「城をひとつ」の太田永厳 | ゆうゆうねこの感想ブログ

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伊東潤氏はその著「黎明に起つ」で、

 

「ちなみに道灌の死後、太田家は二つの系統に分かれていた。

道灌を殺されたことで、扇谷上杉家から離反した嫡男資康の太田家と、道灌の死によって太田家の名跡を継いだ永厳の太田家の二系統である。

宗家は後者となり、後に前者は江戸太田家、後者は岩付太田家となっていく。

 

と書いており、「江戸太田でも岩付太田でもない第3の家系である太田永厳」とは違う見方です。

 

ほっと一安心。

 

そして、「城をひとつ」でも

 

「使者は太田惣領家の当主・永厳である。

同じ扇谷上杉家中にありながら、資高の太田家と永厳の太田家という二つの系統に、太田家は分かれていた」

 

とあって、ここでも「江戸太田でも岩付太田でもない第3の家系である太田永厳」は用いられていないのです。

 
しかし、その後、文章は
 
「かつて道灌が謀殺されたことで、扇谷上杉家を離反した資高の父・資康は、後に扇谷上杉家に復帰するが、惣領家の座は戻してもらえず、惣領は離反しなかった永厳の太田家となっていた。」
 
と続いてしまいます…。
 
そうでしょうか。
ここでも私はしつこく
 
◇資康という嫡男がいるのに、なぜ「図書助」や「永厳(賢)=資家}という養子を取るのでしょうか、お家騒動になるだけでしょう◇
 
と言わなければなりません。
 
しかし、「城をひとつ」では
 
またさらに、主人公信基が資高に
 
「そのご主君が、道灌公を殺したのではありませんか」
「―」
「しかもその時、傍流から太田家の当主を立てたため、資高様は太田惣領家の当主にもなれずじまい」
 
とあって、伊東潤氏は「後に岩付太田となる永厳の家系」を惣領と認めてくれてはいるものの、その座は「道灌死去後」としているのです。
 
ということは。
 
(そう思っていたという方もいらっしゃるかもしれませんが)、もしかすると
 
◇永厳(賢)=資家は、道灌の養子ではなく太田道真の養子だったのではないでしょうか◇
 
そうだとすると、「永厳(賢)=資家」の弟叔悦禅師が家系図上道灌の甥だったり弟だったり定まらないことの謎が解けます。

 

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