道灌の後継者を考える ③ 道灌の家族 | ゆうゆうねこの感想ブログ

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(また道灌)

②では、太田道灌の「正室」は「主筋」。扇谷上杉家の姫が降嫁したのではないか。と考えました。


 
 
道灌の初代養嗣子、図書助が亡くなったのは文明11(1479)年です。
 
わざわざ記録もされ、現実に墓所もあるという彼は、やはり、「道灌後継者」として人々から重要視されていた人物だったのでしょう。
 
「資忠」という名前であったと言われています。
 
しかし、残されている太田氏の家系図では、この「図書助」は「資常」であったり、道灌の「甥」ではなく「弟」だったりします。
 
(太田家の家系図は、どうしてここまで乱れているのでしょうか)
 
でも、ここではこの「図書助」、甥でも弟でもいいこととします。1479年に彼が亡くなったとき、資康はすでに生まれていて4歳でした。
 
これは空想にしかすぎませんが、道灌とその「正室」が②で書いたような関係だったとすると、その関係は「主従」のような堅苦しいものだったのかもしれません。
 
それにくらべれて、現代のような自由恋愛によって結ばれた(おそらく)妻と、わが子資康は、道灌にとってはかけがえのない「本当の家族」だったと思います。
 
道灌はもしかしたら、「資康」を後継者にする道はないか、とも思っていたかもしれません。
 
しかし「これも甥に候故」(太田資武状)と淑悦和尚の「兄」が新たに養嗣子として選ばれてしまいます。
 
現実に道灌が甥「資家」をさらに養子にしていることは、いろいろな記録に残されており、家系図にも書かれています。
 
何度も同じことを書いてしまって申し訳ありませんが、「嫡男」がいるのなら、養子をとる必要はないのです。そんなことをしたら、お家騒動になるだけです。
 
嫡男「資康」がいるのなら、「資家」を道灌の養子にする必要は全くありません。(くどい)
 
ですから「資康が道灌後継者であることは明白である」という結論(どうしてそういう結論になったのでしょうか。そのことについてはのちに触れます)から出発してしまうと、「太田資家」こそが道灌の養嗣子であるとする「太田資武状」は「信用できない」と思うしかありません。
 
けれども「太田資武状」は「信用できない」資料なのでしょうか。
 
「年代記配合抄」には「太田図書助(略)討死」とあって、亡くなったとされる臼井城にはお墓もあるのです。「太田資武状」の記録と一致していますけれども…。