なのです。檀家太田家が武蔵を離れ、何十年になるのでしょうか。
 
遠国口惜候事。
 
と資武は書き残しています。
 
その時の資武状では「位牌御健候はん次第の事」として、自らの祖のことを養竹院殿義芳永賢庵主」と書いています。法名は「義芳永賢」が正しいのです。
 
しかし、現在残されている位牌は「義芳道永」となっています。道永、永賢二つの法名を持つ可能性もあります(太田全顕の例など)が、これは「道真」「道灌」に合わせようと思った誰かの操作かもしれません。現在残されている位牌の記述には間違いが生じている可能性があるのです。
 
また、肝心の「石川忠総留書」にも、同じように間違いが散見されます。
 
例えば同じ大永四(1524)年6月の記録には「田美濃守入道道可帰参」とあって、これを北区史史料集は「田」の誤りとしています。本当でしょうか。本当だとすれば、かなりずさんな写本です。
 
「年代記配合抄」にも大永二年と大永四年の間違いがあります。また、岩付二頭猫たちがやってきた氏康さま引退の年も違うようです…。
 
コピーも消しゴムもない当時、間違いのない記録などありません。ある程度の間違いは許容範囲としてスルーされてきたのです。
 
大永四(1524)年、太田永厳は、正月だから出仕したわけではありません。「朝興河越着陣」とあるように、いよいよ北条氏綱が武蔵を攻略してきたのです。13日には、江戸城が落城しています。

ここで、「太田永賢(資家)」を「太田永厳」と考え、大永二年の死没が大永四年であったと考えると、いろいろなことがすっきりします。
 
まず、正月10日に代官(朝興の)として永賢(厳)は出仕します。軍の指揮をとるためでしょう。しかし、わずか3日後に江戸城は落城してしまいます。「太田源次郎謀反」(年代記配合抄より)とあって裏切りがあったようです。この太田源次郎は資康の息子とされる「太田資高」であるとされています。
 
(やはり、大藤一族の入込作戦が成功したのでしょうか)(←「城をひとつ」伊東潤著より)
 
江戸落城の次の日には、永賢(厳)の主君上杉朝興は河越城からさらに群馬よりの武州松山城に退却します。(石川忠総留書より)
 
なぜでしょうか。そうとうなことがこの時あったように思います。大永四年以降、太田永賢(厳)の記述はなく、太田資頼が太田家の中心となっていくことから考えると、上杉軍の指揮を執っていた家宰太田永賢(厳)は、この戦いのさなかで亡くなったのだと考えられないでしょうか。(もしかすると10~13日に負傷する等体調を崩していて、後日死去したので「討死」と書かなかったのかもしれません。)
 
そう考えると、年代は違っても命日の正月十六日という日にちは「永賢」と「永厳」を結び付けてくれるような気がします。
 
太田永厳について ⑥に続きます。→ こちら