以前、「岩付太田家」と「江戸太田家」について書いていた時、この二つは江戸時代草創期の誰かが「創作」した家系なのではないかと考えました。
↓そのことはここに書いてあります…。
※太田道灌公の二つの後継について考えるシリーズ ①~④※
なぜ「太田資康」という実子がいるのに、「太田資家」という養子をとらなければならなかったのでしょう。道灌公の正室は扇谷上杉家からの降嫁ではないかと考えました。正室への配慮から、実子(庶子?)資康がいるのに養嗣子を取ったのではないかと考えたのです…。
「岩付太田家」の祖「資家」と「江戸太田家」の祖「資康」。二人を合わせると
「家康」
となると、以前得意気に書いていました。
しかし、この二つの家系が「操作」されたものであることは、ずっと前から言われていたことでした。すでに江戸時代からです。
新井白石は「藩翰譜」という系譜集の中で「太田美濃守資政入道三楽は、道灌四代の嫡流にして」「太田安房守(資武)といふは(略)彼太田の嫡流」とさらっと書いています。
さらっと書いてはあっても、こう書くことは、非常に勇気がいることなのです。
今のように言論の自由が認められているわけではありません。公的には英勝院の血筋である江戸太田家が嫡流であるとされているのです。そこに異議を立てることは、反社会的な思想を持つ人間と見られる危険もありました。普通はできないことなのです。
それでも新井白石がこう書いたのは、これが「真実である」という確信があったからに他なりません。
(また「太田家記」編纂委員会の方々も幾度も「太田安房守より」と記すことによって「太田安房守資武」が実は道灌嫡流であることを残そうとしてくれていたのかもしれません。)
しかし、21世紀、平成の大学院生黒田氏の論文では
「資綱(重正)の妹が徳川家康側室英勝院殿、嫡子が江戸幕府若年寄太田資宗であるから、その系譜はかなり信用しうるものと思われる」(江戸太田氏と岩付太田氏)
とまるっきり、江戸時代草創期の認識に逆戻りしているのです。どんな論文を書こうと自由ですが、読んだとき本当にがっかりしました。
そういえば、黒田基樹氏が担当編集した「北区史資料編古代中世2」には、この新井白石の「藩翰譜」は掲載されていません。なぜなのでしょう。北区史には関係ないのでしょうか。
「知らしむべからず、寄らしむべし」という姿勢が、江戸時代の政治の良くない一面だといいます。
例えば、江戸時代には、権威・権力のある人間しか「法律」を知ることもなく、庶民は自分の行動が何か罪に問われるのかどうかも分からないまま生活をしていたのです。ある日「エライ人」から「○○の罪」と言われれば「おかしい」と思っても、それに従うしかありませんでした。
庶民は法律を「知る」必要はなく、エライ人に「従う(寄る)」しかなかったのです。
黒田氏の著作を読むと、私にはこの「知らしむべからず、寄らしむべし」という言葉が浮かびます。
(↑そういう感想を持つ人がいるということです、悪しからず)
そんな社会でも自らの信念に従い「正しい」と思う行動をした人たちがいました。その一人が新井白石だったのです。