「道灌の後継者を考える ④ 太田資武状」 | ゆうゆうねこの感想ブログ

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太田資武状では「道灌の実子これ無く」と、「実子などいなかった」ことが書かれています。
 
資武は「自分の家系を飾ろう」と、江戸太田家に「岩付太田家」が道灌直系であると「ねつ造」して書き送ったのでしょうか。
 
何のために。
 
◇そんなことをして、資武に何の得があるというのでしょう。◇
 
むしろ、「道灌直系じゃないです」と江戸幕府要人で徳川家康夫人の甥に書いて送った方が得だったのではありませんか?
 
江戸時代、出世のために「家系」を売ることは少なくなかったのです。
 
「江戸太田が本家で自分たちは道灌直系ではありません」と太田資武が書いて送っていれば(その見返りとして)「譜代家のご連枝」として一万石くらいの小大名になれたかもしれない(すぐ改易される運命だとしても)です。少なくとも「直参旗本」くらいにはなれたのではないでしょうか。
 
でも、太田資武はそうしませんでした。
 
資武が親に似てKYでなければ、そうしていたに違いないのです。「江戸」側はそういう「忖度」(そんたく)も期待して資武に尋ねているのです。違いますか。
 
論文の中で、さんざん都合よく引用しているくせに「この『太田資武状』には、『鎌倉大草紙』や『太田道灌状』の影響が認められるので、にわかには信用しえない。」(江戸太田氏と岩付太田氏)と黒田基樹氏は書いています。
 
そうでしょうか。
 
「鎌倉大草紙」も、取材をして書いているはずです。そうでなければその時代を生きた「読者」から見捨てられてしまうでしょう。「道灌状」は道灌が自ら書いたものです。信じていいと思います。「軍記物」と「道灌状」と資武が親太田資正から聞いた口伝が合致していれば、それは「真実」といえるのではないでしょうか。
 
(それとは次元が違うかもしれませんが、江戸時代、江戸町奉行の管轄地でもなく、江戸の境界を表す「朱引き」という範囲からも外れてしまった「赤羽岩淵」は「江戸」ではないと言えます。けれどもそうなのでしょうか。江戸名所図会に描かれているように、そこもまた「江戸」と思われていたのです。その静勝寺にある道灌像は、江戸時代のもので道灌の姿に似ているのかどうか。けれども、多くの人がその姿を「道灌公」と見てきたのです。そこには「価値」があるのではないでしょうか。)
 
※※※
 
英勝院と資武は同年代です。資武はかつて資正のもとにいたころの重正・お梶兄妹のことを知っていたはずです。(これは前島康彦氏もご指摘になっています)英勝院とは誰なのか分かっていたのです。
 
その幼くして、しかし間違いなく美しかったであろうお梶。そして、太田家嫡男として大事に育てられていた若武者資武。
 
お梶は資武のことをどう思っていたのでしょう。
 
何も。
 
ええ、そうでしょうとも。
 
しかし、空想します。その後、老人と言える男性のもとに嫁いだお梶にとって、資武はどういう存在だったのでしょうか、と。
 
ここは空想ですが、もしかすると英勝院は資武たちを取り立てようとしていたのかもしれないとほんの少し思います。
 
しかし資武はKY的に「道灌実子これ無く」とお梶にたてつくようなことを書いてしまうのです。ばかばか。