こんなに有名な伝説的武将、太田道灌さま。今日はその奥様について考えてみましょうか。
前にも書きましたが、太田道灌にもし嫡子が生まれる可能性があるなら、早い段階で甥を養子にする必要はないのです。
しかし、様々な記録で「太田図書助」とされる人物が早い段階で道灌の「養嗣子」とされていることが明らかになっています。
そこには何か事情があったと思いますが、「嫡子が生まれないであろう」という判断は道灌の「正室」の問題があったのでは?と推察できます。
後継ぎを生むことができない(であろう)「正室」への遠慮があるために、「養子」をとったのだろう。と思えるからです。しかし、道灌の正室は誰なのか定かではありません。
道灌様の後継者を考えるには、まずこの道灌の「正室」は誰だったのか、も考えなければならないと思いますが、どうでしょうか。
そこまでの配慮をされる「正室」であれば、おそらくその人は「主筋」です。
「主筋」とは、主家扇谷上杉家から「降嫁」してきた人なのではないでしょうか。もしかすると道灌の正室は記録に無い持朝の娘とかなのではないでしょうか。
道潅の「正室」が扇谷家の人間だったとしたら。
扇谷上杉家には山内家宰長尾家から正室が入っています。であれば、同じように長尾家の娘から生まれた道灌の正室に扇谷家の姫が降嫁してきてもそうおかしくはありません。
そうだとしたら。
上杉定正が、暗殺を考えるほどに道灌を警戒したのはそのせいだったのかもしれません。
道灌が言った最後の言葉「当方滅亡」の「当方」とは。単なる傲慢さとはまた違う意味を持ってきます。
実子とされる資康が生まれたとき、道灌は43才でした。
資康の母もまた明らかではありません。
けれども母の身分が低ければ、やはり、資康は後継ぎとして認められなかったのではないでしょうか。まだ、そんな時代でもありました。
(そして、後継者とされたこの「甥」とされる人物「図書助」、そして「資家」。彼らはもしかしたら、太田家の血筋とともにこの「正室」の縁者の血も引いていたのかもしれません)
そうだとしたら。
自分を認めなかった扇谷上杉。道真。資康がこの二つを憎んだことは想像に難くありません。「父の復讐」を旗印に。
「自分こそ、太田家の正統である」と資康は叫んだのかもしれません。