太田永厳について ④ | ゆうゆうねこの感想ブログ

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戦国ラストサムライ、太田資武は自らの祖先を「太田永賢」であるとしか書き残していません。(しつこい)

 

「太田永厳」とは資武の言う「太田永賢」なのではないか?と考える4回目です。

 

3回目はこちら↓

 

「年代記配合抄」には、太田道灌が暗殺される文明18年の記録の前前年に「道可生、父ハ太田美濃守」となっています。この記述から「資頼(道可)」の父とされる「資家(永賢)」は、美濃守だから道灌後継の「備中守」ではないと考えられているようです。

 

しかし、よく考えてみれば、この「備中守」が黒田基樹氏の言う家督相続者「太田永厳」であって、それが太田資武の言う自らの祖「太田永賢」であっても不思議ではないのです。

 
例えば、「美濃守」の息子である「道可(資頼)」と「備中守」である「永賢(資家)」がそれこそ養子縁組でもしたら、「父子」になれるでしょう。
 
(「太田潮田系図」では、「道可(資頼)」は「永賢(資家)」の孫の義理の父ということになっています。)
 

大体、

◇傍系に過ぎない太田美濃守の子どもが生まれたことをなぜ「年代記」が記すのでしょう。◇

 

また、大永2年の記録には、「二月二日資正誕生、父は道可」と書いてあります。

 

これまた

◇道可(資頼)の嫡男誕生の記録がないのに、どうして次男太田資正誕生の記録だけをしているのでしょうか。◇

 

 
この「年代記配合抄」とは、やはり少なくとも太田資正が武将として名高くなって以降に書かれたもので、(江戸時代成立と言われていました)道灌が生存していたころや「備中守」が生きていたころに書かれたものではないのです。また、家系図が乱れているように、ここに絶対に乱れがないとも言えませんよね。
 
 
資武は「永賢」の受領名も書いていません。年代記を書いた人は、資頼が美濃守なのでその父も美濃守と思ってしまったのかもしれません。そもそも「年代記配合抄」とは誰が書いたものなのかもわからない記録なのです。
 
 
しかし、黒田氏は”「資家」の法名として伝えられているものも、「永賢」は備中守の法名永厳と同音であるから、実際には備中守のものであった可能性が高いとみられる”(2013年「総論 岩付太田氏の系譜と動向」)

 

として、太田永厳と永賢が同じと認めても、それを資家と比定することを考えもしないのです。それはなぜでしょう。
 
 
太田永厳について ⑤に続きます。 → こちら